教育学を考える20 勝田の学力論とコンピテンシー論について

今日、初めて教科研の「教育学部会」という研究会に出席した。これまでは、当然特定の場所に集まって行っていたが、コロナ対応で、オンライン開催になった。そこで私も、参加する気持ちになったわけである。題は、「教科研は学力をどう論じてきたか」というもので、本田伊克氏が報告した。当然、勝田論から入って、神代氏の議論等が検討され、坂元、佐貫氏の議論、そしてコンピテンシー論が議論された。私自身、教科研の研究会に参加するのは、初めてであるし、『教育』の熱心な読者ではあるが、内部的議論には通じていないので、議論には参加せず、聞き役に徹した。多少、私の問題意識と交わるところが少なかったからもある。そこで、勝田論やコンピテンシー論について、考えたていることを書いてみることにする。
 教育は、当然の前提として、教えるべき価値をもっている。そして、その中心は「学力」である。日本では、学校教育の目的の中心に「学力をつけること」をおいており、入学試験では学力試験が柱となっている。だから、学力とは何かという議論や、学力が身についているのかという「低学力論争」が行われるのが常であった。1960年代から70年代にかけて、中心的な学力を提出していたのが勝田守一であり、現代では、中心をコンピテンシー論が占めている。 

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『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」

 山本宏樹氏の「インターネットを生きる子たち-その保護と教育」を取り上げたい。
 一読して、正直なところ、憂鬱な気分になった。ここに書かれていることは、間違っていない。子どものネット利用に関して、様々な数値が書かれているが、そういう調査があるのだろう。ネット利用の光と影についても、例が出されている。これも、そういう事実があるのだろう。そして、終りのほうに、優れた実践が書かれている。
 では、何故憂鬱な気分になるのか。
 間違ってはいない「事実」が書かれ、優れた実践が紹介されているからといって、適切な方向性が示されるわけではないという、極めて典型的な文章だからである。私の知人は、こうした文章は、ICT活用に対するラッダイト運動だと評している。私は、そこまで言う気持ちはないが、しかし、いいたくなる気持ちはわかる。 “『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」” の続きを読む

部活動指導員は部活問題を解決するか

 文科省が、部活動について新たな方針を提示して、話題になっている。部活動の在り方が、現在の学校教育の大きな問題であることは、多くの人によって論じられている。しかし、議論の方向性や基本的立場は、相当な違いがある。しかも、根本的な相違を含んでいる。部活動を学校教育のなかに位置づける人と、学校教育から外すべきであるという人の違いは、まったく異なった考え方である。指導者については、外部指導をどうするかという点があった。
 とりあえず、最近の動きを見ておこう。従来、部活は、学校教育の構成要素ではないが、構成要素であるかのように運用されてきた。最近まで、部活の顧問を引き受けるのは、教師の義務であるかのように扱われていたが、現在では、正規の学校教育の構成要素ではないことが確認されており、顧問の引き受けは、教師にとって義務ではないことが、文科省によっても明らかにされている。これについても賛否両論あるが、この確認によって、校長が、顧問を確保することが困難になっていることと、そもそも、顧問としての活動が、教師のブラック的過重労働の大きな要因となっていること、そして、教師の顧問は、必ずしも部活内容の指導能力を備えているわけではないこと等の理由から、外部指導員という制度が導入された。 “部活動指導員は部活問題を解決するか” の続きを読む

部活動指導者は、部活問題を解決するか

 文科省が、部活動について新たな方針を提示して、話題になっている。部活動の在り方が、現在の学校教育の大きな問題であることは、多くの人によって論じられている。しかし、議論の方向性や基本的立場は、相当な違いがある。しかも、根本的な相違を含んでいる。部活動を学校教育のなかに位置づける人と、学校教育から外すべきであるという人の違いは、まったく異なった考え方である。指導者については、外部指導をどうするかという点があった。

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コロナ後の大学の在り方を想像する3

(昨日の続きで、今回は残った課題を個別に考察する)
(7)現在の大学で、単位制限の問題が、かなり学生たちを苦しめている。文科省の指導などで、学部として、学期ごとの最大単位申請数の制限を設けるようになっているのだ。文科省が、こんなことを指導するのは、おかしなことだと思うが、最近の文科省は、大学の自治を無視するようなことを平気でやっている。
 特に最近の学生は資格を多くとりたがる。社会全体が資格社会になっているのに対応しているのだ。ところが、多くの資格は、正規の学部や学科の科目とは別の科目が要求されることが多い。もちろん、資格取得が認められるには、土台となる分野があるから、学科の科目と共通する部分もあるが、それだけでは足りないのが普通だ。従って、資格をとろうとすると、余分の授業をとらなければならない。それで、履修数が多くなる。資格のための特別費用を徴収する場合もあるが、それは事務的な経費にかかるもので、余分な授業などは含まない。従って、資格用に、授業を設定すれば、それは大学にとっての負担になる。大学にとっての負担というのは、その資格をとる学生にとっては利点だが、とらない学生にとっては、自分に関係ない余計な負担をすることになる。これはやはり不合理だ。

