ALS患者への安楽死事件 安楽死に反対ではないが、今回はアウトだ

 また、安楽死事件が発生した。その度にブログで書いているが、毎回残念に思う。日本の医師の多くはそうでないのだと思うが、こうした医師の「法意識」の欠落についてである。日本では安楽死を禁止しているのに、何故実行してしまうのか、ということではない。そもそも、日本では安楽死を絶対的に法的に禁止しているわけではない。このことを理解していない人が圧倒的に多いのだ。数年前に、文藝春秋が安楽死特集をやったときにも、この前提があった。実は、日本は、世界で最初に、安楽死の違法性阻却事由を判決のなかで示した国なのである。山内事件という、1960年代の判例で、そこで示した条件は、現在でもほぼ踏襲されており、安楽死を合法化している国の基準ともほぼ重なる。そして、日本の裁判で、安楽死を絶対的に違法であると認定した判決は、おそらくないと思う。私自身は、安楽死を一定の条件で容認する立場だが、合法とする法制定は今の段階ではしないほうがよいとも考えている。だから、本当に安楽死を望む人は、判例として蓄積されてきた違法性阻却事由を満たす形で、医師に依頼すれば、医師が責任を問われることなく実行できるのである。もちろん、それはぎりぎりの、自身の判断によるもので、他人に勧めるようなものであってはならない。
 では蓄積された条件とは何か。
・治療できない疾患であること(死期が迫っていることが付加される場合もある)
・耐えがたい苦痛があり、それを緩和できないこと
・医師によって行われること
・本人の確実な意志表示があり、それを確認できること
以上だが、オランダでは、他の医師による確認があることが条件として付加されている。
 オランダで、安楽死が合法化されるには、20年以上の裁判の繰り返しがあったし、実は合法化されたあとでも、いくつかの議論がなされている。それは、「精神的苦痛」は、この「耐えがたい苦痛」にはいるのかということ。例えば、交通事故で子どもをなくした親の苦しみは耐えがたく、治療できない、と認定できるかということ。これは、認定される方向になっていると思う。それから、本人の意志が確認できない場合、絶対に不可能なのかという点。子どもと、精神疾患、認知症などである。この点については、今回は、対象外にする。

 さて、今回の事件である。事実そのものは昨年の11月に起こったことで、京都府警はかなり慎重に捜査を進めたそうだ。その結果、許容される安楽死ではないと認定して、逮捕に踏み切ったということだ。逆にいえば、許容される安楽死がありうることを、警察は承知していることになる。
 結論的にいえば、今回の事例は、報道されている内容から考えれば、とうてい許容されるものではない。
 治療できない疾患であることは、認められている。耐えがたい苦痛があるかは、判断が難しいところだか、身体的苦痛は、ある程度緩和が可能だろうが、精神的苦痛、完全に寝たきり状態で、栄養も胃瘻で行っていた。オランダでは許容されるかも知れない。しかし、日本では、身体的苦痛が除去できる場合には、反対の意見も多いのではないだろうか。SNSでのやりとりが可能だったとすれば、その点も含めて、本人が苦痛をどのように考えて、死を望むのかという、明確な意思表示が鍵だろう。
 問題は、次の医師によって行われることと、本人の確認だろう。
 ここでいう医師というのは、当然その疾患にかかってから継続的に治療にあたっている医師という意味であって、大久保、山本医師のように、金銭を受けた上で、安楽死を行うだけのためにやってきた医師を想定していない。これは、明示的に条件として書かれていることは、私は見たことがないが、あまりにも当然のこととして解釈されるはずである。つまり、ドクターキリコを容認しているものではない。外国人の安楽死も認めているスイスでも、実際にやってきて、かなり長期間の接触をもって、安楽死を実行するのが妥当かどうかを判断する。今回の場合、両医師は、ネット上のやりとりで、当人に意志を確認しているだけで、実際に診断や治療行為をしているわけではない。だから、「医師による」という条件に、私は該当しないと考える。
 最後に、本人の意志確認である。これも難しいが、報道されている限りでは、認められないと思う。本人の意志確認という場合、本人と実行医師との間だけで確認されるのではなく、家族や治療行為に関わっている医療関係者、そして、オランダの場合には、その医療チームとは別の医師にまで、当人の安楽死したいという意志確認が可能になっていることを意味している。だから、書かれた文書がベストなのである。この場合、ペンをとって書くことはできなかったが、SNSは可能だったのだろう。しかし、このSNSは、実際にケアしている人や治療にあたっている医師は、知らなかったと思われる。知っていて、合意していれば、ケアする人が席を外している間に実行するなどということはしないはずである。オランダでもスイスでも、家族等が見まもるなかで実行されるのだ。この場合、ケアする人がその場にいたわけだから、本人の意志が本当に安楽死を望んでいるのかは、確実でない状況で実行されたと判断せざるをえないのである。
 従って、両医師を逮捕したことは、正しい措置だったと思う。
 安楽死を切実に望む人がいれば、それが正当に実行できる環境ができればいいと、私は思うが、そういう環境づくりを却って妨害する行為であると思うし、そういう事例が続くのも困ったことだ。日本では、医師に対する法教育があまりなされていないと思うのだが、どうなのだろうか。

 いろいろな見解が出されているが、そのなかに、「死ぬ権利」よりは「生きる権利」を大切にしたいというのがあった。当然だと思う。しかし、より大切にするのであって、「死ぬ権利」を否定するものではないと思う。否定したら、「生きる権利」が「生きる義務」になってしまう。死期が迫り、耐えがたい苦痛に苛まれていて、早く楽になりたいと望んでいる人に、「どんなに苦しくても生きなければならない、苦痛に耐えるべきだ」という権利は誰にもないと思うのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です