再論 学校教育から何を削るか4 通知表1

 教育と評価はコインの表裏の関係である。教育のプロセスには、必ず評価が背後にある。従って、教師は高い評価能力をもっていなければならない。そうした日常的な評価を集約するための評価が、制度的には指導要録であり、保護者に集約された評価(=成績)を伝達するのが通知表である。
 通知表は、保護者に対する連絡簿で、作成は法的には義務ではない。ここが誤解されていることが多い。実際に通知表をださない学校も、稀だがある。義務ではないのだから、様式も回数も学校で決めることができる。
 私自身も、成績などださなくてよいなら、本当に授業がやりやすいのだがと思っていた。小中学校の教師にとって、通知表の記入は本当に負担の大きい作業だろう。文部科学省は、特に負担の多い「文章」で書く部分を、単純な書き方にするなどという「軽減策」を打ち出しているが、それこそ「焼け石に水」だろう。
 何故、学校教育から削る対象にあげるかといえば、教育的評価のためには、通知表は不可欠のものではないこと、通知表があることによって、かえって教育実践を歪めてしまう恐れがあること、そして、通知表記入が、教師にとって大きな負担であること等による。

 
・教育実践を歪めること
 学習で一番大事なこと、深く学ぶこと、そのことによって楽しく学べるようになることなのである。「わかったか、まだか」「できたか、まだか」という、日常的なチェックは必要であるが、それはテストによる必要はない。教師が子どもたちの対応やノートをチェックすることで把握することができることだ。ところが、学期ごとに成績をだすために、資料として日常的に頻繁にテストを行う。このことによって、学習の楽しさを感じることが難しくなっているし、また、楽しさを教えることも難しくなっている。ほとんどの人にとっては、試験のための勉強など楽しいものではないからだ。試験で評価をつけるとなれば、試験のための勉強になってしまう。だから、試験のための勉強ではなく、深く理解するための勉強を実現するためには、通知表のためのテストを減らすこと、そして、そのためにも通知表を無くす、あるいは記入の機会を減らすことが有効である。
 
・通知表の記入は、教師にとって大きな負担である。
 それは時間的なことだけではなく、精神的なことも含まれる。3年目位の若い教師たちに集まってもらって、いろいろと話を聞かせてもらったことがある。ほぼ全員が語っていたのは、通知表記入の煩わしさだった。特に困るのが、管理職にみせて、了承をえることが必要なのだが、教頭、副校長、校長の見解が逆だったりすることがよくあるのだそうだ。管理職が逆のことをいえば、新任教師ならずとも、当惑してしまうことだろう。ある管理職がAといい、そのように訂正したら、別の管理職がBといって、Aではだめだと指導する。そんなことがよくあるというわけだ。時間がかかるというひとつの原因がここにもある。
 通知表は、なくてもよいが、ないほうがよいとまでは思わない。しかし、あるべきとしても年一度で充分である。そうすれば、「簡単に書く」などという姑息なやり方ではなく、年一度なのだからしっかり書けるだろう。
 
 さて、教育的な評価とは何だろうか。どのような能力や資質を評価するのだろうか。また、日常的な指導のなかでの評価と、通知表のような期限を区切って行う評価は、何が違うのだろうか。これらは、実は教育学的には大きな論争課題であったし、今でもその争点は消えていない。日常的な教育では、「できている」「わかっている」ことの不断の確認が必要な評価であるが、集約して行う評価はどんなものなのか。
 単純化していえば、計測された能力を、計測(必ずしも数量的な計測ではない)に従って評価することに限定する立場と、態度や意欲など計測しにくい、能力の前提となる資質も含めて評価すべきだとする立場がある。かつての勝田・広岡論争として議論されたことだが、細かい相違はあるとしても、原理的な対立はこの点にあるといえる。
 この問題を考える上で、具体的な事件を参考にしてみよう。
 
