再論 学校教育から何を削るか5 授業をしない管理職

 学校のなかでは、教師の最も重要な授業以外の、実に様々な業務が行われており、そのための人員が配置されている。教師の過重労働を解決するためには、教育活動に役に立つ仕事以外は、削っていくことが必要である。そして、仕事を削れば、人員も不要である。ただし、ここでいう人員の削減は、文字通りの教員数を減らすことではない。教員のなかには、授業を行っていない人が多数存在している。そうした教員は、皆管理職の位置づけをされている。私のいう削減とは、管理職ではなく、通常の教員に戻し、授業を行う教員にするということである。
 文部省の統計をみておこう。授業をしているかどうかき統計を探したのだが、見つけることができなかったので、小学校で担任をもっているかどうかの統計を参考にする。小学校には、授業をしているが担任をもっていない教師は存在するが、わずかであるので、だいたいの傾向はわかる。公立小学校の数値でみてみる。

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再論 学校教育から何を削るか4 通知表1

 教育と評価はコインの表裏の関係である。教育のプロセスには、必ず評価が背後にある。従って、教師は高い評価能力をもっていなければならない。そうした日常的な評価を集約するための評価が、制度的には指導要録であり、保護者に集約された評価(=成績)を伝達するのが通知表である。
 通知表は、保護者に対する連絡簿で、作成は法的には義務ではない。ここが誤解されていることが多い。実際に通知表をださない学校も、稀だがある。義務ではないのだから、様式も回数も学校で決めることができる。
 私自身も、成績などださなくてよいなら、本当に授業がやりやすいのだがと思っていた。小中学校の教師にとって、通知表の記入は本当に負担の大きい作業だろう。文部科学省は、特に負担の多い「文章」で書く部分を、単純な書き方にするなどという「軽減策」を打ち出しているが、それこそ「焼け石に水」だろう。
 何故、学校教育から削る対象にあげるかといえば、教育的評価のためには、通知表は不可欠のものではないこと、通知表があることによって、かえって教育実践を歪めてしまう恐れがあること、そして、通知表記入が、教師にとって大きな負担であること等による。

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再論 学校教育から何を削るか3 形式的な儀式とマナー

 今回扱うのは、形式的な儀式である。儀式というものは、すべて形式的ではあるが、教育的にあまり意味がなく、他の簡単な方法で代替できるという儀式は、不要で削る対象にするのがよいということだ。
 
(1)始業式・終業式
 日本の学校の新学期は、始業式から始まり、終業式で終わる。そして、始業式や終業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式や終業式はない。何故、始業式や終業式を学校全体の集会として行うのだろうか。入学式や卒業式は、その学年全体に関わることであり、また新しい生徒を迎え、次の段階に進む生徒を送り出すという意味がある。

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再論 学校教育から何を削るか2 運動会と合唱祭

 学校教育から何を削るかというテーマで、最初に思いつくのは、「運動会」であり、その関連で「合唱祭」である。いずれも「競争」を軸とした全員参加の学校行事である。だから、削る「基準」に完全に合致している。
 学校の教師や教師志望者たちは、ほとんどが学校教育での勝者、あるいは、学校時代によい思い出をもっている人たちだから、最も重要視される行事の運動会を削る対象としてあげられると、「えっ?」と言う人がほとんどだ。大学での授業で、運動会の必要性を議論しても、多くが当然あるべきものという見解を示す。
 しかし、実は、運動会こそ最も嫌な思い出だという人も、少なくないのだ。徒競走をやれば、確実にビリの子どもがでる。いつもビリになる子どもにとっては、運動会は悪夢でしかない。だからといって、そうした不快な思いをする子どもたちがいるから、運動会を廃止したほうがいいと言いたいわけではない。多くの弊害があるからだ。

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再論 学校教育から何を削るか1 基準

 以前「学校教育から何を削るか」というシリーズで約20本の文章を書いた。それをまとめてKindle本にしようかと思っていたのだが、まだまだ内容が不十分な部分があり、延ばし延ばしになっていた。そして、もう一度、ひとつひとつ書き直して、まとめようという気になっていたところ、昨日の文章で書いたように、定年問題が進行していることもきっかけに、歩みだそうと決意した。前回書いた部分の書き直しなので、重なる部分があることをお断りしておきたい。
 現在の公立小中学校がブラック職場となり、教師たちが過重労働に苦しんでいること、そして、その結果として毎年大量の離職者、休職者がいることは、広く知られるようになっている。どうしたらいいのか、多くの人が論じているが、徹底的な改革が必要である。そして、その改革の前提として、今やっていることのなかで、教育上絶対に必要なことと、なくしてもいいことを大胆に区分して、不要なことを削っていくことが大事であると、私はずっと考えている。もちろん、絶対に必要なことの多くは、大部分の人が共通にそう認識していると思われるが、不要だという部分は、賛否両論あるだろう。私が、これから、提起する「不要」な教育については、従って、異論もたくさんあるだろうし、そこにこそ教師としての生き甲斐を感じている人も少なくないことは、了解している。だから、それぞれの学校や地域で、共通に不要と思われることを削って、教師や子どもの負担を軽減していけばよい。ここではその道筋をつけたいと思っている。だから、私が不要と思うことを、かなり広くとって、問題提起したいということだ。

