『教育』の6月号に書評が出ており、矢内原忠雄に対する再評価がなされているとあったので、早速購入して読んでみた。教科研副委員長の佐藤広美氏の『植民地支配と教育学』皓星社 (2018/10/10)である。
本書を貫く主張は極めて明確であり、戦前の教育学者たちが、戦争協力したにもかかわらず、戦後そのことが等閑に付されてきた、そして、それを座視するのは、今の教育学者として許されないのではないかという基本姿勢に基づいて、戦時中に活躍した教育学者たちが、いかに戦争協力をしてきたかを暴いている。そうした研究をずっと行ってきたが、佐藤氏自身、ずいぶん批判があったという。
中内敏夫、思想の裁判史
小林千枝子、歴史研究は、誤りか否かを指摘するものではなく、分析するものだ
清水康幸、総力戦下では国策協力は不可避であり、教科研に存在した豊かな検討素材を検討できない単純な問題関心に基づく研究だ
木村元、政治的枠組みの研究では、教育学に内在する戦争責任は追求できない
等々。私自身は、欧米研究者なので、佐藤氏の研究を追いかけてこなかったから、批判も読んでいないが、本書を読んでみて、率直にこれは、教育学者の戦争責任追及を果たし得ていないと感じた。そんなことは課題にならないとは思わないのであるが。 “読書ノート 『植民地支配と教育学』佐藤広美” の続きを読む
教育行政学ノート5 大学の補講と授業料
教育行政学の講義では、質問がある場合、授業終了後紙に書いて提出してもらい、翌週回答するという形式をとっている。これは、他の科目で何年間かやっていて、私自身にも大変勉強になるものだ。今年は、その他の科目を担当しなくなったので、教育行政学でやることにした。それで、学校や大学の運営に関するテーマを予定しているのだが、それに関わる非常に重要な質問があったので、ここで考察することにした。
「大学の講義を休講にした場合、補講が行われないとどうなるのか。学生は授業料を払っているという意見にどう答えるのか。」
という質問だが、大変難しい問題を含んでいる。以下は、私が所属している大学のことも含むが、むしろ、一般的に日本の大学で行われているこを念頭におきつつ、また、アメリカやカナダの大学と比較して考えてみたい。 “教育行政学ノート5 大学の補講と授業料” の続きを読む
『教育』を読む2019.6 学校の市場化3
大学入試はどうか。
これは、まだ始まっていないので、はっきりとした見解をもちにくい。
日本の大学入試は、競争試験であるという、今のところ絶対的な前提がある。欧米のように、資格試験で済んでいる場合は、それぞれ民間試験を指定しても、それぞれに最低の基準点を設定すればよい。しかし、競争試験となると、違う試験を受けて、その点数を比較するための計算式が必要となる。ひとつの民間試験にするというのは、最初から、「政策的」に想定していないのだろう。
民間活用は既に進んでいる
民間試験を活用するということをまず考えておこう。 “『教育』を読む2019.6 学校の市場化3” の続きを読む
『教育を』を読む2019.6 市場化する学校2
今回は、英語教育に関するテーマである。江利川春雄氏の「巨大利権の実験場 小学校英語教科化と大学英語入試民営化」と題する論文を素材に考えたい。
安倍政権の教育政策の基調は「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」(教育再生実行本部2013)で、そこでは、「英語が使えるグローバル人材」の育成に特化しているという。
小学校英語の歩みが整理されている。
江利川春雄氏の批判
小学校英語の導入を最初に提起したのは、中曽根内閣の臨時教育審議会第二次答申(1986)で、「英語教育の開始時期についても検討を進める」としたのが始まりだが、文部科学省は一貫して消極的であったと氏は評価している。しかし、1998年改訂の学習指導要領で、「総合的な学習」のなかで、英語教育をすることを可能にし、2008年改訂で、「外国語活動」として5、6年に必修とした。このとき専門家の猛反対があったために、教科化は見送られたとしている。そして、2017年の改訂で、5、6年での教科化、そして、外国語活動を3、4年に引き下げるということになった。この間、2013年に、安倍首相の私的諮問機関である「教育再生実行会議」が、英語教育の早期化を提言して、それが反映されたのだという。 “『教育を』を読む2019.6 市場化する学校2” の続きを読む
