道徳教育ノート 泣いた赤鬼1

 道徳の教材としてよく用いられる文章の第二位が「泣いた赤鬼」だそうだ。もちろん、一位は「手品師」である。
「泣いた赤鬼」は、日本のアンデルセンといわれた浜田廣介の作品であり、発表は昭和8年である。最初の題は「鬼の涙」であり、「鬼同士の絆を描いたこの童話に出てくる犠牲という言葉からは、恩人さよへの負い目が廣介の心を離れなかったことが想像される」と、浜田廣介記念館の名誉館長をしている娘の留美は書いている。(小学館文庫『泣いた赤おに』の解説より。さよは、廣介の母の従姉妹で、廣介が経済的に困っていた時期に、ずっと援助し続けた恩人)
 留美氏によると、浜田は、常に人の善意を重視する物語をつくり続けたという。
 一貫して「童話」を書き続けたことからみて、それはごく自然なことだろう。
 しかし、世界の名作童話は、実は、ほとんどが、作者の意図を超えて、(あるいは、元々作者が意図していたのかもしれないが)大人が読んでも、様々な解釈が可能で、単なる善意とか、愛とか、友情などの枠におさまらない内容をもっているし、その多くは、実は大人でなければ充分には理解できないことさえある。
 アンデルセンの「裸の王さま」を考えてみよう。


 実は何もないのに、狡賢い人物が、王様にとりいり、賢い人だけに見えるという「服」を仕立てて、王さまに着せ、王がパレードをするのだが、王さまが何も着ていないので、子どもが「王さまは裸だ」と叫ぶという話だが、小さい子どもであれば、そうした滑稽な話を面白がり、子どもの当たり前の叫びに共感して、満足して終わりかもしれない。しかし、大人であれば、そこでとまる人はいないだろう。子どもなら、何も着ていないのに、「りっぱな服です」と褒めそやす家臣たちの態度に「変だね」と思うだろうが、大人が深刻に受け取る内容を理解できるとは思わない。「はだかの王さま」は、大人に激しく迫る「大人の童話」でもある。
 また、「みにくいあひるの子」でも、おそらく、大人と子どもとの間には、受け取りの違いが大きいはずである。子どもは、おそらく、みにくいあひるの子が、実際に白鳥の子どもで、本当の親にめぐり合えて、白鳥とともに飛んで行く結末を、素直に喜ぶのだろう。しかし、私のような、いつも「批判的にみる」人間は、ああ、アンデルセンは、白鳥は鳥の王の存在で、あひるはつまらない下品な鳥だというのか、アンデルセンって、結局差別主義なのかと思う人が少なくないだろう。実際に、アンデルセンは、自分が将来、差別主義者として社会から非難されることを、深刻に恐れていたという。「人魚姫」も、ずいぶんと身分的発想にのっかっている。
 もちろん、王室がまだまだ残っていたヨーロッパで生きた彼に、身分社会的な物語を多く書いたことを批判するのは、あまりフェアとはいえないし、また意味があることとも思えない。ただ、いま私たちが、アンデルセンを読むときには、単純に子どもたちの観点で読むわけにはいかないことは確認しておこう。
 「泣いた赤鬼」にもどろう。

 テキストは、たくさん市販されており、公的な文書として提示されているものは、見つけていないので、全文を掲載することは控える。有名な話なので、興味のある人は、既にもっているだろう。
 簡単に筋を整理しておくと
・赤鬼は、人間と親しくしたいと思って、お茶とケーキを用意しているので、寄ってほしいという掲示をする。
・しかし、人間は警戒して、近づかない。
・きこりがもういちど山の小道をのぼって、掲示を読むと、うそでもないような感じがして、のぞいてみることにする。
・そこに赤鬼が顔をだし、「おい、きこりさん」と呼びかけると、きこりは驚いて逃げてしまう。
・赤鬼が、がっかりしているところに、遠くから青鬼がやってきて、事情を話すと、青鬼は、自分が村にいって、乱暴するから、それをとめて、赤鬼は、やさしいのだということをみせろ、そうすれば、人間にわかってもえらると提案する。
・赤鬼は、躊躇するが、青鬼に押し切られ、実行する。
・村人たちは赤鬼を見直し、家にいくようになる。
・青鬼のことが心配になった赤鬼は、一日休んで、青鬼のところにいくが、旅に出るという青鬼の手紙を発見し、なみだを流す。

