再論 学校教育から何を削るか2 運動会と合唱祭

 学校教育から何を削るかというテーマで、最初に思いつくのは、「運動会」であり、その関連で「合唱祭」である。いずれも「競争」を軸とした全員参加の学校行事である。だから、削る「基準」に完全に合致している。
 学校の教師や教師志望者たちは、ほとんどが学校教育での勝者、あるいは、学校時代によい思い出をもっている人たちだから、最も重要視される行事の運動会を削る対象としてあげられると、「えっ?」と言う人がほとんどだ。大学での授業で、運動会の必要性を議論しても、多くが当然あるべきものという見解を示す。
 しかし、実は、運動会こそ最も嫌な思い出だという人も、少なくないのだ。徒競走をやれば、確実にビリの子どもがでる。いつもビリになる子どもにとっては、運動会は悪夢でしかない。だからといって、そうした不快な思いをする子どもたちがいるから、運動会を廃止したほうがいいと言いたいわけではない。多くの弊害があるからだ。

 
 そもそも運動会は何故始まったのだろう。
 運動会は、1874年イギリス人のストレンジによって、海軍兵学寮で行われたのが始まりと言われているが、森文部大臣が学校で行うように指導して広まったとされる。そして、学校に軍事教練などが導入されるに従って、軍事的な観点から強化されるようになった。整然とした行進、騎馬戦などそうした名残である。
 イギリス人の勧めで始まったが、日本独自の様式で広まり、同じ様な運動会は欧米には存在しない。私の子どもがオランダの学校に在籍していたときには、スポーツ・デイという運動会に似た催しがあったが、近隣の学校の生徒が、広い公園に集まって、臨時にチームを編成し、その場でルールを説明されて時間決めで競うものだった。通常の時間帯に練習などは一切行わない。
 日本のような運動会は、日本と日本の植民地だった国に、かつて日本が導入した行事として残っているに過ぎない。つまり、日本的行事であり、かつ20世紀的なものなのである。全員一眼となって共通の目標に向かって、勝利をめざすという象徴的行事である。しかし、私は、個々人がそれぞれの個性や資質を十分に伸ばすことを基本にした共同性が、現在最も重要な教育であると考えているので、運動会は社会的要請に合わない催しになっていると私には映る。
 
 では、何が問題か。
・全員が同じことをやらされ、そして集団的な競争が軸となっている。
 私は、競争は人が成長する上で重要な要因であると思うから、競争を教育の中に取り入れることは大いに賛成である。しかし、競争は、参加意思をもった者の間で行われるべきものなのだ。競争は、ある特定の資質・能力に限定して行われる。徒競走は短距離走の能力を競うものであり、5000メートル競争(運動会にはないだろうが)は、長距離走の能力を競っている。そして、これはかなり異なる能力なのだ。長距離に向いている人に、強制的に短距離走に出場させる、あるいはその逆にそれ程意味があるだろうか。
 近年問題となっている組体操にしても、筋力はそれほどないのに、身体が大きいからという理由で、一番下にさせられる、等々、全員が参加するという前提が、運動会にはあるが、これがいかに自分で不向きだと思っている子どもに、精神的負担となっているか、あまり考慮されているとは思えない。
 
・危険な種目が好まれる
 危険な種目が批判を浴びて、議論が起きている。
 典型的には組体操である。私が子どものころには、騎馬戦が文字通りつぶし合いの競技として行われていた。しかし、危険ということで、騎手の帽子をとる競技になっていった。危険なことは避けようということだ。現在では騎馬戦を行わない運動会も少なくない。そのために、現在では組体操が危険視され、あまり危険ではないやり方に変更されている。
 だが、危険だからやめようというのは、必ずしも適切な対応ではない。
 繰りかえすが、日本の小中学校では、何をするにも「全員がやる」ことが前提となっている。組体操は5年と6年全員、というようにである。私が責任者で、どうしても組体操をやらねばならないとしたら、3年生から6年生の希望者にする。そして、ピラミッドの上にいく者は体重が軽い方が下の負担にならないので、3年生などにする。組体操はいやだという子どもに無理に参加させるから、注意も散漫になるし、事故が起きやすいのである。しかし、こうしたやり方は、日本の運動会にはなじまない。
 
・練習や本番が、日本では最も気候の悪い時期に行われる
 オランダのスポーツ・デイのように一日だけ集まってやる分には、大きな問題ではないが、日本のように、かなりの日数をかけて練習をする場合には、熱中症の不安につきまとわれる。近年は、5月頃に既に猛暑日が記録されるなど、5月でも真夏のような天気になることが少なくない。6月になると確実に熱中症の危険が高まる。以前の運動会は秋に行われることが多かったが、近年は他の行事との関係か、一学期に行われることが多く、逆にこれが暑さとの闘いとなってしまう。また秋といっても、猛暑日が続く傾向になっている。近年の温度上昇によって、練習中、本番中に倒れる子どもたちが多くなっている。
 