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教師の定年65歳にという問題

 教師をしている人から、教師の定年が65歳になったが、自分はとてもそんな年齢まで教師を続ける気になれない、絶対にやめてやるという話を聞かされた。もちろん、まだ65歳になったわけではなく、これから段階的になっていくという話だが、その人はまだ30代だから、自分にとっては定年が65歳だ、ということだろう。私の予想では、30年後のことだから、定年などという制度がなくなっているかも知れないとは思うのだが、たしかに65歳定年は確実にみえている。
 当然様々な議論がある。特に現在の小中学校は、ブラック職場としての評価が定着してしまい、教師志望者自体が減少しているから、単に、高齢者福祉だけではなく、教師自体の確保という点でも、定年延長は喫緊の課題なのである。年金受給年齢の引き上げの関係から、定年後の再雇用も、希望すればほぼ確実に再雇用されるようになっているのは、教師不足もあるからだ。

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子どもの信教の自由 学校教育と宗教二世問題

 統一教会をめぐって二世信者の問題がクローズアップされているが、もちろん、これは統一教会だけの問題ではない。むしろ、教育との関わりについては、エホバの証人などのほうが、これまで問題になっていた。しかし、その問題の認識の方向は、統一教会とは違っていた。 
 これまでの学校教育におけるエホバの証人の問題のされ方は、信教の自由を守る立場からだった。有名な事件としては、神戸高専で、体育の剣道の授業を拒否したエホバの証人の生徒たちが、言及留め置き、そして翌年退学になった事件である。剣道の授業を強制するのは、憲法で保障された信教の自由を侵すものだ、として提訴し、一審では原告が敗訴したが、二審、最高裁は、原告の主張を認めた。剣道の授業が、高専で学ぶ上で必須とはいえず、退学というのは、学校の裁量権の逸脱であるとした。つまり、ここでは信教の自由を認めた形である。

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教科書選定不正から考える3 社会科教科書

 今回は社会科の教科書について考えてみよう。
 以前にも、社会科だけではないが、新しい形の教科書について考えたことがある。「デジタル教科書に必要なこと」
 
 定型的な教科書が、社会科にとってはむしろマイナスになっている理由は、いくつかある。
 社会科の教科書は、常に政治的な争いの対象となってきた。そして、教科書訴訟という裁判ざたまで起き、しかもかなり長期に渡った。社会に様々な対立がある以上、社会を学ぶ教科においては、その対立が持ち込まれることは避けられない。どのようにそうした対立を、教育のなかで扱うのが適切なのか、その点についても、また対立があるのが実情である。

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教科書選択の不正から考える2 国語教科書は不要

 具体的な教科について考えてみよう。
 極端にいえば、算数(数学)と理科以外の教科書は、原則不要だと考える。特に、国語と社会は、教科書なる印刷物はないほうがよい。国語を例にとって、現在の教科書制度が、いかに学びを歪めているかをあげてみる。
 国語の教科書には、有名な文豪の文学作品や、優れた論文や説明文が掲載されていると、一般には思われている。それは間違いないが、実は、少なからぬ書き換えが行われているのである。どうして、そんなことが許されるのか。

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教科書選択の不正から考える1

毎日新聞が、精力的に、教科書選定に関する不正行為について報道している。
 要するに、4年に1度の教科書選定の際に、賄賂を贈ったり、接待する不正行為があったということだ。教科書を選定する委員を聞き出す、委員に働きかけるという選定そのものにかかわる点と、教科書作成過程に、現場の教師たちに意見を聴取するかたちで謝礼をするなど、いろいろな手口がある。
 しかし、現場の教師に意見を聞いて、その謝礼をするなどということは、別におかしなことでもないし、禁止するようなことなのかという考えのひともいるだろう。そして、教科書選定にかかわる不正行為は、今に始まったことではなく、現在の教科書検定・制定制度ができて以来、ずっと起きていることである。また、検定制度のないアメリカなどでは、別の教科書をめぐるトラブルがある。国民教育制度のなかで、決められた教科書がある限り、なんらかの形で、世間から批判されるような事態が起きることは不可避なのかも知れない。しかし、だからといって、放置してよいことではない。

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