鬼平犯科帳 誤認逮捕を考える
「小説とドラマの相違」は一回とばして、「誤認逮捕」に関連する作品を扱う。これは、現代的テーマでもある。
原題が「鈍牛(のろうし)」で、ドラマでは「男のまごころ」。
平蔵が留守のときに、放火犯が捕まり、捕まえたのは、普段手柄のない田中貞四郎だった。自白しているので、平蔵帰宅の2日後に火あぶりの刑が執行されることになっていた。しかし、帰宅の夜、酒井同心が密かに平蔵に、粂八がきいた噂として、自白した亀吉が放火などするはずがないし、盗んだという8両も出てこないので、まわりの町民たちがおかしいといっている、ということを伝える。そこで、平蔵は翌日、さらし者になっている亀吉と、見つめる見物人の表情をみて、亀吉の犯行に疑問をもち、次々と手をうつ。町奉行に処刑の延期を頼み、亀吉が奉公していた柏屋にいって、話を聞き、そして、亀吉を捕まえて尋問した田中貞四郎の手下の源助を呼んで、「俺に対して、亀吉が犯人だと断言できるか」と詰問すると、うなだれてしまうので、源助を役宅の牢にいれる。そして、亀吉がいれられている牢に出向き、平蔵が、当日のことを聞くと、柏屋も罰せられるというと、自分はやっていないこと、当日は、柏屋の女主人の病気回復の祈願をして神社にいっていたこと、犯人をみたことを白状する。誰であるかは言わないので、翌日から平蔵と酒井が、晒されている亀吉の見張り役を務め、数日後、亀吉がじっと見つめていた人物安兵衛を逮捕すると、自白した。 “鬼平犯科帳 誤認逮捕を考える” の続きを読む
学校教育から何を削るか10 PTA
PTAと差別の議論
2、3年前だったか、PTAでの差別問題がメディアを賑わせたことがある。卒業式の記念品を、PTA会員ではない保護者の子どもには与えなかったとか、登校班から外されたというようなことが、話題の中心だった。差別はしないように、というような感じで終息したように記憶するが、しかし、問題の立て方がずれている。逆に考えれば、PTA会費で購入した物品を、会員でない者にも配布するのであれば、会員からクレームが出てもおかしくない。会費を払っていなくても配布すべきだという結論は、私には納得できない。そもそも、PTA会費で、卒業のお祝いを「個人対象」に贈るという行為自体がおかしいのだ。PTAという任意団体が行うことの領域に対する「けじめ」感覚が欠如していると思う。登校班の件も、PTAがやることに無理がある点では同じだ。ただし、掘り下げる必要がある。
日本では登下校は誰の責任範囲なのかが、不明確である。
ヨーロッパは「保護者」の責任であるという社会意識があるようだ。だから、小さい子どもは親が送り迎えする。アメリカは、自治体の責任なのでスクールバスを走らせる。法的に明確になっているかは、詳らかではないが、大方そのように運営されている。しかし、日本は、なんとなく学校の責任であるように思われているのではないだろうか。そのために、入学間もない一年生は、担任教師が途中まで送っていったりすることが多い。しかし、いつまでもできるわけではないので、登校班を作って、上級生がリーダーとなり、途中ボランティアの保護者や地域の人が見守る。 “学校教育から何を削るか10 PTA” の続きを読む
人工透析問題再論
大分前の文章だが、山田順という方の「本当に医者が死なせたのか?「人工透析中止」問題で続く“偽善報道”への大いなる疑問」という文章を読み、かなり問題があると思ったので、再度書くことにした。(https://news.yahoo.co.jp/byline/yamadajun/20190320-00118973/)
