学校教育から何を削るか 運動会と合唱祭


Ⅰ 運動会と合唱コンクール

 運動会は、おそらく最も多く、通常の授業を潰す行事なのではないだろうか。
 学校の教師たちは、ほとんどが学校教育での勝者、あるいは、学校時代によい思い出をもっている人たちだから、最も重要視される行事の運動会を削る対象としてあげられると、「えっ?」と言う人がほとんどだ。大学での授業で、運動会の必要性を議論しても、多くが当然あるべきものという見解を示す。
 しかし、実は、運動会こそもっとも嫌な思い出だという人も、少なくないのだ。徒競走をやれば、確実にビリの子どもがでる。いつもビリになる子どもにとっては、運動会は悪夢でしかない。だからといって、私自身、実際にそうした経験があるという学生に出会ったことがないのだが、よく嘲笑的にだされる「全員一緒にゴール」などというのも、もちろん、実際にやるのは馬鹿げているだろう。
 運動会準備が大変であることは、現場でもかなり意識されており、少しずつ運動会を縮小する学校も出てきている。特に、異常気象で5月6月、そして秋でも暑すぎる気温の日が多くなり、練習中に倒れる子どもが以前よりも多くなっていることも影響している。
 教師であれば、運動会の練習のために、かなりの授業がつぶされていることは実感しているだろう。
 文科省の統計で、運動会のために潰される授業数は、現時点では分からなかったが、ある学校の教師はブログで次のように書いている。
 「運動会の練習の時間をどれぐらいカウントしたのかはっきり覚えていないが、全体練習も含めて、20コマ(時間)は下らないのではないだろうか。」(畦道日記http://azemichi-nikki.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-9eca.html)
 20コマをあとで取り戻すのは、かなり厳しいのではないだろうか。
 最近の運動会は春に行われることが多いのだが、多く教育実習の期間と重なることがよくある。そうすると、当然実習生は、運動会準備を手伝うことになり、そのために、授業を見学したり、あるいは自分が授業をする時間が少なくなってしまう。運動会準備でほぼ一週間が潰れたというのでは、何のための実習かわからない。

 では、削ったほうがよいほどに、何が問題なのだろうか。
 まず第一は、前に述べたように、本来の教科の授業を大幅に削って練習が行われることである。
 第二には、組体操などの危険を伴う種目に表れる「運動会観」である。今から数年前から、組体操での事故が問題となり、文科省は無理な組体操(何層ものピラミッドなど)を止めるように指導した結果、少なくない市町村では禁止にしている。もちろん、続けているところもあるが、何故、組体操をするのか。代表的なものは、組体操は子どもたちにとって、かなりきつい種目であり、それを集団で支え合いながら乗り越えることに、大きな教育的意義があるというものだろう。更に、子どもや保護者が望んでおり、しかも伝統的に行われてきたから、当然するものだとみんなが思っている。そして、実際に見るものに感動を与えているということだ。
 しかし、組体操をとってみれば、危険な種類のものが行われてきたことは、事故の多さにも表れている。2015年ころまで、毎年8000件もの事故が組体操で起きていたとされる。死亡事故ですら9件起きている。
 2015年9月に大阪の中学で起きた組体操(ピラミッド)での事故直前の写真である。この直後に重みに耐えられなくなって崩れた。
 「きついことを乗り越える」ことが、教育的に有効であるのは、それを積極的に望んでいる場合である。嫌々やることに効果は皆無だとはいえないが、多くはますますいやになるだけである。運動会というものが存続し、どうしても組体操をやりたい者が、教師と子どもにいて、保護者も容認しているならば、希望者に限定して行うべきものだろう。学校教育は、行事に際しても、あまりに全員一律主義が強すぎるのである。

 このようなことは、次第に現場でも認識されるようになって、
 ウェジーは、以下のように近年の運動会の縮小について報道している。
 「また、熱中症対策に加えて、学習時間の確保、お弁当作りなど保護者負担の削減を目的に、「時短運動会」の実施が進んでいる地域もある。名古屋市では今年、半数の小学校で半日だけの運動会を予定。熊本県熊本市でも2016年の震災をきっかけに時短運動会が広まっているという。北海道札幌市では6割の小学校が運動会を昼頃までに切り上げている。
 小学校運動会に備え、6~12歳の児童たちが入場行進、立ちっぱなしの開会式や閉会式、学年ごとの種目など、炎天下の中で多くの練習をこなすことは、これまで当たり前とされていた。しかし、怪我のリスクもある組体操や騎馬戦をやるべきかやめるべきか、徒競走で順位を付けるべきか否か、昼食は家族で取るべきか……運動会の在り方を巡るさまざまな議論も、長年熱心に交わされてきた。」(https://wezz-y.com/archives/66245)

