読書ノート『能力と発達と学習』(勝田守一)を読む1

『教育』が第二特集として「能力・発達・学習と教育実践」というテーマを設定して、勝田守一の名著『能力と発達と学習』を論じる文章を掲載した。その論文に対しては、別途論評する予定だが、それと並行して、私自身の読書ノートとして、何度かに分けて、考察しようと思った。考察というよりも、この名著(以下、本書 ページ数は、著作集6巻のもの)から何を学びとるかということの整理にしかならないかも知れない。
 本書は、『教育』に一年間連載された文章をまとめたもので、「教育学入門」であるが、「教育研究の成立する前提とその本来の領域」を明らかにすることを志して書かれた。私自身は、あまり読書家ではないので、大量の本を読んでいるわけではないが、私の読んだ「教育学入門」「教育学概論」のなかで、戦後最高の書物であり、これを凌駕するものは書かれていない。私自身、生涯のなかで、この本を越える「教育学概論」の書物を書くことは、夢であり、また、最大の努力目標として、ずっと念頭にある。しかし、先の論文は、この名著を、面白くない、新味のないもので、最近流行りの論の先駆けに過ぎないなどと評価している。前のことだが、最近の若い教育学研究者は、勝田守一という人を、かなり低く評価していると聞いたことがある。その典型的な事例を、『教育』の論文でみたわけだが、その論評は別途行うので、それとは無関係に、本書を読み進めたい。
 まず、最初に私の本書を読む心構えを書いておきたい。

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『教育』2020.8号を読む 荒井文昭「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち

 第二特集「コロナ一斉休校と子ども・教育」の最後の論文は、荒井文昭氏の「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち」だ。
 題名が「現場で決める」だから、まず「現場が決められない」状況から入っているのだが、「パソコンとwifi機器の無償貸与をしながら、双方向性を確保しようとしている一部の学校、NPO」がある一方、多数は、指示待ちの状態に置かれていることが、「深刻な事態」という。確かに、私が聴いている現場の声でも、指示待ち状態が多いが、しかし、それは積極的な提案をしても、上から潰されるという事態もあわせて起きており、強制された指示待ちという、いかにも残念な事態であることが多い。残念ながら、この文章では、積極的な提案が潰されることについてのコメントがないことだ。筆者の職場でも同様なことが起こったというが、それについては、「東京の教育に象徴される教育政策の結果」であると、そのこと自体は間違いではないにせよ、ではどう切り込むかいう視点があまり感じられない。職場の大学での実践を紹介しているが、大学と小学校、中学校では状況はかなり違う。オンライン教育の実施などを提唱しても、待ったがかかるのは、教委の消極性だけではなく、確かにネット環境の整備が遅れていることがある。では、それに対応しようがないとかといえば、私はあったと思っている。例えば、ネット環境がない家庭では、学校に登校させて授業を行う、その授業をZOOMなどを使ってネット配信して、双方向授業とする。そういう案をいろいろなところに提示した。当初は、数人数の登校は認めるところが多かったのだから、可能だったはずである。困難な状況であるほど、創造的に対応を考えねばならない。

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教育学を考える18 集団の教育的価値はその意味2

 前回、集団の教育的価値と教育力について、簡単に整理したが、いわゆる「集団主義教育」が、何故、日本の教育運動から消えてしまったかに見えるのか、あるいは、事実として、集団主義教育を主張する人たちがほとんど見られないのか。それを今回は考えたい。
 集団主義教育を主張する民間教育研究団体は、主にふたつあった。生活綴り方を推進する「日本作文の会」と、核班づくりを中心とする「全国生活指導研究協議会」( 全生研)である。もちろん、このふたつは現在でも活動しているが、少なくとも、集団主義教育を前面に出してはいない。外から見ている限りでは、やはり、活動に大きな変化があったように見える。(私は、この団体の会員ではないが、その主張や実践例は、大学の講義で毎年必ず紹介してきた。そして、基本的には、変化する以前の教育スタイルを、いまでも肯定的に見ていることを、まず断っておきたい。)

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教育学を考える17 集団の教育的価値と意味1

 ここしばらく、教育について議論する場で、「集団」について考えてきた。ある参加者は、教育は個人の差を重視し、個人に応じた教育が理想であり、個人を無視した集団教育は、誤りであるだけではなく、気持ち悪いという。この議論にも、大いに頷ける部分がある。例えば、多くの日本人は、北朝鮮の軍隊の一糸乱れない行進の映像をみると、どこか気持ち悪くなる。そういう声を実際に聞く。しかし、スポーツとしての行進があり、様々な形を作りながら、かなりの大人数で行進する。これも一糸乱れずというものだが、これは、美しいと感じる。私はテレビで日体大の学生によるこうした行進の映像をみて、すごく感心した。同じ一糸乱れずの行進でも、気持ち悪く思ったり、感動したりするのは、何が違うのだろうか。ぴったり揃った行為として美しいと感じるのは、バレエの群舞なども同様だ。もし群舞で足をあげるタイミングや飛ぶタイミングが乱れたら、失望するに違いない。尤も、これは、感じ方が違うかも知れないので、深入りはしない。ただ、集団行動について、気持ち悪いと感じる感覚があることは、確認しておいてよいし、日本の教育は、気持ち悪さという集団行動がないかどうかは、省みる必要があると思われるからだ。

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原爆の日に考える 戦争を終わらせたのは原爆か 日米教師の認識の差

