再論 学校教育から何を削るか3 形式的な儀式とマナー

 今回扱うのは、形式的な儀式である。儀式というものは、すべて形式的ではあるが、教育的にあまり意味がなく、他の簡単な方法で代替できるという儀式は、不要で削る対象にするのがよいということだ。
 
(1)始業式・終業式
 日本の学校の新学期は、始業式から始まり、終業式で終わる。そして、始業式や終業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式や終業式はない。何故、始業式や終業式を学校全体の集会として行うのだろうか。入学式や卒業式は、その学年全体に関わることであり、また新しい生徒を迎え、次の段階に進む生徒を送り出すという意味がある。

 しかし、学期の始まりや終わりは、学級が中心である。だから、必要なことは学級で行えばよい。その方が必要事項が確実に伝わり、確認もできる。始業式や終業式を、学校全体で行うことは、とにかく、全員を一カ所に集めて、校長が挨拶というか、訓辞を述べることに意味があるようにしか思えない。しかし、子どもたちは、校長の話などは、ほとんど忘れてしまうのである。
 
(2)朝礼(昼礼)
 欧米の学校では、おそらく、朝礼とか昼礼などもない。そもそも、始業式や朝礼が楽しかったとか、思い出に残っているとか、そういう人はいるのだろうか。私には、「整列」させることと、校長が訓辞を述べること以外の目的はないように感じる。いや、生徒全員に伝達することがあるのだ、という意見もあるに違いない。しかし、今は、校内放送設備やインターネットが普及しているのだから、校長が伝えたいことは、給食の時間等に放送を使えばいいし、それをインターネットでも閲覧できるようにしておけば、内容が確実に伝わるだろう。
 私が小中学生のころは、校長の話を、整列して聞き、行進して校舎に入っていくという「訓練的要素」があったが、今はそうした内容が重視されているようには思われない。行進などの訓練は、意味があるとしても、体育の時間にきちんと行うべきものだろう。ただ、近年は朝礼や昼礼は廃止されている学校も少なくない。
 学習指導要領では、儀式的行事という規定があるが、具体的に出てくるのは、入学式と卒業式だけであり、国旗・国家の扱いを規定している。従って、始業式・終業式、そして朝礼と昼礼は、学習指導要領で行うことが義務付けられているわけではないのである。
 他に、表彰式としての意味があるという意見もあるだろう。最近の学校は、地域や県などの大会やコンクールを重視しており、県大会に参加が決まると、大きく看板に書かれたりする。当然、そこで入賞したりすれば、学校全体として表彰する必要があるというわけだ。そのためには、朝礼か昼礼が必要だ。
 この点については、競争的なことは、義務教育学校ではなく、社会教育で行うほうがずっと効果的であり、また問題が生じないと考えているので、表彰的としての朝礼の意味は感じない。
 
(3)けじめのための作法
 では、始業式や終業式は何故やるのだろうか。これはあまり「厳粛」に行われることはない。おそらく「けじめ」という感覚なのだろうと想像する。授業の開始にも、起立・礼をするのと同じである。つまり、「けじめの儀式」なのだ。
 話がそれてしまうが、私は市民オーケストラで活動しているので、オーケストラの「練習開始」つまり、けじめの付け方を考えてみたい。
 私は大学に勤めているので、ときどき大学のオーケストラに出演させてもらったことがある。学生オケの場合どこでも同じかどうかはわからないが、とりあえず私の大学の場合はこうだ。
 時間になって指揮者が前にたつと、代表者が、合図をして、全員が起立する。そして、「今日は**先生が指揮をしてくださいます。」「お願いします。」と全員が大きな声で。「また、本日は**先輩と++先輩が参加してくださいます。」「お願いします。」とまた全員。そして、礼をして座り、練習が始まる。
 市民オケの場合はどうか。指揮者が指揮台にたって、「さあ始めましょう」というと、全員がさっとたって、「お願いします」という。あまり大きな声はださない。別に誰かが音頭をとるなどはない。
 プロオケはどうだろう。これはリハーサルの映像でたくさんでているが、だいたい同じである。プロオケは、3日間ですべてを仕上げるので、映像は指揮者の最初の練習であることが多い。そのときには、楽団長が、今回の指揮はマエストロ**です、と簡単な紹介をすると、楽団員が拍手をして、それでお終いである。2回目以降だと、指揮者がやってくると拍手で迎え、直ぐに練習に入る。起立礼などは、見たことがない。
 これは、授業中に子どもが指名されて、何か答えたり、意見をいったりするときに、立つことにもつながる。何故立っていわなければならないのだろう。大人の会議で、発言するときに立ったりするだろうか。何故子どもにそれを強制するのか。立つことに意味を見いだすのは、それをマナーだと考えるということだろう。しかし、そんなマナーは不要だと思えば、欠点はいくつか見えてくる。
 ひとつは、時間の無駄ということだ。座った状態から、立って発言するに至るまでに、だいたい20秒くらいはかかる。そして、終わって座るまでも同様だ。つまり、ひとつの発言のために、発言そのものに関係ない動作に40秒費やすことになる。一時間の授業で20人発言させると10分以上だ。つまり、ほとんど授業に関係ないことで10分も無駄にしている。
 もうひとつは、特に小学校の低学年の子どもの場合、立つという動作をしている間に、自分が話したいことを忘れてしまうことがけっこうあるのだ。教育実習の研究授業を見にいったときに、そういう場面には何度も遭遇した。指されて直ぐに答えていれば、忘れることもなかっただろう。
 「けじめの儀式やマナー」などは少しも教育的な意味はないのだということだ。逆にいえば、学校で「けじめの儀式やマナー」が重視されているということは、教育の質が低い水準で構想されているということを示しているのだ。斉藤喜博の実践の映像などをみると、教師が質問すると、指名された子どもは、そのまますぐに答えているし、指名されずに発言する者もいる。それでいて、授業は実に整然と進行している感じである。座ったままだから、立つ動作で時間が浪費されることもない。対話にみんなが集中しているのでる。
 
 最後に、儀式に関する「厳粛さ」について触れておこう。学習指導要領は、儀式などの「厳粛さ」を重視しているが、私は大いに疑問である。「厳粛さ」は、権力をもつものが、自分の「権威」を誇示するための「雰囲気」のことであるが、教育という行為は、「権力的要素」をできるだけ排除することが、効果を高めるためには必要なのである。教える側が権力をもっているから、学習者が受け入れるのではなく、教えることが楽しい、あるいは説得力があるから受け入れるのである。校長の訓辞についても、大勢で、厳粛な雰囲気のなかで聞くよりは、少人数で聞き、更に気になったときに、再度聞けることのほうが、ずっと内容が正確に伝わるだろう。また、厳粛で儀式ばった話よりは、もっと自由でゆったりした、あるいはくだけた雰囲気で話される内容のほうがずっと心に届くのではないだろうか。効果に対する「合理性」が、学校教育のいろいろなところで欠如している。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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