Ⅰ 慣習的な作法や授業方法
ものごとは効率的に行うことが大切である。1時間かかることを、30分でできるようになれば、それはとてもよいことであると考えるし、30分でできることを1時間もかかってやるのは、大いに改善の余地があると考える。学校教育の「慣習」のなかには、非常に多くの「余計に時間をとる」ものが多い。授業時間は決まっているから、そうした慣習的時間の無駄があれば、それだけ授業の実質的内容は減少する。もちろん、理解できていないのにどんどん進むのは、むしろ効率に反する。もちろん、教師によって、授業のやり方は異なるから、一慨にこれは無駄ということはできない。あくまでも、以下のべることは私の私見であるか、教師の判断で減らせる内容ばかりである。こうした考えもあるのかと参考にしてもらえればと思う。
私が無駄と感じている最たるものは、教師が質問し、子どもが挙手し、さされた子どもが立ち上がって答える。最近は、「いいですか」と当の子どもがみんなに問いかけ、「いいです」との答えがあると、座るという一連の行為がある。
このやり方は、時間の無駄であるだけではなく、いくつかの教育上の問題を含んでいる。
まず時間だ。指名されてから、立ち上がり、椅子を整え、回答してから、「いいですか」と聞いて、「いいです」を確認してから、また椅子をひいて座る、という一連の動作にかかる時間を、測定すると、だいたい大人で20秒程度であり、小学生なら30秒はかかるだろう。一度の授業に何人答えさせるかは、もちろん一定ではないが、多くの教師は、できるだけたくさんの子どもを指名して答えさせたいと考えているはずである。20名答えるとすると、その慣習的行為だけで10分必要となる。45分授業が、実質35分授業になってしまうのだ。教師であれば、最後あと5分あれば必要なことをできるのに、と思った経験はだれでもあるだろう。それが10分ロスなのだ。
この回答の際の「作法」は、単に時間の無駄だけではない。
子どもは、あまり明確に意識していなくても、なんとなくわかった感じになると、挙手するものだ。ところが、立ち上がり、椅子を整え、姿勢を正して、いざ言おうとすると、自分が何をいいたかったのか、忘れてしまう、というような情景は、ごく日常的なものだ。私が教育実習生の研究授業を見学にいくと、必ずそうした場面に遭遇する。この場合、なんとか思い出そうとするから、どんどん時間が経過していく。もし、指名されて、すわったまますぐに答える作法だったら、回答できた可能性が高いのである。
日本ではあまり話題にならなかったが、「Wave」というドイツ映画がある。原作は、アメリカの高校で実際におきたことをノンフィクションとして書いた同名の本だが、それをドイツ人が映画化したものである。歴史の教師が、ナチスの時代を教えるときに、どうしたら効果的に理解させることができるかを考えて、ナチス的作法を授業のなかに取り入れた。そのひとつが、教師に差されたときの答え方であり、それがまさしく、日本で日々実践されているやり方なのだ。
きちんと手をあげる、指名されたら「ハイ」と答えて、立ち、椅子をきちんといれてから姿勢をただし、大きな声ではっきりと答える、終わったら、また椅子をだして座るというものである。その教師は、まず最初にこれを導入している。映画を見た観客も、これこそナチスのやり方なのだ、と印象づけられるわけである。ナチスのやり方と同じだから、すべて悪いとはいえないだろうが、明らかに、このやり方は、教師が上の立場にあることの確認のようなものである。教師の権力性を最大限払拭したなかでの実践こそ、子どもたちにもっともよく浸透するのである。
「いいですか」にも問題がある。
「いいですか」と回答者が聞いたときに、違いますという声がでるときは、まだよい。多くの場合は、「いいです」と多くの子どもが答え、「そうだね」と教師が相槌をうって次に進むというパターンになる。回答者が間違えたときには、誰かが異論を唱え、間違えに関する説明が、そのあとで行われる。しかし、「いいです」で済んでしまう場合、実は正しい答えをだせなかった子どもがいるはずである。もちろん、ベテランの教師であれば、ほとんどの子どもが「いいです」と答えても、なかにはまだわからない子どもがいることを、きちんと掌握し、対応をするかも知れないが、まだ未熟な教師には、その種の掌握はできない可能性が高い。だから「いいです」の大合唱の影で、おいてつかれる子どもが見過ごされてしまう可能性が高いのである。
