再論 学校教育から何を削るか3 形式的な儀式とマナー

 今回扱うのは、形式的な儀式である。儀式というものは、すべて形式的ではあるが、教育的にあまり意味がなく、他の簡単な方法で代替できるという儀式は、不要で削る対象にするのがよいということだ。
 
(1)始業式・終業式
 日本の学校の新学期は、始業式から始まり、終業式で終わる。そして、始業式や終業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式や終業式はない。何故、始業式や終業式を学校全体の集会として行うのだろうか。入学式や卒業式は、その学年全体に関わることであり、また新しい生徒を迎え、次の段階に進む生徒を送り出すという意味がある。

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再論 学校教育から何を削るか2 運動会と合唱祭

 学校教育から何を削るかというテーマで、最初に思いつくのは、「運動会」であり、その関連で「合唱祭」である。いずれも「競争」を軸とした全員参加の学校行事である。だから、削る「基準」に完全に合致している。
 学校の教師や教師志望者たちは、ほとんどが学校教育での勝者、あるいは、学校時代によい思い出をもっている人たちだから、最も重要視される行事の運動会を削る対象としてあげられると、「えっ?」と言う人がほとんどだ。大学での授業で、運動会の必要性を議論しても、多くが当然あるべきものという見解を示す。
 しかし、実は、運動会こそ最も嫌な思い出だという人も、少なくないのだ。徒競走をやれば、確実にビリの子どもがでる。いつもビリになる子どもにとっては、運動会は悪夢でしかない。だからといって、そうした不快な思いをする子どもたちがいるから、運動会を廃止したほうがいいと言いたいわけではない。多くの弊害があるからだ。

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再論 学校教育から何を削るか1 基準

 以前「学校教育から何を削るか」というシリーズで約20本の文章を書いた。それをまとめてKindle本にしようかと思っていたのだが、まだまだ内容が不十分な部分があり、延ばし延ばしになっていた。そして、もう一度、ひとつひとつ書き直して、まとめようという気になっていたところ、昨日の文章で書いたように、定年問題が進行していることもきっかけに、歩みだそうと決意した。前回書いた部分の書き直しなので、重なる部分があることをお断りしておきたい。
 現在の公立小中学校がブラック職場となり、教師たちが過重労働に苦しんでいること、そして、その結果として毎年大量の離職者、休職者がいることは、広く知られるようになっている。どうしたらいいのか、多くの人が論じているが、徹底的な改革が必要である。そして、その改革の前提として、今やっていることのなかで、教育上絶対に必要なことと、なくしてもいいことを大胆に区分して、不要なことを削っていくことが大事であると、私はずっと考えている。もちろん、絶対に必要なことの多くは、大部分の人が共通にそう認識していると思われるが、不要だという部分は、賛否両論あるだろう。私が、これから、提起する「不要」な教育については、従って、異論もたくさんあるだろうし、そこにこそ教師としての生き甲斐を感じている人も少なくないことは、了解している。だから、それぞれの学校や地域で、共通に不要と思われることを削って、教師や子どもの負担を軽減していけばよい。ここではその道筋をつけたいと思っている。だから、私が不要と思うことを、かなり広くとって、問題提起したいということだ。

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教師の定年65歳にという問題

 教師をしている人から、教師の定年が65歳になったが、自分はとてもそんな年齢まで教師を続ける気になれない、絶対にやめてやるという話を聞かされた。もちろん、まだ65歳になったわけではなく、これから段階的になっていくという話だが、その人はまだ30代だから、自分にとっては定年が65歳だ、ということだろう。私の予想では、30年後のことだから、定年などという制度がなくなっているかも知れないとは思うのだが、たしかに65歳定年は確実にみえている。
 当然様々な議論がある。特に現在の小中学校は、ブラック職場としての評価が定着してしまい、教師志望者自体が減少しているから、単に、高齢者福祉だけではなく、教師自体の確保という点でも、定年延長は喫緊の課題なのである。年金受給年齢の引き上げの関係から、定年後の再雇用も、希望すればほぼ確実に再雇用されるようになっているのは、教師不足もあるからだ。

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子どもの信教の自由 学校教育と宗教二世問題

 統一教会をめぐって二世信者の問題がクローズアップされているが、もちろん、これは統一教会だけの問題ではない。むしろ、教育との関わりについては、エホバの証人などのほうが、これまで問題になっていた。しかし、その問題の認識の方向は、統一教会とは違っていた。 
 これまでの学校教育におけるエホバの証人の問題のされ方は、信教の自由を守る立場からだった。有名な事件としては、神戸高専で、体育の剣道の授業を拒否したエホバの証人の生徒たちが、言及留め置き、そして翌年退学になった事件である。剣道の授業を強制するのは、憲法で保障された信教の自由を侵すものだ、として提訴し、一審では原告が敗訴したが、二審、最高裁は、原告の主張を認めた。剣道の授業が、高専で学ぶ上で必須とはいえず、退学というのは、学校の裁量権の逸脱であるとした。つまり、ここでは信教の自由を認めた形である。