2運動会と合唱祭の法令上の位置づけ
 学習指導要領には、次のような記述がある。(小学校)

「(3) 健康安全・体育的行事
 心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵(かん)養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」

 つまり、体育的行事は規定されているが、運動会が規定されているわけではない。文化的行事として、文化祭をやらなければならないわけではないことと同じである。現状で、運動会をやらない学校はほとんどないだろうが、文化祭をやらない学校は少なくないのではないだろうか。従って、運動会を実施することは、法令上は義務ではない。それはさておき、この学習指導要領の内容についても、多少の見解を書いておきたい。
 学校教育において、体育の授業は不可欠だろうが、「健康安全・体育的行事」を学校行事として実施しなければならないのは、あまり賛同できない。体育や健康安全は、日常的な授業のなかで実施するものであって、わざわざそのための行事にする絶対的必要性があるだろうか。行事として設定するために、「集団行動の体得」とか、「責任感や連帯感の涵養」などという体育や健康安全などとは異なる内容が入ってくる。道徳教育と体育を結びつけるもので、体育や健康の歪曲と、私は思わざるをえない。

3運動会は何故始まったのか
 運動会は、1874年イギリス人のストレンジによって、海軍兵学寮で行われたのが始まりと言われているが、森文部大臣が学校で行うように指導して広まったとされる。そして、学校に軍事教練などが導入されるに従って、軍事的な観点から強化されるようになった。整然とした行進、騎馬戦などそうした名残である。
 イギリス人の勧めで始まったが、日本独自の様式で広まり、同じ様な運動会は欧米には存在しない。私の子どもがオランダの学校に在籍していたときには、スポーツ・デイという運動会に似た催しがあったが、近隣の学校の生徒が、広い公園に集まった、臨時にチームを編成し、その場でルールを説明されて時間決めで競うものだった。通常の時間帯に練習などは一切行わない。もちろん練習などは全くなされず、勝敗なども特に意識されていなかったように感じた。私は海外研修期間だったので時間があり、見に行ったが、保護者たちの姿はほとんどなかった。
 合唱コンクールや合唱祭も似た問題がある。練習は音楽の授業や、放課後などに行われるから、運動会と違って多くの授業を潰すことはないし、また怪我などの心配もない。しかし、個々人の好みが無視されることには変わりがなく、また何よりも、芸術を競争の対象とすることが、本当に芸術の楽しさを理解させる教育としては、問題が大きいのである。日本の音楽系の部活として吹奏楽が大きな部分を占めているが、これもコンクールを目標にしていることが多く、芸術教育を歪めているとしか、私には思われない。

 学習指導要領(小学校)には、学校行事の内容として、以下の記述がある。

⑵ 文化的行事
 平素の学習活動の成果を発表し,自己の向上の意欲を一層高めたり,文
化や芸術に親しんだりするようにすること。

 同様に、特定の行事が指定されているわけではなく、合唱祭や合唱コンクールが必須なわけではない。では、合唱コンクールは何が問題なのか。
 音楽は競争の対象とするものではない。クラシック音楽の世界にも、コンクールがあるが、公開オーディションのようなものであって、決して競争自体に意味があるわけではない。あくまでもプロを志す若手音楽家が、将来へのステップのために受けるものであって、オリンピックのように勝負が目的となっているわけではないのである。
 比較的大規模な合奏として、オーケストラと吹奏楽があるが、吹奏楽は小学校から大学まで広範に活動が行われているが、オーケストラは例外を除けば、大学にあるだけだ。高校までに吹奏楽が盛んであることと、学校で合唱コンクールが行われていることには、共通点がある。それは、いずれも競争主義であり、その結果として、技術重視であるという点だ。吹奏楽部が最も力をいれるのはコンクールである。コンクールは、音楽が好きな者が参加する分には、特別問題にすることもないだろうが、それでも、コンクール主義的音楽観は、普段の音楽の授業にも影響するのではないだろうか。
 虫明眞砂子は、「日本の学校教育における合唱教育のあり方について-フィンランドの音楽教育機関の制度を通して-」(岡山大学大学印教育学研究科研究集録 2011)で、日本の学校がNHKの全国合唱コンクールに出場しているかどうかの調査を通して、合唱教育のあり方を検討している。結論として二極分化していること、吹奏楽ほど活発ではないことを課題としているが、ここに表れた考えこそ、歪んだ学校教育における音楽教育の発想が表れている。つまり、コンクールに参加することが、音楽教育が活発であることを示すと認識されているように思われる。コンクールは同然技術主義に走ることになり、特に音楽が好きでない者にとっては、意味のない訓練にすぎない。
 学校全体として取り組む合唱コンクールは、そうした技術主義や競争主義を、全員に強制することになる。