題でわかるように、毎日新聞を中心とする人工透析中止問題の報道に「偽善報道」「エセヒューマニズム」という悪罵を投げつけている。 “人工透析問題再論” の続きを読む
ウィンナワルツのウィーン風
昨日は、私の所属する市民オケのコンサートだった。観客も多かったのは、曲のせいか、コンチェルトをやったせいか、あるいは、天気がよかったせいか。演奏する側としては、やはり聴衆が多いといい感じだ。ミスもいくつかしてしまったが、眠気覚ましのチェコレートを食べたせいか、途中、疲れはしたが、最後まで気力がもった。
ブログにこれまで、自分の出た演奏会について書いたことなどなかったのだが、普段考えていることを、今回の演奏曲目で再度考えさせられたので、書いてみる気持ちになった。
前プロという最初の曲で、ヨハン・シュトラウスの「春の声」を演奏した。演奏会全体のテーマを「春」としていて、最後のシューマンの交響曲第一番が「春」という題なので、5月にふさわしいというわけだ。「春の声」は、シュトラウスのワルツでも、特に人気の高い作品で、メロディーはクラシック音楽のファンではなくても知っているだろう。ところが、ウィンナ・ワルツというのは、非常に演奏が難しく、ちゃんとしたウィンナ・ワルツはウィーン・フィルの専売特許のようにいわれている。ベリルンフィルにしても、シカゴにしても、シュトラウスのワルツをやっても、ウィーン風にはやらない。欧米文化を土台にしているひとたちでも、感覚的にできないのだ。 “ウィンナワルツのウィーン風” の続きを読む
鬼平犯科帳 事実と小説とドラマ2
世界的に有名な文学作品の映画化は、失望することが多い。作者は当然、小説とか演劇と形で構想するから、それにふさわしい内容と形式をもたせる。また、小説は、いくら長くても、内容が惹きつけるものであれば、読者はそれだけ満足する。しかし、映画にすれば時間的な制約があるし、またテレビドラマの場合には、制作費や、時間的推移(連続ドラマならば、空きの日数がある)などの制約が起きる。もちろん、映像は、文字よりもリアリティがあるから、原作にはない効果を出すこともできるのだが。そこで、原作とは異なる展開になったりもするわけだろう。
鬼平シリーズはどうだろうか。原作の小説は、月刊誌の一回読み切りで、一回ごとに結末がある。(晩年の作品は、連続ものがいくつかあるが)ドラマ制作者の声では、原作を45分のドラマにするためには、鬼平シリーズは多少話題が少ないそうだ。その場合、原作にはない挿話が必要となる。最も単純には、何か食べているときに、会話を多くするとか、犯罪ものなので多い「追跡」の場面、いろいろなショットをいれるとか。しかし、比較的短い話の場合、ドラマとしての展開が単調になるために、原作とは異なる内容を挿入することが、鬼平シリーズではたくさんある。そして、その多くは、ドラマとしての魅力を高めている。 “鬼平犯科帳 事実と小説とドラマ2” の続きを読む
『教育』2019.6を読む 市場化する学校1
6月号の第二特集が「市場化する学校」となっており、いくつかの論文が掲載されている。非常に重要なテーマであり、私も考えねばならないことなので、何度かに分けて検討したい。今回は最初の小池由美子氏の「教育産業の介入と受容させられる学校 学校を市場に差し出す『学びの基礎診断』」を読みながら、考えてみたい。
この題名だけでも、「教育産業」「市場」「学びの基礎診断」という重要な言葉が出されている。
本論文で扱われている内容を列挙すると
・高大接続
・学びの基礎診断
・グローバル人材
・大学入試の調査書の拡大とeポートフォリオ
センター試験改革
背景として、大学入試のためのセンター試験改革を考える必要がある。入学試験制度というのは、どの国でもやっかいな問題で、どのように改革しても、欠陥が現われてくるものだ。だから、数年から10年単位で必ず変更がなされている。センター試験だけではなく、大学入試に関して、様々な問題が生じていることは間違いなく、立場によって評価も異なるだろうが、私の考える「現象的」な問題を整理してみる。 “『教育』2019.6を読む 市場化する学校1” の続きを読む