ピアニスト角野隼斗氏をめぐる議論について

 今、ネット上で、クラシック音楽界ではめずらしい「騒動」が起きている。最初に知ったのは、Windows Edge を開くと出てくる記事のなかでだった。そのときブログで書こうと思ったのだが、書かなかった。数日後、あちこちで議論が沸騰していることを知った。全部をフォローしているわけではないし、また、議論の全体像を知りたいとも思っていないので、これまで読んだなかで知ったいくつかの論点について考えてみたい。論点は
・来日する北欧の名門オーケストラであるヘルシンキ・フィルの独奏者となっている角野隼斗氏が客寄せパンダのようになっている。
・角野氏に関しては、オッカケの集団が異様に多く、通常のルートではチケットが入手できないことがほとんどで、彼の「音楽」「演奏」を聴きたいのではないのではないか。
・ヘルシンキ・フィル来日の宣伝文に、指揮者の名前が入っていないのはおかしい。
・角野氏は、もっとオーソドックスなクラシックの演奏家としての活動をやるべきではないか。 “ピアニスト角野隼斗氏をめぐる議論について” の続きを読む

ヒューマノイド・ロボット「モヤ」

 最近の中国におけるロボット開発の進んでいることには驚くが、「モヤMoya」というヒューマノイド・ロボットの記事があったので、映像を探して、いくつかみてみた。日本はロボット先進国などといっている人が多いが、こうした映像をみると、日本が進んでいるようにはとうてい思えないのだ。
 モヤというのは、女性で165センチのロボットだ。まず驚くのが、歩き方の自然さだ。まるでモデルのように歩く。そして、さまざまな表情をする。もちろん、まだ人間とまったく同じというわけにはいかないが、それでも、微笑んだりするのは、たしかに、微笑みと受けとれる。教師役とか、いろいろな仕事に活用できると想定しているようだが、こうしたヒューマノイド・ロボットが自然な人間と同じようなことができるのだとしたら、どのような活用が可能なのか、あるいは、それがいいことなのかを考えてしまう。 “ヒューマノイド・ロボット「モヤ」” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察4

五十嵐は、レーニンの膨大な文章群から、教育に関係する文章を抜粋して、「レーニン教育論」を著作として刊行したが、その構成について、村山士郎氏が強く批判していることがある。それは五十嵐が、レーニンの否定的な側面は無視しているということである。レーニンは間違いなく、優れた政治指導者であり、理論家であったが、実際の政治活動のなかで、批判されるべきいくつかの選択をしている。革命後、選挙を実施したが、自党が敗北したために、議会を解散したり、教育においては、党が教育を指導し、また校長に権限を集中させるなどの政策をとったといわれる。そうしたレーニンの主張は、五十嵐「レーニン教育論」には含まれてこない。議会の解散は、教育の領域ではないにしても、おそらく、そうしたレーニンの行動は、五十嵐のレーニン像には入ってこなかったのだろうと思われる。五十嵐には、おそらく、レーニン、マルクス、社会主義についての、つよい世界観、倫理があって、それにそうレーニンの叙述を探し、構成したのだと思う。 “五十嵐顕の人間類型的考察4” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察3

 宗教的人格・人間という点について。
 人間は多様な性格や人格をもっているから、人間類型というパターンに当てはめてその人の評価を固定的にするとしたら、おそらく誤解することのほうが多いだろう。しかし、ある人の行動が、なにかいつも共通の性質をもっているとしたら、そこに「人間性」、類型化できる人格を想定することは、その行動を理解することに役立つのではないだろうか。 “五十嵐顕の人間類型的考察3” の続きを読む

映画「砂の器」、前作よりずっと感動的

 「砂の器」のBDが来たので早速見た。
 小説については、かなり疑問を呈したが、小説で不自然なところ、がっかりしたところは、映画版ではほとんどが変えられていて、自然な進行になっていた。ただ、そのためともいえるが、逆にかえって不自然になっている面もあった。原作小説と映画化、ドラマ化の比較は興味ある作業だが、多くの場合、名作をドラマ化すると、不満が残る。しかし、この「砂の器」の映画化は、完全に原作を上回っているとおもう。
 主な殺人事件とその捜索の進行は、ほぼ原作と映画は同一だが、原作では3つの殺人と1つの自殺があるが、映画では、主要な殺人と自殺が事故死のように扱われて、その他は出てこない。したがって、推理小説的な複雑さは映画では単純化され、逆に不自然な殺人が行われないので、すっきりしている。ここが大きな違いだ。 “映画「砂の器」、前作よりずっと感動的” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察2

