まだこのブログを初めて日が浅いし、まったくの個人ブログなので、アクセスはまだまだ少ないが、「学校教育からの削除」関連は、比較的多く読まれているようだ。まだ続けていくし、中教審答申も出ているので、その批判的検討もするつもりだ。
さて、今回は、「いじめアンケート」である。
いじめアンケートは、大津でのいじめによる中学生の自殺がきっかけになって、「いじめ防止対策推進法」によって、法的に義務づけられている。自治体や学校独自のアンケートが更に行われている場合もある。いじめが原因とみられる自殺があると、必ずこのアンケートが話題になる。
いじめアンケートは、要らないのではないか、かえってマイナスなのではないかと、先日「教育学」の講義で、学生たちに問いかけてみた。実際にアンケートを書いてきた人たちだから、非常に参考になる意見がでてきたし、私もいくつか考えなおすきっかけになった。
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カテゴリー: 教育
『教育』を読む2019年5月号 教育実習1
今月号の特集は、「『教育実習』出会いと学びあい」と「政治的中立性と教育の自由」のふたつだが、今回は前者について、紹介しつつ、教育実習にまつわることを書いてみる。
巻頭の佐藤高樹氏の「子どもの思いに応え、自分らしさを考えぬく」という文章では、最初に、教員採用試験の倍率が低下してきたことが指摘され、その原因のひとつとして、教育実習で教職に対する「あこがれ」の気持ちがそがれてしまうことだとの危惧が書かれている。この20年間に、実習期間の延長、介護実習の導入、教職実践演習の必修化、インターンシップの単位化など、実習の負担が増大している。教職が大変であることは、広く認識されているが、実際に現場で実習してみると、予想を超える大変さを、目の当たりにみて、教職に就こうという気持ちがなえてしまうということなのだろうか。
それとともに、実習などで強く感じるようになってきたのが、「形式的指導」もあるという。
以上の問題意識は、私も同じように感じている。別のブログで、日本の教職は、欧米と同じように、なり手がどんどん少なくなって、教師不足になっていくのではないかと、何度も指摘してきた。文部科学省は、まるで、日本の学生たちに、教職につくなといいたいのだろうか、と率直に感じるほどである。
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道徳教育ノート 五木寛之「日常に生かす作法のヒント」
道徳の教科書に載っている五木寛之の「日常に生かす作法のヒント」は、普段考えていることが、現れている教材であると思い、取り上げてみたい。(光村6年)
普段、道徳教育について感じている疑問をまずあげておきたい。
これまで何度か書いたように、「道徳教育主義」への疑問である。道徳は、あくまでも人の様々な価値観、行動、規範などに関わることであり、道徳という閉鎖的な領域があるわけではない。ところが、国語教育とどう差別化するかなどという、道徳固有の課題を求める立場である。
第二に、ジレンマ的な葛藤は、子どもの世界に関して扱うことがあるが、大人については、あまり扱わないことである。大人の世界にある悪、犯罪、反道徳的なことは、道徳の教材には、ほとんど現れない。
第三に、多くの教材が、ひとつの徳目に向かっていることである。実際、世の中の規範的なことは、ひとつの立場が絶対的に正しいなどということは、ほとんどない。
第四に、最初から道徳教材として作成された文章が、読んで、全くおもしろくないことである。日本の教科書は、読物としては、世界で最低のグループにはいるのではなかろうか。読書指導などいうことを学習指導要領で奨励しても、学習指導要領に基づき、検定で合格した教科書そのものが、まったく面白みのないものなのだから、読書好きな子どもを育てるのは、難しい。
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学校教育から何を削るか3 5、6年の教科担任ではなく、担任教師の担当を主要教科に
今日は別の話題について書くつもりだったが、毎日新聞に、「小学5,6年の『教科担任制』検討 文科省、授業の質向上」という記事が出ていたので、急遽これについて書くことにした。
英語が正式教科となり、プログラミングが必修化されるなど、専門性の高い教員が必要となるなかで、教員の負担軽減も考慮して、5、6年に「学級担任」ではなく、「教科担任」を導入するための検討にはいるというのである。これは、今まで何度も議論されてきたことだと思うが、いままでは実施されてこなかった。一部には、小中一貫校で、学年の区切りを、5年から中学校として扱うようにして、実質的に教科担任制を導入している学校も、ごくわずかだがあるはずである。
教師の負担を軽減することは、このブログの主要なテーマとなっているので、問題意識は共有するが、具体的なあり方は、私は原則反対である。
質の高い授業を行うためには、小学校教師が、全科目を教える体制そのものをやめるべきなのである。そもそも、主要教科を教えて、体育や音楽、美術、家庭、道徳、そして英語まで教えるなどということは、誰が考えても、超人でなければできないことである。日本の小学校教師は、本当に信じられないような負担を強いられている。
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学校教育から何を削るか2 始業式と運動会をやめよう
これから具体的に、何が削れるかを考えていこう。もちろん、削るのは、残すものをより充実させるためにやるのであって、単に、楽にするためではない。では充実させるべきものは何か、当たり前のことだが、基本教科の授業である。日本の学校は、学力重視といいながら、実に授業を軽視していると言わざるをえない。
ここでは、かなり大胆に提起していくことにする。
始業式
日本の学校の新学期は、始業式から始まる。そして、始業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式はない。おそらく、朝礼とか昼礼などもない。そもそも、始業式や朝礼が楽しかったとか、思い出に残っているとか、そういう人はいるのだろうか。私には、「整列」させることと、校長が訓辞を述べること以外の目的はないように感じる。今は、校内放送設備やインターネットが普及しているのだから、校長が伝えたいことは、給食の時間等に放送を使えばいいし、それをインターネットでも閲覧できるようにしておけば、内容が確実に伝わるだろう。始業式や朝礼などで、少しではあっても、確実に授業が削られる。