斉藤喜博は、子どもが回答する際の起立するやり方をずっと批判していた。実際に、斉藤喜博の学校の実践をフィルムに納めた『芽を吹く子』には、国語の授業で、解釈を議論する場面がいくつか出てくるが、だれも起立などしないし、また、指名されないのに、自由に話したりする。斉藤喜博実践における子どもの回答スタイルと、通常のスタイルを比較すると、回答する側も、また、聞く側もかなり違う。
斉藤喜博の指導する実践では、子どもは、自然にしっかりと話しているし、それを他の子どもたちも、耳を傾けていることがよくわかる。ところが、私がよく見る授業では、子どもたちは、まずハイハイハイと大きな声で指してくれるように要求するのが普通だ。もっとも、声だすことが禁止されている場合もあるようで、それでも、動作によって、指してくれと要求する。指されることの競争をしているようだ。そして、指されないと、ああ残念とばかり、意気消沈し、あまり回答を聞こうとしない傾向にある。
形式主義的なやり方だと、実質が伴わなくなりがちだ、という典型的な姿が展開されるのである。
次に授業の開始と終了のときの挨拶である。
これは、別に時間の無駄という問題ではない。学校教育のなかで、無視しがたく進行している「形式主義化」である。私の時代でも、授業の開始と終了時に「起立・礼」という号令と動作はあった。しかし、今は、もっといろいろな付け足しがある。「これから、*時間目の国語の授業をはじめます。よろしくお願いします。」(日直)「お願いします」(全員)などといって礼をする。終了時には、「これで*時間目の国語の授業を終わります。ありがとうございました。」「ありがとうございました」という具合である。
私自身の授業に際して、赴任してから20年間たったころからだろうと思うが、授業を終わったあと、片づけをしている私の前を通って帰っていく学生たちが、「ありがとうございました」と言っていくようになった。もちろん全員ではないのだが。以前は、そんなことを言う学生はいなかったのに、なぜ、少なくない学生たちが言うようになっていったのか。教育実習の変化にやがて気づいたのである。私は、赴任したときから、義務でもないのに、(今は義務になっている)実習生の研究授業を参観してきたので、小中の現場での変化も感じているが、起立・礼の際に、付加的な文言がはいるようになったのも、そのひとつである。
では、何がいけないのか。丁寧に挨拶するのは、当たり前ではないかというかも知れない。気持ちよく授業に入ったり、終わったりすることに寄与するので、いいことに違いないではないかという見解の人も多いだろう。
しかし、疑問点がふたつある。
ひとつは、「ありがとうございました」と、教師が言わせていることである。人と会ったときに、「おはよう」といったり、何か親切にされたら「ありがとう」といいましょうと、教育のなかで指導することは、当然のことだろう。しかし、授業が終わったときに、自分の授業に対して、「ありがとうございました」と言わせる感覚は、私には非常に違和感がある。
そして、もっと重要なことは、こうしたやりとりが形式化していることである。
私の感覚では、授業を開始するときに、別に子どもたちが起立する必要もなく、教師が、授業をはじめること、今日はこんなことをやると述べ、それを子どもたちが、期待感をもって聞いている、そして、そのまますうっと授業にはいっていくほうが自然に思われる。終わるときにも、理解できたという満足感が表出されたり、あるいはまだの子どもが、質問にくる、という雰囲気こそが、授業をした感じになれるのではないか。
もちろん、形式そのものを否定するつもりはない。形式の実行が、実質的なことを阻害してしまうことに反対しているのである。形式があって、そこに実質を入れ込むのではなく、実質的な行為が積み重ねられて、そこから形式が生まれていくというプロセスこそが、必要であり、更にその形式も絶えず検証される必要がある。。
Ⅱ 定型的で無駄な時間の使い方
(1)国語の段落分け
国語の授業では、決まったパターンがあるようだ。新しい文章にはいると、まず全文を読む。そして、新しい漢字を書き出して、読みと意味を確認する。意味のわからない言葉を辞書で調べる。次に、段落分けをする。それから、分けた段落にそって、文章の解釈をしていく。もちろん、みながこのように統一されているわけではないだろうが、多くのパターンがこのようになっていると思われる。
私の見た授業は、以下のようなものだった。教育実習生の研究授業である。研究授業だから、当然ベテランの指導教員のチェックを受けている。
