ある寺のトイレが廃止

 兵庫県のハイキングコースの途中にある寺が、これまで一般に開放していたトイレを廃止することになり、かなりの話題になっている。
「汚され、壊され、暴言も…マナーが悪すぎてトイレ撤去 お寺の住職が苦渋の決断「数十年悩まされました」」(金井かおる 2021.11.23)
 この寺は、檀家の一人が、寺に参拝するひとのためにと寄付をしたものだそうだが、ハイカーが使用することも認めていただけではなく、ハイキングの解説本に、コース最後のトイレと紹介されていたこともあり、利用者のほとんどはハイカーで、中には使い方の酷い者がいて、清掃などにかなり苦労して、とうとう廃止することになったという記事だ。興味深いのは、この記事に対して、1日たった24日現在で、800ものコメントがついていることだ。そして、少数ながら、寺を批判するコメントもあり、沸騰状態とえいえる。

 たまたまハイカーのなかに不心得者がいるということだが、これは、コンビニや公園のトイレにもいえることで、日本が話題になるときに、町がきれいだ、ゴミが落ちていない、公衆トイレが無料なのに清潔だ、などと言われることが多いのに、こうした事例が出てきている、ということは、広く社会的な背景を考える必要があるといえる。日本社会が変化してきたのか、あるいは、ごく一部の不心得者のせいなのか。
 
一般的マナー
 中国人の旅行客が、たくさん日本を訪れるようになった頃、中国人のマナーの悪さが頻繁に取り上げられていた。それに比べて日本人は、マナーがよく、世界各地で称賛されているというような見解もあった。しかし、高度成長期に、日本人も多く旅行するようになって、マナーの悪さがよく指摘されたものだ。「旅は恥のかき捨て」などと言われていた。だから、決して、中国人と日本人という対比で論じられることではなく、経験の蓄積とそれに伴う社会的意識の変化、訓練などで、少しずつ変わっていくものだ。中国人のマナーも一頃言われるほどではなくなってきたように思う。
 意識という点では、私たち家族が1990年代の初頭にオランダで生活したとき、オランダの歩道には、犬の糞がたくさん放置されていた。犬を散歩する際に、糞を散歩者がきちんととって持ち去るという意識がなかったのだ。パリも同じような感じだった。しかし、10年後再び訪れたときには、そうした現象はなく、歩道に犬の糞を見ることはなかった。人々の意識の変化と、社会が行動規制(この場合は、散歩中の犬の糞は持ち去ることを法令化すること)によって、行動が変わっていくということだ。そして、環境を清潔にし、そのために多少嫌なこともしなければならない、という意識をもって行動できるようになるには、生活のゆとりが必要なのだ思う。旅行中のマナーなどは、その典型だろう。
 この寺のトイレの場合、誰が汚しているのかについて、コメントでは意見が分かれている。多くのひとは、一般的なハイカーという前提で書いているが、なかには、外国人という主張もある。しかし、トイレットペーパーがないぞ、などというクレームをつけるひとがいるとも書かれているので、やはり外国人に罪をきせるべきではないだろう。
 そこで、生活や精神的余裕があってこそ、マナーが守られるということが正しいとすれば、生活が苦しくなり、精神的余裕がなくなると、マナーを守ることができなくなり、マナーが軽視される社会になっていくのか。30年間、日本は経済成長をしておらず、賃金があがらない状況がつづいているなかで、相対的に日本が貧しい社会になりつつあることは否定できない。それにともなって、トイレを使う場合のマナーも守れないひとが多くなったのだろうか。私には、日本人の余裕がなくなっていることが、マナーを次第に悪化させているような気がしてならない。
 
寺は公的なものか
 お寺のトイレであるために、公的なものなのだから、トイレの清掃などは、寺として当然やるべきものではないかという見解も書かれていた。予想通りそのような意見には、多数の批判が書かれていたのだが。お寺内といえども、私有地であり、公共のものではないというのが、批判の理由だ。たしかに、ハイカーのために設置したわけではないトイレを、9割くらいハイカーが使い、汚されるというのであれば、寺としてはトイレなど置かないという決断をしても、非難はできない。今回の寺の措置は妥当だと思う。
 しかし、寺は私的な存在だというのは、法的には間違っている。寺は宗教法人として認可されているはずであるから、「公益法人」ということになっている。純粋に私的な組織ではないので、様々な特権を付与されている。だから、開放的なトイレを運用するくらいやるべきだ、という意見も、全く間違っているともいえない。
 ただし、私個人の見解では、宗教は公益性があるとは思っていないので、完全に私的な性格をもった組織であると位置づけるべきで、非課税特権も廃止し、こうしたトイレの設置などは、善意、あるいは宗教活動のためにやることは自然なこととして、一般の人に開放すべきなどということは、おかしな要求である。
 
有料トイレ
 公衆トイレは有料化すべき、という見解も少なくない。ヨーロッパの公衆トイレは、ほとんどが有料で、受け付けがいたり、また、駅の改札のようにチケットを入れると通れるような仕組みのものもある。清潔さよりは、安全を求めて有料トイレに入る人が多い印象だったが、いずれにせよ、有料であれば清掃などの問題も解消する。日本では、有料トイレはほとんどないが、観光地で入場料を払って入る施設などのトイレは、入場料にトイレ代も含まれると考えることはできる。しかし、デパート、コンビニ、ショッピングモルなどのトイレは、どうなのだろう。
 私自身は、コンビニのトイレを利用するときには、必要はなくても、飲み物くらいは購入する。そうしないと申し訳ないと思うからだ。しかし、デパートや大きなショッピングモルでトイレを利用しても、何か買わなければいけないという気持ちにはならない。自分でのこの使い分けは、おかしいのではないかとも思う。
 多くのひとは、どうしているのだろう。
 サービスを無料で提供することと、有料にすることは、どのようなメリット、デメリットがあるかは、当然ことがらによって違うが、しかし、サービスの提供を受ける以上、対価を払うのが妥当であると思う。無料のサービスは、公的なものなら、税金によって支払われているだけだ。だから、サービスを受ける際の制約もある。ただ、市街地では、トイレを探し回る必要がなく、無料でつかえるトイレがあちこちにあるというのは、便利であることは確かであり、清潔に使いたいものだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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