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『教育』を読む 2019.4号 「わからない」の克服
私は、大学勤務時代(今でも勤務であるが、特別の定年延長で特任なので、半分は勤務状況から脱出している)は、外部の研究活動をせず、大学の教育活動に専念していたが、昨年初めて「教育科学研究会(以後「教科研」)に加入した。しかし、まだほとんど活動をしておらず、どういう活動が可能なのか、これから考えていこうという段階だ。教科研には、『教育』(教科研の機関誌)を読む会があるのだが、私の居住している千葉県にはない。将来的には、「千葉県『教育』を読む会」をつくっていきたいと考えているが、その前に、このブログで、自分で『教育』を読むシリーズを書いていこうと思う。
教科研を紹介する立場にはないので、興味のある人は、ぜひホームページをみてほしい。『教育』は、以前は国土社からでていたが、今はかもがわ出版から出ている。なかなか入手しにくい雑誌だが、興味のある人は、ぜひ注文して読んでほしい。アマゾンでも購入できる。
今回は、「わからない」を克服するための工夫をしている実践をふたつ紹介する。
まず、川淵和美さんの「『わからない』から始まるぼうけん」。
川淵さんの「『わからない』と言うことは、子どもたちにとって、ハードルが高い。バカにされたらどうしよう、恥ずかしい・・・」という言葉は、教師をしている人にとっては、誰でも、常に感じていることだろう。大学などは、これは小学校以上で、よほどの工夫をしないと、授業中に何を聞いても発言などなく、反応もないような授業が多い。幸い、私の授業では、特に教育学関連では、内容の親しみやすさもあるが、それなりに発言はあるし、また、討論になったりもする。しかし、それもこちらから発言を求めた場合にほぼ限定され、自分から挙手して意見を述べたり、特に、「質問」は出ない。まだまだ工夫が足りないということだろう。
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教師の過剰労働をなくすために1 削減できるものは何か
働き方改革なるものが進んでいるようで、そのなかの重要なひとつが、「超過勤務」の削減である。しかし、学校教育の中では、そうしたことは、掛け声はともかく、実質的には進みようがない。現在の公立小中学校は、ほんとうに危機的状況にあると思う。
今日、「餃子の王将」に関する記事で、次のような社長の言葉が引用されていた。
「『企業は人なり』って簡単に言うけど、そんな生やさしいもんじゃないですよ。社員は企業の命ですよ。社員が疲弊したら、いつか会社は悪くなってしまう。わたしは社長になって、もっとも大事なのは社員の皆さんだと思いました。それもあって、店で餃子を巻くのをやめたんです」1
道徳教育ノート 二匹の蛙3
新美南吉の「二匹の蛙」の実践記録は、当初思ったよりも少なかった。テキストは、「二匹の蛙1」を見ていただきたいが、(また青空文庫で読むことができる)国語教材として扱われ、道徳教材にはなっていないようだ。しかし、私は、話としては単純で、「ごんぎつね」ような複雑さはないために、むしろ、道徳教育の教材としては、かなり明確なポイントがあるために、やりがいがあるものだと考える。道徳の教科書に掲載されているかは、全部チェックするわけにはいかないが、採択してほしい作品だ。
当初、黄色と緑色の蛙が、それぞれ互いに相手を汚いやつだと罵り合って喧嘩になる。冬眠したあとでてきて、すぐに喧嘩がはじまりそうになるが、土の中から出てきたばかりなので、体を洗ってからにしようということになり、体が洗われると、きれいな色に見え、仲直りしたという、極めて単純な筋である。
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ALC貝塚学院閉鎖さわぎ 認可制度と自己責任
3月28日のニュースは、ALC貝塚学院の閉鎖問題を大きく取り上げていた。午前中は、「閉鎖」だったが、夕方になると、「閉鎖しなくてもすむ可能性」が出てきたようなこともいわれていた。今日もまた、このニュースでワイドショーは賑わうかも知れない。
無認可幼稚園という言い方をニュースではしていたが、ホームページを見てみると、ふたつの組織があって、それが融合して機能しているように思われる。ひとつが、ALC貝塚学院(以下「学院」)で、幼稚園のような組織になっているが、ホームページには、一般の幼稚園ではないことが断ってある。もうひとつが、ALCアルファウィング(以下「ウィング」)というもので、建物は別で、こちらは、英語、水泳、体操、バレエ、フィットネスに分かれており、更に学童の機能をもたせている。(フィットネスは、よく見るとチアダンスのようだ。)
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広島呉市のいじめ 形式主義の対策が解決を遅らせる
毎日新聞3.26に、いじめ放置という記事が出た。自殺などの最悪の事態になったということではなく、卒業して高校生活への期待をもっているということのようだ。しかし中学3年間、いじめ被害を訴えたにもかかわらず、適切な対応をされなかったという記事の内容である。いろいろ考えるさせられるところがあるので、それらを整理しておきたい。
記事のなかで、経緯が年表風に整理されている。
2016夏 同級生から服を破られるなどのいじめがはじまる
2017.11 3回教室で服と下着を脱がされる
保護者が学校と市教委に連絡。学校が加害生徒に聞き取り
2018.4 学校が保護者に「グループ内の罰ゲーム」と説明。一時不登校
6 不安障害と睡眠障害と診断。休みがち
11 市教委が保護者に「重大事態として再検討」と連絡
2019.2 市教委が保護者に「重大事態として第三者委員会を設置したい」と連絡
以上が、毎日新聞が整理した経緯である。
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