まず、教師が、「この文章は3つの段落に分かれています、それを分けてみましょう」と課題をだしてタイマーをセットする。最近の学校には、必ずといっていいほど、タイマーがあり、「この課題は*分でやります」といって、時間がくるとタイマーがなり、「終わり」ということになる。この種のやり方も、私には違和感がある。せっかくあと少しでできる、あるいはわかりそうだというときに、強制的に時間でやめさせることが、能力を発達させるのに有効だろうか。タイマーなどを使わず、みんなのでき具合をみながら適当と思うところでストップする。ストップする前に既にできている子どもには、課題をだしておく。そいいうスタイルが私にはしっくりくる。
それはおこう。
前の時間までに、形式段落で番号が振られているので、子どもたちは、すぐに分ける作業にはいる。時間がくると発表である。
この授業では、4通りの答えが出た。そして、それぞれ何故かを説明させる。子どもたちの説明から、教師は、内容に関する共通点を引き出して、3つの内容に分け、それが一番適合しているのは、*番目だね、といって正解答を示す。要するに、導入と本論とまとめのような感じとなっているのだが、本論が長いので、次にそれをふたつに分ける課題をだす。時間がきて発表されると、二通りの答えが出た。同じように、子どもに説明をさせ、正しいのは、こちらだと正答を示して、予定通り時間となった。当初の授業案の計画の通りに進行して、きちんと終わったわけである。
さて、私が普段感じている国語の授業に関する疑問が、そっくりここにも現われていた。ほとんどの国語の授業の定型にそったものであり、また、担当教師の指導を受けているものなので、実習生に限らず教師たちもこうした授業を行っていると思われる。
疑問の第一は、「正答主義」である。扱っていた文章は、生物体は円筒形だという全体の主張があり、この本論部分は、前半が円筒形になっている具体例が様々書かれている。そして、後半は何故円筒形がよいのか、実験をしながら追求している。ふたつの見解が出たのは、前半と後半をつなぐ移行段落のような部分だった。これを前半にいれる考えと、後半にいれる考えとに分かれたわけである。これまで具体的に円筒形の生物をみてきたが、それを実験で確かめてみましょうというようなことが書いてある短い段落だ。極端な話、どっちにいれてもよいし、また、つなぎの部分の独立した部分だと解釈しても、本文全体を理解する上では、別に差し支えない。私からみると、正答は3つあるとしてもよいような文章だ。もし、時間があり、自由な議論がなされるクラスならば、違うとされた子どもたちは、異論を述べたに違いない。しかし、その時は、後ろに見学者が数名いたし、時間も迫っていたので、子どもたちは、素直に受け入れていた。
授業が終わって、「指導」ということになるのだが、そのことを早速問題にしてみた。ドラエモンの「どこでもドア」を使って、のび太の部屋から雪国にいけるとする。「どこでもドア」を通ったらすぐに雪国になる。では、「どこでもドア」は、のび太の部屋にあるのか、雪国にあるのか、それともどっちでもないのか?もちろん、実習生はその意味するところはすぐに理解した。つまり、どれも絶対的な正解ではなく、どちらでもいいのだ。そもそも文章の解釈で、そういうことを決めなければ文章を理解できないなどということは、実生活では存在しない。決めなければいけないことがあるとすれば、そういう試験問題がだされたときだけだ。しかし、それは本末転倒だろう。試験のために解釈があるわけではないのだから。
「でも次に文の構造を分析するのに、段落分けは一応しておかないと」
「どれも正しいけど、次のことをやるのに、全部正しいだとやっかいなので、これを採用しておこう、というのでいいのではないか?」
そんなやりとりをした。
第二は、段落の分け方の方法である。学校の国語の授業では、最初にいくつの段落に分けられるかを決めて、次にどこで分かれるかを考えていく。それ以外の方法に出会ったことがない。私は、本を読むのが商売の一部分だが、そんな読み方をすることは絶対にない。まず、形式段落ごとの内容を把握して(必要なときには要約)、それから、内容の関連をつけながら、必要に応じて、大きなまとまり(段落)を分けていく。そうして文の構造を把握する。だから、いくつに分かれるかということは、最後に決まることで、最初から決まった数値で段落分けなどは絶対にしない。そう指摘すると、それは自分でもそうしていると答えた。おそらく、誰だってそうするだろう。では、何故、日常的にはやらない方法を、学校ではさせるのか。それが私にはわからない。学校の方法では、文章の読解力は、通常の方法よりずっと身につきにくい。では何故か。
