カテゴリー: 教育
『教育』2020.8号を読む 荒井文昭「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち
教育学を考える18 集団の教育的価値はその意味2
教育学を考える17 集団の教育的価値と意味1
原爆の日に考える 戦争を終わらせたのは原爆か 日米教師の認識の差
道徳教材「二通の手紙」をめぐって
教育学を考える16 試験を誰が作るか 市販テストを考える
私が小学生の頃、試験問題は担任の教師が自分で作成した。内容も自分で考え、印刷も行っていた。当時は、ガリ版刷りであったので、非常に大変だったはずである。もちろん、教師用の指導書なども参考にしたのだろうが、とにかく、自分で行った授業を、子どもたちがどれだけ理解したのかをチェックするためには、やはり、授業を前提にした試験問題であることが、最も的確な評価が可能である。だから、中学以上は、今でも担当教師が試験問題を作成していることが多いのではないだろうか。小学校は、全教科を実施するとすれば、非常に負担が大きいから、市販テストが登場すると、急速に自作の試験をせずに、市販テストに変えていく流れになり、今では、小学校の教師が試験問題を自分で作成することは、ほとんどない状況になっている。
実は、日教組は、1970年代初頭に、市販テスト反対運動をしている。また、教育科学研究会の機関誌である『教育』は、72年に市販テストの特集を組んでいる。何故、日教組は反対し、『教育』も批判的論文を並べたのか。それは以下のような認識があったからである。 “教育学を考える16 試験を誰が作るか 市販テストを考える” の続きを読む
『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践
今回取り上げる文章について、かなり批判的色彩が強いが、実践そのものを否定しているわけではなく、優れたものだと考えている。批判はあくまでも、価値ある文だと思うので行うものであることを、最初に断っておきたい。
中山京子「教師の社会認識を育てる--海を越える取り組みから」を取り上げる。中山氏は、小学校の先生を11年やったあと、大学で教職課程担当の教員をしている。中山氏の文は、教職をとる学生に対する採用試験の学習と大学の学問との関連、日米の教師で英語でのパールハーバーとヒロシマを考えるワークショップ、グアムへのスタディ・ツアーに関する三つの柱で構成されている。それぞれ興味深い提起がなされているように思われる。しかし、それぞれに若干の疑問も感じるのである。 “『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践” の続きを読む
教育学を考える15 単元の配置について
義務教育で学ぶ内容の大きな枠組みは、ほとんど国民の間で意見の相違はないように思われる。算数は不要だとか、自国の言語をきちんと学ぶ必要はないとか、そういう意見をもっている人は、まずいないといえる。しかし、細かな内容、例えば歴史の「慰安婦」などは、教えるべきだという人たちと、教えるべきではないという人たちが、長い間争っていて、双方が譲らないから、いまだに表面的には決着がついていない。こういう問題は、「教育の自由」という論点の領域で議論することといえる。(多様性のところで考察した。)
教育内容に関しては、更に、ある内容が合意できるとしても、それをどう配列するかという問題がある。
現在は主要な教授方法となっていないが、経験主義のカリキュラムは、教科という編成を採用しないので、教科によって教育内容を構成する場合と、基本的に異なる。現行の学習指導要領では、「総合的学習」が経験主義カリキュラムに相当するが、ここではとりあえず考慮の外に置いておく。 “教育学を考える15 単元の配置について” の続きを読む
AIで講義内容をテキスト化するメリット
昨日テレビのニュースで、ある大学が、AIを使って、オンラインでの講義をテキスト化する実験をしたと報道されていた。ウェブで検索すると、けっこう多くの大学や企業で活用が始まっているそうだ。これは、ぜひ大学ではやってほしいことだ。私自身、まだまだ音声認識ソフトがつかえる水準でなかった時代に、自分でテープ起こしで講義をテキスト化していたことが、何度かあるので、はやく音声認識ソフトが実用段階になることを願っていたが、最後の年に、ある程度つかえるかも知れないというソフトを試してみたのだが、ソフトの完成度がまだ高くなかったことと、教室でのマイク設定に難があって、実際にはつかえなかった。これはとても残念なことだった。
なぜ、手間隙かけてまで、テープ起こしをして講義のテキスト化をしていたのか、そのメリットは何かを書いておきたい。(私の「最終講義」にも若干の紹介がある。本ブログ1月末) “AIで講義内容をテキスト化するメリット” の続きを読む