・練習のために多くの授業時間が犠牲になる。
 最大の問題は、練習のために多大な時間を使い、通常の授業を潰すことである。学力重視をいいつつ、運動会の練習で授業を潰すことに疑問をもつ教育関係者は、あまりいないのだろうか。
 運動会は、おそらく最も多く、通常の授業を潰す行事なのではないだろうか。
 コロナ感染の流行で、学校は多くの行事を削らざるをえなかった。必要な授業時数を確保するためには、そうせざるをえなかったからである。そして、運動会を中止した学校では、授業のやりくりが格段に楽になったという。運動会がいかに通常の授業を圧迫していたかが、改めて実感されたわけである。そして、運動会を中止して、何か大きなものを失ったという感覚も、あまりなかったようである。しっかり授業時間をとれたことのほうが、教師にとっては、ずっといいことだと感じられたのだろう。
 
 では、なぜ運動会が、学校教育のなかで重視されているのだろうか。
 それは、日本社会特有ともいうべき「同質性」の形成を、運動会ほど効果的に実施できるものはないからである。同質性の形成は、同じことをみなでやって、しかも競争することによって形成される。競争することで真剣になれるし、多くの子どもたちにとっては、運動は楽しく、協力しやすい。しかし、運動やスポーツの楽しさを、最も効果的に、かつ楽しく行えるのは、それが好きなひとたちとともに行い、かつ専門的な指導者によって教えられるときなのである。
 
 さて、多くの人は、運動会は学校教育のなかで、必ずやらねばならないと思っているに違いない。削ることはルール上可能なのか。
 
 学習指導要領には、次のような記述がある。(小学校)
「(3) 健康安全・体育的行事
 心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵(かん)養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」
 つまり、体育的行事は規定されているが、運動会が規定されているわけではない。文化的行事として、文化祭をやらなければならないわけではないことと同じである。現状で、運動会をやらない学校はほとんどないだろうが、文化祭をやらない学校は少なくないのではないだろうか。そして、コロナという特殊事情はあったが、運動会を中止した学校も少なくなかったのである。
 実は運動会も様変わりしている部分がある。
 以下の記事をみよう。
 「また、熱中症対策に加えて、学習時間の確保、お弁当作りなど保護者負担の削減を目的に、「時短運動会」の実施が進んでいる地域もある。名古屋市では今年、半数の小学校で半日だけの運動会を予定。熊本県熊本市でも2016年の震災をきっかけに時短運動会が広まっているという。北海道札幌市では6割の小学校が運動会を昼頃までに切り上げている。
 小学校運動会に備え、6~12歳の児童たちが入場行進、立ちっぱなしの開会式や閉会式、学年ごとの種目など、炎天下の中で多くの練習をこなすことは、これまで当たり前とされていた。しかし、怪我のリスクもある組体操や騎馬戦をやるべきかやめるべきか、徒競走で順位を付けるべきか否か、昼食は家族で取るべきか……運動会の在り方を巡るさまざまな議論も、長年熱心に交わされてきた。」
https://wezz-y.com/archives/66245 (ただし現在は削除されている)
 こうした見直しが始まったのは、組体操などの危険な種目での事故、暑い時期に練習や本番に長い時間を費やすことの健康上の問題(熱中症等)、家庭の負担などへの対応が迫られているのである。
 
 まとめよう。
 運動会は、体育などとも違う次元の教育領域になっている。
 体育は、身体の育成、体力の向上という目標と、競争的なスポーツというふたつの領域があるが、すべての者にとって必要な領域は前者であって、競争的なスポーツは、それぞれの好みや資質によって選択されるべきものである。運動会は、ほとんどが後者の競争的要素で組み立てられている。個人の競争とともに、赤組・白組などの集団的競争も含んでいる。つまり、競争的な集団を組織することで、集団意識を高めるという教育効果を意図している面が強いのである。
 みんなが同じことをやりながら、集団的に競争するような教育は、未来を築く上で、桎梏となるだけである。多様な分野で、それぞれが個性を発揮しつつ、違うことを追求するような姿勢を形成することが、今後ますます重要になってくる。そうした教育を実現するためには、運動会のような行事は、廃止するのが最もよいが、最低限、根本的に違う発想で再編成しなければならない。
 
 合唱コンクールや合唱祭も似た問題がある。練習は音楽の授業や、放課後などに行われるから、運動会と違って多くの授業を潰すことはないし、また怪我などの心配もない。しかし、個々人の好みが無視されることには変わりがなく、また何よりも、芸術を競争の対象とすることが、本当に芸術の楽しさを理解させる教育としては、問題が大きいのである。日本の音楽系の部活として吹奏楽が大きな部分を占めているが、これもコンクールを目標にしていることが多く、芸術教育を歪めているとしか、私には思われない。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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