 学校の道徳教育では、徹底して友情に関するトピックとして扱われるだろう。もちろん、それはこの物語にふさわしい。そして、友情を考える上でも、いろいろな話しあいたくなるテーマにあふれている。
・どうして、赤鬼は、人間と友達になりたかったのだろ。
・人間は、どうして鬼には近づきたくなかったのだろう。
・「きこりさん」と、赤鬼は、やさしく呼びかけたのに、なぜ人間であるきこりは、恐れて逃げてしまったのだろう。
・青鬼は、赤鬼の気持ちをどう思ったのだろう。
・なぜ、青鬼は、自分が暴れて、赤鬼がそれをおさえつけるという提案をしたのだろう。
・赤鬼は、その提案をきいたとき、どう思ったのだろう。
・青鬼は、この提案をしたとき、将来の赤鬼との関係がどうなる、どうしたいと思っていたのだろう。
・赤鬼は、なぜ青鬼の提案を受け入れたのだろう。
・青鬼が、あばれていたときの気持ちはどんなものだったのだろう。単純に赤鬼のためだったのか、あるいは、ふだんから人間が嫌いだったので、思い切りあばれていたのか。
・青鬼をおさえつけながら、手加減していた赤鬼の気持ちは
・人間と友達になれた赤鬼は、どんな気持ちだったのだろう。
・青鬼に会いにいって、何をいうつもりだったのだろう。
・青鬼は、なぜ旅に出たのだろう。
・青鬼は、なぜ、長い手紙をあかおにに書いたのだろう。
・このあと、赤鬼にと青鬼は、友達でいられるのだろうか、それとも、ふたりは、違うみちを歩むのだろうか。
等々、いくらでも、話し合いのネタはある。こうした話し合いのなかで、友情を育むのは、単純なことではなく、いろいろと乗り越えなければならないこともあるのだということを、子どもたちは学んでいくだろう。

 指導案もネット上に多数ある。もちろん、みた限りでは、友達の大切を学ぶようになっている。
 内山幹夫氏の4年生用の指導案では、身近な友達だけではなく、遠方の友達も含めて考え、一人では生きていけないため、お互いの違いや共通点を理解し合うことの大切さを学ぶとしている。
 大事な観点として
・赤鬼の「自己中心的な考えをとらえ、ないせいしている気持ち」をとらえる。(赤鬼が青鬼の家を尋ねて涙を流す場面)
・他者の重いに目を向けている気持ちをとらえさせる。(青鬼が度に出ることを知った場面)
・自分を高めている気持ちを想像させる。(赤鬼が青鬼の手紙を繰り返し読んでいる場面)
を重点に考えさせるとしている。http://www.meidouken.com/shidouan/2009_naita.pdf
 他にも、人間と友達になろうとして工夫している場面、青鬼の提案を受けて、躊躇する場面、提案を実行しながらも、なお後ろめたさを感じている場面、青鬼のおかげで人間と仲良くなれた場面等も、子どもたちが活発に意見を展開するだろう。

 この後の展開を創造させることも考えられる。
 本当に青鬼は、旅に出たのだろうか。あるいは、赤鬼がやってくることを予期して、手紙を書き、赤鬼の反応をみようしているのだろうか。
 本当に旅に出たのがわかったら、赤鬼は、どうするのだろうか。青鬼を探しにいくのか、ここで帰りを待つのか、あるいは、赤鬼の家に帰って、青鬼がふたたびやってくるのを待つのか。
 もし、青鬼が、旅に出たわけではないのだとしたら、手紙を読んでいる赤鬼の前に出て行くのだろうか。それとも、赤鬼が帰っていくのを、そのままそっと見ているだろうか。
 それぞれどんな気持ちなのだろうか。
 実際に、後日談の創作もたくさんあるらしい。子どもたちは、興味をもって、自分たちで作るのではないだろうか。

 しかし、この文を、大人として読むと、もっともっと多面的な側面での検討をしたくなる要素に満ちている。中学生、高校生、あるいは大学生を対象に、「泣いた赤鬼」を扱うこともできるだろう。そういうときの「広がり」について、次回に考えてみたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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