帝京大学で呆れた事件が起きた。
帝京大学のある教授がゼミ生を募集し、ある男子学生がメールで応募したところ、名前が女性を思わせるものだったので、「女子は採用」という返事をだし、それに対して、学生が男性であることを知らせ、話し合いがもたれたが、学生が録音し、ネットで公表したということで、明るみに出たものである。実に憂鬱な事件だ。
「「あんたが女だと思ったから…」帝京大教授、男子学生に性差別的発言か 大学側「ゼミ募集を中止して調査」」
大学としては直ちに、当該ゼミの募集を停止したという。既に受け入れが決まっている学生はどうなるのだろう。ゼミそのものが中止されるのか。講義はどうなるのか。まだこれから動きがあるのだろう。
ゼミに関しては、大学によってだけではなく、学部や学科によっても規定が異なるから、この学部ではどのように運営されていたのかわからないが、私の経験からすれば異様なことだらけだ。何故異様に、私が感じるかは、私の経験を示しておくことがいいだろう。
私の学部では、3年4年にまたがるゼミが必修で、卒業研究もゼミで行い、ゼミで発表会をする。当然全教員が担当する。ゼミには人数制限があり、時期によって、次第に少なくなってきた。制限人数を多くすると、多いゼミと少ないゼミの差が大きくなることと、双方から不満が出たことで、人数差が小さくなるように変わってきたという経過がある。人気のあるゼミは、毎年選抜が行われる。選抜基準は、教員個人に任されている。それぞれの応募者の人数は選抜過程中から公表されるので、教員にとってもけっこう負担に感じるものだった。
私は、厳しいという評判と、専門と異なる学科に所属していたために、少なくはなかったが、制限人数を超えたことは一度しかなかった。制限人数を超えていない場合は、よほどの理由がない限り、教員から断ることは許されてなかったから、応募してきた学生は自動的に全員受け入れていた。一度だけ超えたときにはこまったが、私は、専門にあうテーマだけを受け入れたいと思っていなかったために、テーマで選択することはせず、結局、申し込み順にした。だから、けっこう優秀な学生も何人か断ることになったが、断る理由は、単純に「先着順」と伝えた。妥当な選抜基準かどうかは、賛否あるだろうが、理由は単純明快なので、表立っての抗議などはなかった。
2年の秋のはじめころに、ゼミ選択の手続き説明があり、各ゼミの方針が書かれた冊子が配布される。しばらく学生が教員に話を聞く期間がある。その後、自分の希望するゼミを印刷された申し込み用紙に、手書きで書いて、事務室に出すことになっていた。その後定員を超えたゼミでは選抜が行われ、漏れた学生が再度別の教員に申請する。そして、2カ月くらいかけて最終的に決まっていく。
以上を踏まえて、この件について考えていこう。
まず最初に驚いたのは、ゼミ生を4名募集したということだ。報道では明確ではないのだが、学部や学科として統一的な手順で進めるものではないように感じられたが、そこにまず違和感を感じる。教員が自分の意思で、人数を決めて募集するのだろうか。もっとも、報道が不十分で、実はしっかりとした全体の規定があるのかも知れない。
次に、メールでのやりとりになっていることだ。私の場合には、紙でのやりとりが基本で、しかも途中に事務が介在する。当然、途中でメールでのやりとりはあるが、補充的なもので、事務が介在することで、公明性が保たれている。メールだけのやりとりなら、不透明な部分がでてくるに違いない。
こうした制度的なこと以上に、この教授の行為の幼稚さに驚く。メールで女性であるかを確認し、女子=採用などと返答するというのは、信じられない行為だ。しかも、この教授は元大手新聞社の記者だったようだ。記者時代に取材源の秘匿が必要なときに、漏洩していたことなどなかったのだろうか。内心でどのように思うかは、他人がとやかく言うことではないだろうが、当事者に、安直にメールしてしまうというのは、職業人としても信用できないし、教師としての資質を欠いていると言わざるをえない。
更に驚いたことは、学生が教授と話し合いを行い、それを録音していたこと、しかも、それをネット上に公開したことだ。名誉毀損になる可能性もある。だが、こうした公表について、名誉毀損の可能性などは考えないに違いない。もちろん、この公表が公益性があると判断されることは、十分にありうる。なんといっても、大学教育における差別的な行為を認めることはできないわけであり、たしかに暴露は公益性はある。しかし、大学当局の担当部局に告発するという手段もあったはずである。ゼミに入りたいと思ったほどなのだから、その教授の講義などに惹かれていたのだろうし、人間としても信頼していたのではないか、私のような立場からすると、そう思いたいのだが、そのような信頼など一切なく、単にたまたまテーマがあったので申し込んだのだろうか。私の所属していた学部では、2年間中心的な学習の場になるのだから、教員への人間的な感情はもちろん、一緒に学ぶ学生との関係なども考慮して決める学生がほとんどだった。ごく稀に、教員とゼミ生とのトラブルも起きたが、それは例外的だった。
いろいろと考えさせられる事件だが、この教授は、やはり、大学で教える適性を欠いていると思わざるをえない。何故、どのような経緯で採用されたかも、問題になるかも知れない。
また、これからは、あらゆることが公表される可能性があるという前提で、教師はことにあたらなければならない時代になったのかも知れない。「説明責任」が常に念頭に置かれねばならないということだ。