・オール3事件
 これまで、通知表をめぐる事件は何度かあった。古いので、知らない人も多いだろうが、「オール3事件」というのがあった。これは通知表は何を評価するのか、ということについて、根本的な問題を提起したともいえる。
 ある音楽の教師が、中学3年の1学期の成績に、担当クラスの全員を3にしたのである。その学期はずっと合唱をやっていたので、差をつけることはできないとして、全員同じにした。当時は相対評価の時代で、1から5までの割合が決まっていた。高校入試で内申点が考慮されるから、通常なら5を取れるはずの生徒の親が騒ぎだしたことから、「事件」となった。内申点は2学期なので関係なかったし、また、内申点としてつける数値は、厳密に相対評価でつけられるもので、家庭への連絡である「通知表」とは異なり、親たちが心配する必要はなかったのだが、誤解が生んだトラブルともいえる。
 この話を講義ですると、多くの学生は、オール3をつけた教師に批判的である。その理由は、第一に、差がつかないのは、「評価」ではないとするもの、第二に、みんな頑張ったから差をつけることはできないといっても、練習態度とか、声のよさとか、歌のうまさとか、絶対に差があったはずで、それを評価しないのは、おかしいというものである。ここには、「評価とは差をつけるものだ」という「信念」のようなものがある。しかし、冷静に考えれば、評価は差をつけることではないことは、誰にもわかるはずである。
 もうひとつ、問題となった教科が音楽であることも注目される。しかも、多くの時間が合唱に費やされたという。音楽で差をつけるのは、何を評価して差をつけるのか。声のよさ、正確な歌唱、テクニック。こういうことを、義務教育の音楽の授業として、評価しなければならないものだろうか。将来音楽の道に進もうとする者であれば、こうした点の評価は重要であるし、不可欠だろうが、義務教育における音楽教育で、声のよさを判断するのは、むしろマイナスでしかない。歌唱力を評価する意味も、私は感じられない。この事件を扱うと、たとえば練習態度などにも差があるのではないかという意見が出てくる。しかし、練習態度は音楽の評価だろうか。
 この事件は、学校教育における評価は、何に対してのものなのかという問題を鋭く提起したといえる。つまり、方法に疑問は残るとしても、学校教育の内容を、すべて評価する必要があるのか、必要ないものもある、というのが、その教師の言いたいことだったと考えられる。
 
・到達度評価
 オール3事件は、教師たちに大きな衝撃を与えたが、そこから、あるべき評価とはいかなるものかを真摯に追求してできてきたのが「到達度評価」である。到達度評価は、現在さかんにいわれているPDCAサイクルと似ているが、根本的に異なる点がある。「到達度評価」とは、各教科の年間、学期ごとの到達目標を定め、目標達成を確認する基準を設定し、実践したあと検証して、改善していくという流れをつくるなかで、定めた基準にしたがって評価をするというものである。現在の小中学校の通知表は、形は到達度評価と同じである。教科ごとに、複数の到達目標があるので、それまでのひとつの教科にひとつの数値を当てはめるものではなく、複数の目標に関して、到達度を示すようになっている。
 PDCAサイクルとして使われている最近の通知表と、と外見的には似ているが、到達度評価における到達目標は、学年の教師集団が討議決定していくものであるのに対して、PDCAサイクルは、企業の経営体で行っているものだから、担当者が決めたものを、ラインが実行する形をとる。これが、学校に導入されると、主幹が決めて、担任教師が実行することが多い。学級の状況には、かならず違いがあり、授業を担当しない者が、このような具体的な実践内容と評価方法を決めることは、実践の質を向上させるには、マイナスでしかない。
 PDCAサイクルを強調している学校でも、通知表は授業担当者(小学校は担任)が書くだろうが、授業全般にかかわって、授業担当者こそが意思形成の中心になるべきものなのである。そうした総合的な取り組みを保障するためには、授業に集中できるようにして、余分なことを削減することが必要である。
 現在だされている通知表の多くは、擬似的な到達度評価であり、むしろ、PDCAサイクル理論につながっているものである。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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