松本清張の「北の詩人」は、実在の人物林仁植という人物をモデルにした小説だが、史実とどの程度違い、合致しているかは、まだまだわからない面があるのだそうだ。それは資料的に現在でも絶対的に不足しているからということらしい。
小説では主人公の名前は林和、ソウルに生れたプロレタリア詩人ということになっている。日本の植民地時代に日本の特高に捕まり、協力を条件として釈放される。ただ、日本の場合と違って、転向声明などをだすのではなく、あくまで非転向という体裁をとるが、実際には協力者、つまりスパイとなるという設定である。この点は、実際に日本と朝鮮における特高警察の対応に違いがあったのかどうかはわからないが、小説のなかで、戦後、つまり朝鮮にとっては解放後、アメリカ軍に協力させられるなかで、かなり複雑なことを要求されるので、日本のほうが楽だったという感想を述べるくだりがあって、考えさせられた。
戦後、林和は、上記のように、解放闘争に参加しているなか、密かにアメリカに協力させられるようになる。それは、アメリカ軍が、林和の戦前の日本特高への協力の証拠を握っていることを脅しとして使ったからで、少しずつ少しずつ協力の度合いを強化されていく。
それは、表の顔として活動している芸術運動のなかでは知られることはないのだが、日本と同様に、当初解放勢力的に振る舞っていたアメリカ占領当局が、対ソ関係によって、次第に左翼運動を弾圧するようになり、運動側は逆に過激化していくなかで、林和は、アメリカの意志によって、北朝鮮に移動し、そこで北に協力しつつ、アメリカに情報提供をするようになっていく。
小説では、北に入ってからの具体的活動は、清張自身によっては語られず、もっぱら朝鮮戦争後に、アメリカのスパイとして摘発された訴訟資料の形で示される。結局、同様に北で活動していた南出身のひとたちと一緒に死刑判決を受ける。小説で描かれる活動内容と、その判決文で示される内容とはまったく同じではないのだが、それは最初に書いたような事情で、資料的制約によって生じたものだといえるだろう。
したがって、林仁植らが本当にアメリカのスパイであったのかはわからない。当時北朝鮮の支配者であった金日成は、南出身の党員を大量に粛清しており、その名目としてアメリカ、あるいは韓国のスパイという理由が使われた可能性があるからである。
当時の朝鮮における政治組織の状況やアメリカによる統治政策の変化等のことは、私はほとんど知らないので、小説がどの程度事実を反映しているのかはわからないが、それを抜きにしても、小説として非常に面白い。主人公の林和は、どうやら結核を病んでいて、常に体調不良なのだが、アメリカで開発された新薬が、戦前の林和の転向資料だけではなく、協力を余儀なくされるひとつの要因となっている。つまり、よくいわれるようにスパイは決して信念そのものが変更されることで、裏切りの結果としてのスパイになるのではなく、弱みを握られてスパイにならざるをえなくなってしまうということが、二重の弱みとして示される。そして、林和自身によって、「死にたくない」という感情と、いま死んでしまえば、裏切り行為がばれずにすみ、栄光の解放運動の詩人として残るという、極めてアンビバレントな感情に揺れ動く。
また、同士によって、知らない場所に連れて行かれるのだが、最初はその意味がわからない。少しずつ想像していき、やがてリアルな協力を求められていくのだが、当人にもわからない形で進むので、読者としても、考えざるをえない。推理小説の謎解きのようなものだが、通常の犯人探しなどとはずいぶん違うので、とても興味深く読み進めることができる。
ただ、林和よりずっとリーダーとしての地位が高い者も何人か、北に渡ってスパイとして摘発されるのだが、なかには戦前非転向だった者もいて、何故彼らがアメリカのスパイになっているのかは、小説ではまったく不明であるし、また、彼らの活動はほとんど触れられないので、林和の物語としては詳細であるが、当時の共産主義運動全体、そしてアメリカの関わり、李承晩らとの関係などのマクロな関係は、まったく語られない。資料不足ということで仕方ないかも知れないが、不満は残った。