4 まとめ
 では、運動会はどのような弊害があるのたろうか。
 最大の問題は、練習のために多大な時間を使い、通常の授業を潰すことである。学力重視をいいつつ、運動会の練習で授業を潰すことに疑問をもつ教育関係者は、あまりいないのだろうか。
 次に、その練習が、日本では最も気候の悪い時期に行われることである。もっとも、ヨーロッパのスポーツ・デイのように一日だけ集まってやる分には、大きな問題ではないが、日本のように、かなりの日数をかけて練習をする場合には、熱中症の不安につきまとわれる。2019年は、5月に既に猛暑日が記録されるなど、5月でも真夏のような天気になることが少なくなかった。6月になると確実に熱中症の危険が高まる。以前の運動会は秋に行われることが多かったが、近年は他の行事との関係か、一学期に行われることが多く、逆にこれが暑さとの闘いとなってしまう。明らかに、近年の温度上昇によって、練習中、本番中に倒れる子どもたちが多くなっている。
 競争あるいは特定種目が強制されることである。
 私は、競争は人が成長する上で重要な要因であると思うから、競争を教育の中に取り入れることは大いに賛成である。しかし、競争は、参加意思をもった者の間で行われるべきものなのだ。競争は、ある特定の資質・能力に限定して行われる。徒競走は短距離走の能力を競うものであり、5000メートル競争(運動会にはないだろうが)は、長距離走の能力を競っている。そして、これはかなり異なる能力なのだ。長距離に向いている人に、強制的に短距離走に出場させる、あるいはその逆にそれ程意味があるだろうか。
 近年問題となっている組体操にしても、筋力はそれほどないのに、身体が大きいからという理由で、一番下にさせられる等々、全員が参加するという前提が、運動会にはあるが、これがいかに自分で不向きだと思っている子どもに、精神的負担となっているか、あまり考慮されているとは思えない。
 日本の小中学校では、何をするにも「全員がやる」ことが前提となっている。これほど社会が多様化しているにもかかわらず、非常にたくさんのことを、全員がやらねばならないこととされるのは、不合理であるし、個々人の資質を伸ばすよりは、抑圧してしまう危険性が高い。
 国民として、あるいは現代社会の一員として、必ず修得しておかなければならないことと、個々人の好みや資質に応じて、選択的に修得すればよいことを、もっと腑分けすべきなのである。なんでも全員がやることになれば、すべてが中途半端になってしまう。中途半端な学びで、役に立ったり、あるいは自分の満足するレベルに達することは、ほとんどないはずである。ものごとは、かなり徹底して活動することによって、充分に伸びるものだ。なんでも一通りやることに意味があるとする見解もあるが、それでは、ほとんどのことで、未熟な段階で留まるだろう。
 運動会は、体育などとも違う次元の教育領域になっている。
 体育は、身体の育成、体力の向上という目標と、競争的なスポーツというふたつの領域があるが、すべての者にとって必要な領域は前者であって、競争的なスポーツは、それぞれの好みや資質によって選択されるべきものである。競争的スポーツは、まったく選択しない者がいても問題ない。運動会は、ほとんどが後者の競争的要素で組み立てられている。個人の競争とともに、赤組・白組などの集団的競争も含んでいる。つまり、競争的な集団を組織することで、集団意識を高めるという教育効果を意図している面が強いのである。
 みんなが同じことをやりながら、集団的に競争するような教育は、未来を築く上で、桎梏となるだけである。多様な分野で、それぞれが個性を発揮しつつ、違うことを追求するような姿勢を形成することが、今後ますます重要になってくる。そうした教育を実現するためには、運動会のような行事は、廃止するのが最もよいが、最低限、根本的に違う発想で再編成しなければならない。合唱祭も同様である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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