親と教師の懲戒権は削除すべき

 今日(24日)TBSサンデー・モーニングで、子どもの権利委員会が、日本政府に対して、親の体罰等に関する勧告を行ったというニュースを流した。あまり詳しくは触れられなかったのと、このことをうっかり見過ごしていたので、調べてみた。数年前から、私は、大学の講義で、教師の懲戒権を検討し、教師の懲戒権そのものを削除すべきであるという見解を紹介している。もちろん、そういう学説の紹介であるが、私自身の意見でもある。
 今回の勧告は、今年になって発覚した千葉県野田市の少女虐待死ではなく、昨年起きた東京目黒区での5歳の少女虐待死事件を受けてのことだろうと思われるが、野田市の事件が騒がれているときの勧告だけに、政府も検討を始めたようだ。
 事件等はよく知られているので、勧告の内容をまず紹介しておく。平野裕二氏の「子どもの権利・国際情報サイト」に掲載されている訳文を使用させていただく。https://www26.atwiki.jp/childrights/
 詳しく知りたい人は、ぜひこのサイトをチェックされることを勧めたい。

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道徳教育ノート 「手品師」2

  前回、「手品師」の文章そのものと、実習生の授業や大学生の意見をもとに考えてみたが、今回は、明治図書の『道徳教育』2013.3号で、手品師の特集を組んでいるので、それを参考にしながら、再度考えてみたい。
 この特集を読むまで、実は私自身誤解していたことがあった。それは「手品師」という文章が、原作は欧米で、日本語に翻訳したものを使っていたのかと思っていた。大道芸人の手品師などは、日本であまりみかけないし、また、大劇場での演技というのも、あまり聞かないからである。しかし、江橋照雄という、日本人の道徳教育の専門家が、道徳教材として創作した文章であることがわかった。『道徳教育』のこの特集号には、江橋照雄が作者としてきちんと記入された文章が掲載されているだけではなく、「手品師の履歴書-手品師のこれまでの人生を知る手がかりとして-」という、前史と「手品師に熱き思いを寄せて」という江橋氏の文章が載っている。このふたつの文章によって、「手品師」の内容そのものがよくわかり、作者の意図も理解できる。しかし、いくら作者であるといっても、既に書かれてかなり経過しているこの物語は、作者の意図を超えて、多様な解釈に委ねられているし、道徳教材としての賛否もまた活発に議論されている。始めて公開されたのが、1976年というから、既に40年以上経っているわけである。社会状況やそれに応じた子どもたちの意識にも大きな変化がある。そうした変化を無視して、作者の意図通りの授業をしても、心には訴えないと考えざるをえないのである。

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教育行政学ノート(3)国民が主人公である教育行政

 国民主権とは、国民が国政の主人公であるという意味である。しかし、ルソーが語ったという「選挙のときだけ主権者になる」という、主権者の実態を疑わせるような事態は、残念ながら普通にみられる。言葉として民主主義、国民主権をいっても、実際には国民のためではなく、一部の勢力のための政治が行われていることは、国民のために政治が行われていることよりも多いだろう。しかし、厳密に考えると、「国民」とは誰のことなのか、主権をもつとはどういうことなのか、非常に難しい論手がたくさんある。
 政治一般ではなく、教育行政学として、国民が主人公であるようなあり方を具体的に考察していきたい。
 教育行政は、法が、法律(国会による国全体の法)、条例(地方議会による当該地域に効力をもつ法)に分かれているように、国家機構のレベルに応じて、行政機構が存在する。
 国→文部科学省、都道府県→都道府県教育委員会、市町村→市町村教育委員会、学校→校長、(学校運営協議会)、学級→担任 教育行政が、教育組織の運営に関わる行為である以上、学級もその一種であることに変わりはない。

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教育行政学ノート(2)子どもは何故学校にいくのか

 教育行政学は、通常、義務教育、あるいは「教育権」から入る。しかし、教育学としての教育行政学の構想のために、もうひとつ前の問いから入ろう。義務教育とか、教育権という概念は、やはり、教育の外からみている、あるいは外部的存在である。そこで、問いは次のようになる。

