学校のなかでは、教師の最も重要な授業以外の、実に様々な業務が行われており、そのための人員が配置されている。教師の過重労働を解決するためには、教育活動に役に立つ仕事以外は、削っていくことが必要である。そして、仕事を削れば、人員も不要である。ただし、ここでいう人員の削減は、文字通りの教員数を減らすことではない。教員のなかには、授業を行っていない人が多数存在している。そうした教員は、皆管理職の位置づけをされている。私のいう削減とは、管理職ではなく、通常の教員に戻し、授業を行う教員にするということである。
文部省の統計をみておこう。授業をしているかどうかき統計を探したのだが、見つけることができなかったので、小学校で担任をもっているかどうかの統計を参考にする。小学校には、授業をしているが担任をもっていない教師は存在するが、わずかであるので、だいたいの傾向はわかる。公立小学校の数値でみてみる。
校長・副校長・教頭は、ほとんど担任をもっていない。主幹教諭と指導教諭は半数が担任をもっており、教諭は7割が担任をもっている。担任をもっていない教諭は専科の担当者と考えてよい。主幹教諭と指導教諭の担任をもっていない人は、まったく授業も担当していない場合と、専科を受け持っている場合があるだろうが、小学校の中心は担任教師だから、半数が外れていることは注意すべきであろう。
こうした体制は、文科省が一貫してとってきた「管理体制強化」の表れである。
教育行政学では、古典的な論争として「重層構造論」と「単層構造論」というテーマがある。古くは、東京教育大学の伊藤和衛が前者、東京大学の宗像誠也が後者の代表的な論者だった。今は、法的に前者が規定されているから、表立った論争はほとんどないようだが、理論的な問題としては厳然として残っており、後者の立場にたつ者からみれば、改革の必要性が大きい課題となっている。
端的にいえば、「重層構造論」とは、校長をトップとして、教師が階層的に位置づけられ、ラインの命令系統で仕事をすることが、最も学校の目的をよく達成できるとする論である。それに対して、「単層構造論」とは、校長以外の教師はすべて平等な立場であり、係やその責任者は、校務分掌として随時交代して行うのが、学校として最もよい教育ができるとする論である。
教育論から見れば、単層構造論が正しい。単純に、学校の主要な構成員である教師は、みな同じ仕事をしているからである。つまり、基本的に、自分の教えるべき教科について教え、担任としての役割を果たす。このふたつの機能において、新人もベテランもなんら変わらない。
重層構造論は、企業の組織を学校に導入した論理である。しかし、企業と学校はかなり違う。一般的に企業には、様々な部署がある。経理、人事、営業、企画等々。更に、別に現場をもっている場合も少なくない。このようなところでは、経理には経理としての人的構成があり、人事や営業もそうだろう。経理や人事を同じ平面において、社長がひとりで統括するわけにはいかない。中間管理職が必要であり、更に部は課に分かれてもいる。そして、それは各々違う仕事をしている。更に、一般的に企業はかなり大きな組織であり、数百人、数千人、大規模な企業では数十万人の従業員がいる。重層構造になっていることは自明だ。しかし、学校は平均的に50人程度の教職員で構成されている。しかも、やっていることは教員に限っていえば、ほぼ同じである。
こう考えれば、単層構造論が学校のあり方に適合した原則であることは、多くの人が認めるだろう。
しかし、法は明確に重層構造論に基づいて規定されている。もともと重層構造論は、権力的理論だから、教師たちを管理の対象としてみていた文科省としては、当然のことかも知れない。学校教育法は、小学校の教職員について次のように規定している。
第三十七条 小学校には、校長、教頭、教諭、養護教諭及び事務職員を置かなければならない。
○2 小学校には、前項に規定するもののほか、副校長、主幹教諭、指導教諭、栄養教諭その他必要な職員を置くことができる。
○4 校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。
○5 副校長は、校長を助け、命を受けて校務をつかさどる。
○7 教頭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。
○9 主幹教諭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)及び教頭を助け、命を受けて校務の一部を整理し、並びに児童の教育をつかさどる。
○10 指導教諭は、児童の教育をつかさどり、並びに教諭その他の職員に対して、教育指導の改善及び充実のために必要な指導及び助言を行う。
○11 教諭は、児童の教育をつかさどる。