 ブログに、原爆関連で書いたことはないのだが、少し前に、中山京子氏の真珠湾攻撃をどう教えるかという、日米教師によるワークショップ報告に関する文章を書いたので、少し考えてみようと思った。(http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1705)
 もともとは真珠湾攻撃に関するワークショップだが、ヒロシマも話題になったそうだ。ヒロシマに関しては、当然だと思うが、日米の教師間の意見の相違が極めて大きかった。アメリカ人の教師は、戦争を終わらせたのが原爆投下であり、もし投下しなかったら、本土決戦になって、もっと悲惨な状況になっただろうというわけだ。残念ながら、日本人教師は、原爆の悲惨さを訴えるというレベルに留まったのかも知れない。

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道徳教材「二通の手紙」をめぐって

 道徳教材「二通の手紙」に関しての文章について、「二通のコメント」があったので、返信として、また新たに考えたこととして書いておきたい。返信としては、「ですます調」が適切なのだろうが、ブログの文章なので、「である調」にさせていただく。(また、コメントには氏名が書かれているが、以下はコメントとさせていただく。)
 コメントがまず問題にしているのは、この「二通の手紙」の単元の目標が「生徒にルールを守らせることの重要さを教える」となっていることである。実際に、教育実習でこの教材での道徳の授業をしたときに、むしろ機械的にルールから解雇したやりかたに批判的な生徒もいたという。だから、この教材は、単にルールを守るということではなく、「責任能力を育む」とか「臨機応変な対応力」というようにするほうが適切ではないかという。

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教育学を考える16 試験を誰が作るか 市販テストを考える

 私が小学生の頃、試験問題は担任の教師が自分で作成した。内容も自分で考え、印刷も行っていた。当時は、ガリ版刷りであったので、非常に大変だったはずである。もちろん、教師用の指導書なども参考にしたのだろうが、とにかく、自分で行った授業を、子どもたちがどれだけ理解したのかをチェックするためには、やはり、授業を前提にした試験問題であることが、最も的確な評価が可能である。だから、中学以上は、今でも担当教師が試験問題を作成していることが多いのではないだろうか。小学校は、全教科を実施するとすれば、非常に負担が大きいから、市販テストが登場すると、急速に自作の試験をせずに、市販テストに変えていく流れになり、今では、小学校の教師が試験問題を自分で作成することは、ほとんどない状況になっている。
 実は、日教組は、1970年代初頭に、市販テスト反対運動をしている。また、教育科学研究会の機関誌である『教育』は、72年に市販テストの特集を組んでいる。何故、日教組は反対し、『教育』も批判的論文を並べたのか。それは以下のような認識があったからである。 “教育学を考える16 試験を誰が作るか 市販テストを考える” の続きを読む

『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践

 今回取り上げる文章について、かなり批判的色彩が強いが、実践そのものを否定しているわけではなく、優れたものだと考えている。批判はあくまでも、価値ある文だと思うので行うものであることを、最初に断っておきたい。

 中山京子「教師の社会認識を育てる--海を越える取り組みから」を取り上げる。中山氏は、小学校の先生を11年やったあと、大学で教職課程担当の教員をしている。中山氏の文は、教職をとる学生に対する採用試験の学習と大学の学問との関連、日米の教師で英語でのパールハーバーとヒロシマを考えるワークショップ、グアムへのスタディ・ツアーに関する三つの柱で構成されている。それぞれ興味深い提起がなされているように思われる。しかし、それぞれに若干の疑問も感じるのである。 “『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践” の続きを読む

教育学を考える15 単元の配置について

 義務教育で学ぶ内容の大きな枠組みは、ほとんど国民の間で意見の相違はないように思われる。算数は不要だとか、自国の言語をきちんと学ぶ必要はないとか、そういう意見をもっている人は、まずいないといえる。しかし、細かな内容、例えば歴史の「慰安婦」などは、教えるべきだという人たちと、教えるべきではないという人たちが、長い間争っていて、双方が譲らないから、いまだに表面的には決着がついていない。こういう問題は、「教育の自由」という論点の領域で議論することといえる。(多様性のところで考察した。)
 教育内容に関しては、更に、ある内容が合意できるとしても、それをどう配列するかという問題がある。
 現在は主要な教授方法となっていないが、経験主義のカリキュラムは、教科という編成を採用しないので、教科によって教育内容を構成する場合と、基本的に異なる。現行の学習指導要領では、「総合的学習」が経験主義カリキュラムに相当するが、ここではとりあえず考慮の外に置いておく。 “教育学を考える15 単元の配置について” の続きを読む

AIで講義内容をテキスト化するメリット

 昨日テレビのニュースで、ある大学が、AIを使って、オンラインでの講義をテキスト化する実験をしたと報道されていた。ウェブで検索すると、けっこう多くの大学や企業で活用が始まっているそうだ。これは、ぜひ大学ではやってほしいことだ。私自身、まだまだ音声認識ソフトがつかえる水準でなかった時代に、自分でテープ起こしで講義をテキスト化していたことが、何度かあるので、はやく音声認識ソフトが実用段階になることを願っていたが、最後の年に、ある程度つかえるかも知れないというソフトを試してみたのだが、ソフトの完成度がまだ高くなかったことと、教室でのマイク設定に難があって、実際にはつかえなかった。これはとても残念なことだった。
 なぜ、手間隙かけてまで、テープ起こしをして講義のテキスト化をしていたのか、そのメリットは何かを書いておきたい。(私の「最終講義」にも若干の紹介がある。本ブログ1月末) “AIで講義内容をテキスト化するメリット” の続きを読む