おそらく、学校教育によくみられる「形式主義的発想」なのだろう。最初に作業の形式を決め、その形式にあわせて内容を処理していく。そうすると、枠からはみ出にくい、ということなのだろうか。しかし、枠からはみ出るような解釈が出てくるところに、みなで考え、解釈する面白さがあるし、そうしてこそ、読解力がつくのだが。
形式主義は、時間の節約であるように見えるが、実は、回り道をすることが多いために、無駄な時間を使うことになりがちなのだ。
(2)算数で無駄に考えさせること
近年、学習指導要領での強調点の影響だろうか、やたらと「考える」ことが、算数の授業で強調される。「**のやり方を考えてみよう」という課題がでて、いくつかでてくると、となりの人に話してみようとか、他の方法がないか出し合ってみようとか、次に、コミュニケーションが指示される。しかし、算数で、毎時間「考える」要素などあるのだろうかと思うのだが、本当の意味で、子どもたちに「考えさせている」授業には出会ったことがない。その証拠に、「考えてみよう」というと、すぐに子どもたちは手をあげるのが普通だ。すぐに出てくる答えは考えた結果ではありえない。既にわかっていることを言おうとしているだけだ。考えるということは、これまでの知識では解けないことがあるから、何か違う知識や方法を持ち込む必要があるということだ。しかし、私がこれまで見た算数の「考えさせる」場面は、すべて、既に子どもが充分にわかっている組み合わせを思い出させている作業でしかない。既にわかっていることを、時間をとったり、クラスメートとコミュニケーションさせる必要があるのだろうか。時間を無駄に使っているとしか思えないのである。
私が見た授業の一例をあげてみよう。
「15mのくじらは、3mのくじらの幾つ分でしょう。」という問題が示される。教師はちゃんとそれぞれの大きさに見越したくじらの絵を用意して、黒板に貼る。次に「この問題を解くために、どんな方法があるか考えてみよう。」
さっと手をあげる子どもたち。3人指す、そして、3通りの答えがある。(割り算を使う、掛け算を使う、テープで測る。)
「そうだね。じゃ、みんなも考えて、自分が一番いいと思うのを、ノートに書いてみよう。」
子どもたちは、ノートに書き始める。タイマーセット。
時間になると、机間指導している間に、目星をつけておいて、教師が指名し、指名された子どもは前に出て、板書する。
それぞれのやり方の説明を説明して、「じゃ、それぞれのやり方の共通点を考えてみようか。」「掛け算のやり方も、テープのやり方も、みんな割り算を使っている。」「そうだね、こういうときには、割り算を使えばいいんだね。」
それが一時間使って考えた結論である。
これは、学習指導要領を充分に現場が理解していないからなのか、あるいは、学習指導要領そのものに生煮えなところがあるからなのか。私には、後者のように思われる。
私が後ろで見ているかぎりでは、子どもたちは、「考える」という作業をしていない。復習をしているだけなのだ。
実際には、憶えていることを、再度「考えているかのように振る舞わせる」のではなく、憶えていることを使える作業をさせるほうが、ずっと効率的な学習になるはずである。そして、算数の力も向上するのではないか。
逆に、本当に考えることが必要なときには、さっさと「こうすればいいのだ」と教えているのではないか。
算数で本当に考えなければならないのは、新しい単元に入ったときだろう。これまで学習してきたこととは違うことな学ぶわけだから、「復習」では太刀打ちできない。こういうときにこそ、しっかり考えさせる必要がある。しかし、新しい単元では、そのままでは子どもはいくら考えても、どうしたその課題に対応できるか、その解法を見いだすことは難しい。そのとき、「その材料を使って、考えればわかる」ような示唆を与えるのが教師の役割だろう。しかし、与えすぎれば、結局答えを教えてしまうことになる。少なすぎれば到達できない。つまり、どのように「考えさせるか」は、教師自身がそうとう考えなければならない作業なのだ。これは、ビゴツキーが「最近接領域」と呼んだ重要な概念である。本当の意味で、「考えさせる」授業を、学校ではぜひ実践してほしい。