ここで不要な部分は省いたが、校長ー副校長(教頭)ー主幹ー指導教諭ー教諭という「ライン」が想定されている。副校長と主幹教諭は、管理職として新しいが、いずれも「命を受けて」という言葉が挿入されていることに注目すべきである。それまで「命を受けて」という言葉、この教職員の項目には存在しなかった。もちろん、副校長や主幹教諭が導入される以前にも、ライン的管理を指導していたわけであるが、このふたつの管理職の導入によって、完成させたということであろう。
学校と教師にとって最も重要な仕事は、教育活動そのものである。そして、教育は校務と区別され、監督命令の対象ではなく、校長が監督命令権をもっているのは、学校教育法の規定の通り「校務を司る」ことなのである。しかし、校務というのは、日常的にあるものではない。例えば、生活指導の委員、その責任者生活指導主任が、校長に指名されたとしても、実際に活動を始めれば、それは「教育活動」の一環となり、あくまでも教育の論理によって処理されるべきものである。いじめが起こって、学校全体として取り組むとして、それは、校長からの監督命令によっていじめに対応するのではなく、校長が行うのは、指導助言である。指導助言は、別に地位が上のものでなければできないのではなく、要は教育的識見をもっているかによる。もし、校長がおかしないじめ対策をしたとして、(隠蔽などという形で実は珍しくない)それをラインの論理で監督命令などしたら、学校はよい教育ができるはずがない。逆に、関わっている人たちが自由に意見を言い合うことができ、みんなが納得できる方策が採用されていくときに、最もよい解決が可能になるものだ。校長が優れたアイデアを出したとして、それをみんなが納得すれば、命令する必要など全くないのである。
教育活動において、上下関係はないほうがよい。それは、多くの教育実践の中で、教師と子どもの間でも、同様なのである。
もう少し、具体的に考えてみよう。
ひとつは通知表の記入である。現在、ほとんどの学校では、通知表の記入は校長のチェックを受けることになっている。校長が管理職だからという理由だ。副校長や教頭もチェックして、しばしば見解が異なる場合があり、教員を当惑させる。しかし、子どもたちを直接みていない管理職のひとが、適切なチェックなどできるのだろうか。おそらく、言葉使いのチェックなどが中心であろう。通知表の責任は担任として、管理職は担任が困った場合に助言する程度でよいのだ。管理職のチェックは、主にトラブルを防ぐということだろうが、日常的なコミュニケーションが行われていれば、トラブルになるような通知表の表現も起きにくいはずである。トラブルも教育活動の対象であると考えることができる。
もうひとつの例は、日常的な教育課程編成である。まだ少数かも知れないが、教育実習の学生の研究授業を見学したとき、そこでは、主幹教諭が、全学年の毎日の授業の範囲・方法・ポイント等を一覧にして決めていた。学年ごとに電話帳のような授業要覧が作成されていた。これは無駄というより、有害というべきだろう。授業をしない者が決めた一年間の時間単位の授業スケジュールなど、そのまま実施できるはずがないし、もし、実施した教師がいるとしたら、それは子どもの理解の実態を無視して、とにかく、スケジュールをこなすことに徹した結果だろう。主幹教諭自身、そのような有害な冊子を作成するよりも、授業そのものをしたほうが、ずっと人材の活用になる。
こうして、管理職がやっている無駄・有害な作業を無くして、管理職が授業をするようになれば、その分一般教師たちの負担はずいぶん軽くなるはずである。
もうひとつの側面である「研修」を考えてみよう。指導教諭という役職があることでわかるように、現在は、教師の研修が極めて重視されている。研修がたくさん行われていることはいいことだと思う人が多いだろうが、適切な研修ならよいが、そうでなければ、むしろ教師たちの時間的、精神的な負担になるだけである。
はじめて教師になった人には、初任者研修が行われる。新任教師の授業は、少々減らされており、その分指導教諭の指導を受けたり、他の教師の授業を見学、他決められた研修を受けるわけである。しかし、本当に有効な研修については、まったく別のところで(官製研修の削減)論じるが、ここでは、指導教諭等が自分の時間を割き、また、新任教師も、有効かどうかわからない義務的な研修に参加することで、自分の授業を減らすということが、機械的に行われることの無駄を指摘したいのである。指導教諭は、ほとんどは経験を積み、力量のある教師であろう。しかし、半数は担任をもっていない。彼らが、義務的に新任教師の指導に時間を割くのではなく、担任をもち、日常的に他の教師にアドバイスをすることができる雰囲気があれば、そのほうがずっと全体の教育活動が活性化するに違いない。
このように、実際に授業を行わない管理職の教員が多くなっているのは、学校本来の教育実践にマイナスである。だから、校長を除く教員は、すべて授業をもち、担任ももつべきなのである。そうすれば、全体としてかなりの負担軽減が実現するはずだ。