私が所属する市民オーケストラが、秋にハンス・ロット作曲の交響曲一番を演奏することになった。実は、そのアナウンスがあるまで、ハンス・ロットという人をまったく知らなかった。団員の多くがそうだったし、現在でも知る人ぞ知る程度の知名度しかない人だ。
だが、演奏するからには知らないといけないので、youtubeで聴いてみたし、昨日パート譜が配布されたので、一通り弾いてみた。wikipediaその他で調べてみると、興味深い人であることがわかった。
有名でないのは、死後100年にわたって、まったく知られないまま経過し、1989年に、初めて演奏されたことでもわかる。そして、埋もれてしまった理由も明確だ。
ロットは、ウィーン近郊に生まれたオーストリア人で、両親とも音楽に関係する人だったが、ロットが子どものころに、ともに亡くなってしまい、ロットは奨学金をえつつ、ウィーン音楽院で学ぶことができたが、オルガン弾きなどのアルバイトなどもしていたという。オルガンをブルックナーに学び、同じく学生だったマーラー(マーラーが2歳下)と同室だったこともあるそうで、この二人は、ロットを非常に高く評価していたとされる。しかし、25歳のときに、亡くなってしまい、結局、作曲家として認められることないまま、1世紀が経過したのである。ずっと以前に、マーラーのことをいろいろ調べていたときに、マーラーが学生のころに、マーラーよりも優秀だが、若くして精神を病んで自殺したひとがいる、生きていたらマーラーよりも優れた作曲家になった可能性がある、という文章を読んだことを思い出した。それがロットだったと思う。しかし、直接の死因は自殺ではなかった。
生涯も実に短い記述で済んでしまうほどなのだが、最も驚いたのが、世に出られず、精神を病んでしまうきっかけをつくったのが、ブラームスだったということだ。ロットが学生のときに書いた交響曲一番の第一楽章を、コンクールに提出したが、落選しただけではなく、酷評された。しかし、めげずに第四楽章まで完成して、ブラームスにみせたところ、君は才能がないから、音楽は諦めたほうがいいとまでいわれたそうだ。ロットはショックを受けて、精神疾患となり、鬱病で自殺未遂を繰りかえしたという。そうして、結核に罹って死んでしまうのだ。
実は、マーラーも同じような目にあっている。マーラーも作曲コンクールに提出した作品を、ブラームスに酷評され、賞をとれなかった。しかし、マーラーという人物は、非常に強靱な精神の持主で、ユダヤ人として差別を受けながら、精進を続けたし、歌劇場での旧弊と闘い続け、作曲家として、必ずしも好意的に受け取られるばかりではなかったが、「いつか私の時代が来るだろう」と確信していたという。そういう強い精神をもっていなかったことが、ロットの悲劇になったのだろう。同じような運命を辿りそうだったラフマニノフは、幸いよい精神科医にめぐり合って、鬱病から抜け出すことができたのだが、ロットとマーラーという正真正銘の天才を退けたブラームスの偏狭さには驚く。
作曲家は、新しいものを創造するひとだから、あたらしいこと、つまり、既成のものではないものに寛容なひとが多い。ベートーヴェンは、まったく作風の違うロッシーニを高く評価していたし、シューマンは、ワーグナーの新しい音楽に高い評価を与えていた。ショパンを有名にすることに、一役かっていたことはよく知られている。ブラームスに酷評されたマーラーは、シェーンベルク、アルバン・ベルク、ウェーベルンという、まったくそれまでとは違う音楽を生み出した3人の擁護者であった。モーツァルト殺害疑惑がかけられていたようにいわれるサリエリは、モーツァルトを高く評価していたことも、実は有名な事実だ。
そういうことを考えれば、ブラームスの非寛容な態度はどうだろう。ワーグナー党との争いは、ブラームス自身の考えであったかどうかは、かなり疑問に思っているが、少なくとも、当時の有名な音楽家、作曲家が、ワーグナーに傾倒するひとが多く、ブラームスを尊敬していても、その影響を滲ませる名曲をつくったひとは、あまり思いつかないのである。そして、ブラームスが、若い作曲家を育て、世に送りだしたというひとも、あまりいないのではないだろうか。ブラームス自身は、若いころに、シューマンに大いに助けられたにもかかわらず。それは、ブラームスが、ロマン主義的な作曲家であったにもかかわらず、主観的には、極めて保守的な伝統主義者だったことが原因なのか、あるいはクララ・シューマンへの思いから、結婚を決意した女性との結婚に踏み切れなかった煮え切らない性格のためなのか、それはわからない。だが、優秀な若い作曲家志望のひとを励ます姿勢は、あまりなかったようだ。もし、ロットがブラームスの励ましで、より努力を継続できたら、その後の音楽界が変化があったことは、間違いないように思われる。
ロットの第一交響曲が、それほど魅力的な音楽とも思われないのだが、しかし、マーラーに大きな影響を与えたことは間違いない。マーラーを思わせる部分がたくさん出てくるからだ。わずか20歳のときに作曲した50分を超える大作であり、マーラーの一番よりずっと早く書かれている。マーラーよりも優れた性能の持主であったと、確かにいえそうだ。ブラームスという人物は、どうも好きになれないのだが、その度合いが強まった。