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教科書選定不正から考える3 社会科教科書

 今回は社会科の教科書について考えてみよう。
 以前にも、社会科だけではないが、新しい形の教科書について考えたことがある。「デジタル教科書に必要なこと」
 
 定型的な教科書が、社会科にとってはむしろマイナスになっている理由は、いくつかある。
 社会科の教科書は、常に政治的な争いの対象となってきた。そして、教科書訴訟という裁判ざたまで起き、しかもかなり長期に渡った。社会に様々な対立がある以上、社会を学ぶ教科においては、その対立が持ち込まれることは避けられない。どのようにそうした対立を、教育のなかで扱うのが適切なのか、その点についても、また対立があるのが実情である。

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教科書選択の不正から考える2 国語教科書は不要

 具体的な教科について考えてみよう。
 極端にいえば、算数(数学)と理科以外の教科書は、原則不要だと考える。特に、国語と社会は、教科書なる印刷物はないほうがよい。国語を例にとって、現在の教科書制度が、いかに学びを歪めているかをあげてみる。
 国語の教科書には、有名な文豪の文学作品や、優れた論文や説明文が掲載されていると、一般には思われている。それは間違いないが、実は、少なからぬ書き換えが行われているのである。どうして、そんなことが許されるのか。

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教科書選択の不正から考える1

毎日新聞が、精力的に、教科書選定に関する不正行為について報道している。
 要するに、4年に1度の教科書選定の際に、賄賂を贈ったり、接待する不正行為があったということだ。教科書を選定する委員を聞き出す、委員に働きかけるという選定そのものにかかわる点と、教科書作成過程に、現場の教師たちに意見を聴取するかたちで謝礼をするなど、いろいろな手口がある。
 しかし、現場の教師に意見を聞いて、その謝礼をするなどということは、別におかしなことでもないし、禁止するようなことなのかという考えのひともいるだろう。そして、教科書選定にかかわる不正行為は、今に始まったことではなく、現在の教科書検定・制定制度ができて以来、ずっと起きていることである。また、検定制度のないアメリカなどでは、別の教科書をめぐるトラブルがある。国民教育制度のなかで、決められた教科書がある限り、なんらかの形で、世間から批判されるような事態が起きることは不可避なのかも知れない。しかし、だからといって、放置してよいことではない。

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半旗にしないと処分の可能性という山口県教委

 山口県教育委員会が、国葬当日に国旗と県旗を、通知に反して、半旗にしていなかった県立学校の校長は処分の対象になりうるという認識を示したと、朝日新聞が報道している。しかし、実に奇妙な内容だ。
 教委は、各校が半旗にしたかどうかは調べる予定がないといい、永岡文科相は、調査しないから処分はされないと述べている。もちろん、処分されないとしても、その権限を示したことは、実に重大な問題だ。今は調査をしないといっていても、もちろん、半旗にすべきだという住民や政治家たちがいるから、彼らが運動して調査させる可能性はある。そうすると、その力に押されて調査が行われ、処分せざるをえない状況がつくられることになる。また、永岡文科相は、半旗を義務づけないという内閣の方針があるにもかかわらず、それについて触れるのではなく(触れていて記事に書かれていないだけの可能性もあるが)、調査しないのだから、処分もされないので、問題ないなどと逃げている。こういう場当たり的なことしかいわない文科相や教委が、現場をよい方向にリードすることは、まずしないのである。 “半旗にしないと処分の可能性という山口県教委” の続きを読む

背の順並びは差別?

 小学校での背の順で並ぶことに「差別だ」という声があがって、波紋を呼んでいるという。テレビ朝日が報じている。
 小学校教員の松尾英明氏が、その著書で指摘しているそうだ。テレビ朝日によれば、両論あるそうで、嫌だと思ったことはないという子どもの声と、背の順はいやだという子どもの声を紹介している。松尾氏は、「背の順」ではなく、「名簿順」を勧めている。少数が嫌な思いをしているなら、そのことに目を向けることが大事だとのこと。
 
 なるほどと思う反面、まったく違うことを、私は考えている。そもそも、並ぶことが必要かと思うのだ。並ぶというのは、おそらく、朝礼(昼礼)などのときだと思うが、そういう儀式そのものが不要だ。昔なら、確かに校長などが語りかけるときには、朝礼のように全員を校庭に集めて話をする必要があったが、今はほぼすべての学校に、テレビシステムやネットが各教室につながっている。校長が何か全員に伝えたいことがあれば、そのシステムを活用すればよいのだ。わざわざ時間をかけて、校庭に集める必要はない。時間の無駄ではないか。

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