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コロナ後の大学の在り方を想像する2

(4)教員も学生も、ひとつの大学、学部に縛りつける必要はなくなると書いた。この縛りから幾分解放してくれる単位互換システムには、これまでみっつの制約があった。
 第一は、地理的制約である。東京にある大学と名古屋の大学が単位互換制度を実施しても、実質的には授業をとることはできない。だから、かならず近場の大学同士が組むことになる。
 第二は、大学の水準である。偏差値40の大学が早稲田や慶応と単位互換をしたいといっても、絶対に断られるだろう。今の大学には、明確な「偏差値格差」があるから、偏差値がだいたい同水準の大学間でしか、単位互換は難しい。

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コロナ後の大学の在り方を想像する1

 毎日新聞(2020.9.25)に「大学「全面再開」わずか2割 足りぬ教室、実験や実習は感染リスクと向き合い模索」と題する記事がある。コロナ禍真っ最中のときには、全面オンラインだった大学が多いはずであるが、その後対面授業が部分的に再開しても、全面再開が2割に留まっているということだ。いろいろな大学の事情が報告されているが、要するに、大学は3密社会であることが大きな要因である。アメリカのような巨大なキャンパスをもつ大学なら別だろうが、日本の大学は、学生の人数に比較してキャンパスは小さい。講義中は、クラシックの音楽会と同じで、ほとんどしゃべらずに聴いているからよいが、講義の入れ代わりの際は、教室の入り口が電車のラッシュ時に近くなる。そして、そういうときには学生はかなりおしゃべりをする。食事時もかなり3密とおしゃべり状態が普通だ。そして、毎時間、すべての学生が教室を移動するのだから、感染リスクは非常に高いのである。それから、大学の教授は高齢者が多い。自分が感染する危険性を、より多く感じている集団だ。
 そうしたことを考えれば、大学が対面授業全面復活に踏み切れないのは、自然なことだと思われる。しかし、何事も、危機のときこそ、発展の機会でもあるのだ。幸か不幸か、私はこの3月に退職してしまったので、リアリティはないかも知れないが、それだけ自由に考えることができる立場でもあるので、ここで、思い切り、空想的であっても、改革案を構想してみよう。

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当たり前をやめる(続)

 昨日に続いて工藤勇一校長の「当たり前」をやめる実践について。
 氏の著書には、いろいろと驚くことが多いが、「学校に行くこと」について悩んでいる生徒に、「学校にいかなくていいんだよ」というアドバイスを与えた話が出てくる。ひとつは、囲碁のプロになりたいと思っている生徒が、他のライバルたちは学校を休んで、囲碁のプロ試験のための練習に取り組んでいる。だから進歩も速い。しかし、自分は学校に行かねばならない、しかし、それではライバルに抜かされてしまう。悩んで、工藤校長に相談に来た。生徒がこういう悩みを、校長に相談にいくというのが、かなり驚きで、よほど生徒たちに信頼されていたのだろう。
 そして、工藤校長は、「学校に来なくていいんだよ。本当にやりたいことがあるなら、思いきって、学校休んで打ち込んでみたら」というようなアドバイスを与える。校長がいうのだから、と安心して、一年間休学のようにして、中国に修行に出かけることになる。そして、中学に復帰して、無事卒業し、囲碁のプロ試験にも合格したという話だ。

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「学校の当たり前をとめる」工藤勇一校長の実践

 今日(9.24)のFNNプライムオンラインに「学校の「当たり前」をやめた工藤校長が目指す未来の教育」という記事が掲載されている。今年の3月まで東京の麹町中学の校長をやっていた人で、そのときの実践を『学校の「当たり前」をやめた』という本を出版し、ベストセラーになったという。私も遅まきながら購入して、ざっと読んでみたが、近頃稀な面白い本だった。3月で定年退職になり、4月から横浜創英中学・高校の校長に就任したそうだ。
 私たちの年代に東京で育った人にとっては、麹町中学というのは、特別な学校だった。公立の中学であるにもかかわらず、越境入学が多く、当時東大合格者数一位だった日比谷高校に大量に進学していた、「名門」中学だったからである。その後、都立高校の進学校としての凋落で、話題にならなくなったが、都立高校の改革(独自入試の許可等)で若干の復活をとげるのと同時に、麹町中学も話題になることが多くなっていた。そして、この工藤勇一校長の赴任とともにはじまった大改革で、進学などとは異なる次元で話題を呼んでいたことは知っていたが、ここまで徹底的にできたのかと、今回認識を新たにした。題名の通り、「当たり前」をやめると、どれだけのことができるかということだ。

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日本型学校教育の検討3 デジタル教科書

 GIGA構想がいよいよ前倒しになって実施されるようで、既に学校に一人一台のタブレット、あるいはパソコンが導入されつつある。入札で決定した業者が、実は必要な台数のマシンを調達できないということで、辞退するなどという混乱すら起こっているので、本当に年度末までに99%以上の学校に、そうした状態が実現するのかは、まだわからないが、行政が本気であることは確かだ。もちろん、いろいろ基本的なところでの疑問はたくさんある。小学校一年生はまだ文字を習っていないし、日本語を入力するには、ローマ字を習熟しなければ難しいのだから、5,6年生と同じマシンが適当なのかとか、1年生で配布するものを、6年生まで使用するということになっているようだが、4年も経てばかなり古くなってしまうパソコン事情のなかで、それが適切なのか、とかいろいろと思い浮かぶが、ここでは、とりあえず、ICT教育の、ひとつの要となるデジタル教科書をめぐることについて考察する。中教審への案提示の文書は、以下のように書いている “日本型学校教育の検討3 デジタル教科書” の続きを読む