Q 我々は、子どもたちは、何故学校に行くのか? 現在の大きな学校教育上の問題である「不登校」を考察するとき、「何故学校に行かないのか」「何故学校に行けないのか」という問いをたてて、答えを見いだそうとする。しかし、不登校は、通常前の段階とて登校していた事実がある。学校に行っていたのに、行かなくなる、あるいは行けなくなるわけである。したがって、まずは、学校に行っていた時期の「行っていた理由」をきちんと理解しておくことが必要だろう。不登校は、その「学校に行っていた理由」が揺らいだ、あるいは消えてしまったが、その原因であると考えられる。

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イギリスの若者がメンタルヘルスの改善を求めて活動

 イギリスの10代の若者たちが、グループを作って、メンタル・ヘルスを必要としている若者へのサポートを、確実に実行させるための働きかけをしたという記事の紹介です。Mental health The students who helped themselves when support was too slow comingというThe Guardian2019.2.12の記事で、作者はLouise Tickleです。

 イギリス全土かどうかはわかりませんが、ここで紹介されている地域は、Cumbriaという地方で、元々医療・福祉体制が遅れていると思われます。イギリスに限らず、先進国のほとんどでは、若者たちは、試験競争にさらされ、常に誰かと比較され、いい評価をえないと上級への進学に不利になり、人生そのものがやりにくくなるというストレスをかかえながら生きることを余儀なくされます。もちろん、そのことによって、誰もが精神的な疾患をかかえるわけではありませんが、どこでもサポートを必要とする若者が増加しています。それだけではなく、この記事では、治療を申請したのに、ウェイティング・リストに載せられて、3カ月も待たされ、そのうちに、すっかり参ってしまった若者が紹介されています。彼女はそのために学校にいくことができなくなりました。いろいろなことを真剣に受けとめながら生活していれば、誰でもそうした危機に陥る危険があると、彼女は述べています。

 そんななかで、何人かの若者が集まって、We Willというグループを作り、精神的な問題を抱えている若者に、サポートをするように働きかける活動を始めます。集会を開き、そこで強調されたことは、今の若者が生きている世の中は、古い世代が若者だったときとは違うのだ、ということです。まずは試験の圧力、そして、ソーシャル・メディアの中毒的な関わりからくるストレスです。

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教育行政学ノート(1)教育学と教育行政学

大学での講義は、新年度が最後になる。教育行政学も当然最後だが、テキストをかなり書き直したいと考え、ノートという形で書きためていきたい。最も、新年度には間に合わないので、これまでのテキストと併用する予定である。


1 教育行政学のように、ふたつの学問領域が併記されている場合、どちらの領域に属する学問なのかが問題となる。教育学として、行政分野を扱うのか、行政学の対象領域が教育であるのか。これは単なる言葉の遊びではなく、学問の性格を決めるほどの重要性をもっている。 教育学の分野として、行政の教育的あり方を追求する学問と考えるならば、制度としての教育、あるいは学校の管理・運営・行政が、教育者や学習者の活動を促進するようなあり方を考えることが課題となる。他方、行政学としての対象が教育であるならば、それぞれの対象の固有性よりは、行政としての効率性、有効性のありかたを課題とするだろう。 例をあげてその違いを考えてみよう。

Q1 教科書を選ぶのは誰がよいか。日々の教育計画を立案するのは誰がよいか。

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道徳教育教材分析を始めるにあたって

 私自身は、道徳教育を「教科」として、あるいは毎週特定の時間を使った「特設道徳」は必要だと思っていない。1958年に、道徳が時間設定されたときに起きた論争でいえば、道徳は教育全体のなかで行われるもので、教科としては、国語や社会のなかで、そして広く学校行事などで行われるものだと考えている。さあこれから道徳を勉強しましょう、などといって、道徳が身につくとは思えないのである。

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