 たしかに五十嵐は、当時の有力な理論であった「国民の教育権論」について、基本的には支持しながらも、批判的な見地を遠慮なく提起していた。また政府批判などもきびしいものがあった。こうした姿勢は、「環境適応型」とは違うのではないかという疑問も当然ある。
 しかし、「国民の教育権」への批判的な見解についても、「国民の教育権論」の骨格そのものを批判、つまり、否定しているわけではなく、部分的な疑問を述べているに過ぎない。政府や権力への批判も、批判的陣営にいたわけだから、それは、むしろ陣営的に適応していたといったほうが、実態に近いだろう。
 逆に、もし、環境適応型ではなく、真に主体的自律的人間であったなら、違うように振る舞ったのではないかと考えられることがいくつかある。 “五十嵐顕の人間類型的考察2” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察1

 ここ数年間五十嵐顕の可能な限りたくさんの、つまり、全集に収録される文章のすべてを読んで、それまでの大学時代に受け、全集編集に参加するまで抱き続けてきた五十嵐顕像は、かなり根本的に変化することになった。それまでは、常識的に、戦闘的なマルクス主義教育学者だと思っていたが、そのこと自体は間違いないが、その前後にさまざまな変遷をしていること、そして、ずっと継続していた基本的人間型があることに気付いたのである。それは、端的に「環境適応型人間」と「宗教的人間・人格」である。その考えを共有する編集委員はなく、私の独自の規定であるが、私としては、かなりの確信をもってそう考えている。ただし、これは、非難とか批判ではなく、人間類型に属する人間であったとのリアルな認識である。
 まず「環境適応型人間」について、そう考える理由をあげよう。 “五十嵐顕の人間類型的考察1” の続きを読む

「砂の器」は清張の最高傑作か?

 松本清張の最高傑作ともされる「砂の器」を読み返した。何十年も前に読んで、細かいところはすっかり忘れていたから、初めて読んだも同然である。確かに、物語の壮大さ、筋構成の巧みさなど、さすがだと思うし、また、とにかく読んでいて飽きない、どんどん先に進んでいく感覚はすばらしい。
 有名な映画をDVDなどを借りて見たいと思っていたところ、NHKで放映されたらしいのだが、テレビをほとんどみないために、逃してしまった。ぜひ近日中に見たいと思っている。当然、公開された当時みたのだが、映画と小説とでは、かなり違う部分がある。映画では強調されている、ハンセン病の父親と子どもが全国を遍歴すること、そして、差別問題は、小説ではほとんど扱われていない。親子が島根県にたどり着いたときに、親切な警官(三木)が父を施設にいれ、子どもを引き取ったが、やがて行方不明になったと簡略に書いているだけである。だから、小説を読み返したときに、ずいぶん意外に思った。だから、原作は、比較的オーソドックスな犯罪・推理小説といえる。 “「砂の器」は清張の最高傑作か?” の続きを読む

モーツァルトP協23番聴き比べ

 まだ大学に勤めていた頃、同僚と音楽の話をしていたところ、(彼は学生時代大学オケでバイオリンを弾いていた)モーツァルトのピアノ協奏曲23番の話になり、彼は一番好きな曲でバレンボイムの演奏が気に入っていると話していた。私も23番は、モーツァルトのピアノ協奏曲のなかで、最高傑作だと思っていたのだが、私が普段聴いているのはポリーニとベームの共演のCDとDVDであり、バレンボイムはもっていなかったので、あまり深く掘りさげた話にはならなかった。 “モーツァルトP協23番聴き比べ” の続きを読む

都響定期演奏会、ベルディ・ワーグナー序曲バレエ集

 昨日(1月23日)、東京都交響楽団の定期演奏会を聴いてきた。指揮者は、4月から首席客演指揮者になるというダニエーレ・ルスティオーニという人で、私はもちろん初めて聴いた指揮者で、名前も初めて知った。曲目は、このようなプロオーケストラでは、滅多にないようなものだった。前半はベルディの序曲(運命の力・シチリア島の夕べの祈り)とバレー音楽(マクベスとオテロ)、そして後半はすべて序曲・前奏曲(リエンツィ、タンホイザー、ローエングリン、ニュルンベルクのマイスタージンガー)だった。こういう曲目は、通常名曲コンサートのようなところで演奏されると思うから、率直に驚いた。 “都響定期演奏会、ベルディ・ワーグナー序曲バレエ集” の続きを読む