過激な発言が生まれる要因

なぜ過激な発言が生まれるのかを個人的に考えてみた。

人格的な面から考えると、演じることによって、普段の生活では弱い立場にいる者や、中くらいにいても、自分はもっと上にいるべき存在なんだなどと、どこかに自分を高い位置におこうという意思があるのではないかと考えた。そして、自分と同じような過激な発言をする人と仲間意識や連帯感を持つようになり、自分が強くなったように錯覚し、さらに過激な発言へとエスカレートしていってしまうのではないかとも考えた。また、一度過激な(強気な)発言をしてしまっているので、後戻りするわけにはいかないというプライドのようなものも持ち合わせているのではないかと思った。

このようなことから、過激な(強気な)発言をした「自分」に誇りを感じ、また、強い自分でありたいという気持ちが過激な発言を生むのではないかと考えた。

この何か月かで、ネット右翼とは何か、演じている側の尊厳とは何かと、一通り考えることができたので、今は課題が見つからず行き詰っている状態である。

虐待された子供たち 事例①

施設へのインタビュー交渉の傍ら本や文献を読み、様々な視点から「虐待」を考えてみようと思う。その第一弾として「虐待を受けた経験のある子どもはその後の成長段階においてどのような特徴が見られるのか。」ということについて調べてみた。今回から数回にわたり秋月奈央さんの著書、『虐待された子共達』に記載された実例をもとに私の考察も含めて投稿をすることにする。

Sちゃん

小学校2年生のSちゃんは両親と母方の祖母と4人暮らしをしていた。両親は共働きのため、普段は祖母が育児をしていたが、この祖母が主に虐待を働いていたという。Sちゃんの母親もこの祖母に叩かれて育っていた。そのため、母親もまたSちゃんを叩くことでしか育てられなかったという。祖母には虐待の意識はなく。あくまでも『しつけ』だったという。また、父親は普段は育児に無関心であるが、酒が入ると暴力的な性格になる人であり、Sちゃんが児童養護施設に引き取られた時にも施設に入り込み、「Sを返せ!」と暴れたという。このように家族全員から虐待を受けていたことが明らかになり、Sちゃんは児童養護施設に引き取られた。養護施設の職員は年齢の割に体が未発達だったSちゃんに驚き、『愛情剥奪性小人症』ではないかと疑った。これは、家族から虐待を受けたことで、特に親との愛情が希薄になったため、その心理的要因によって身体の発達が阻害されるという症状である。Sちゃんに限らず、虐待を受けた子どもは養育者から愛情を注がれなかった心理的影響が発育面にも影響を及ぼす例は少なくないと言われている。

体には火傷の跡や、殴られたような長い傷跡が至る所に、しかし目立たないような場所にあったという。酒乱の父親にやられたものだろうか。しかし、養護施設の職員がSちゃんの自宅を訪れた際、母親が出したお茶に対してとっさに頭をかばうというような過敏な反応を示したことから、私は母親か祖母から日常的に熱いお茶のようなものをかけられていたのではないかと疑った。

Sちゃんは児童養護施設に来た当初、なかなかしゃべらない子であったという。これは家族との言語的コミュニケーションが希薄であったため、また、暴力をふるう家族への恐怖心から自分の意見を言えなかったためだと推測できる。また、施設に引き取られてから学校で初めて発した言葉は「バカ。死ね。」だったという。Sちゃんが日常的に家族から浴びせられた言葉なのだろう。一人称や二人称を上手く使えないという点もSちゃんが家族や周囲の人達と良好なコミュニケーションを築けなかったという悲しい事実に裏付けられたことだろうか。

職員は児童養護施設での食事や遊びの際にもSちゃんのそれまでの生活を垣間見ることができた。Sちゃんは極めて食が細く、食べるのが早かったという。家族といた時には充分な食事を与えられなかったのだろう。私はそれだけでなく、Sちゃんはなるべく家族と同じ時間を共有したくなかったのではないかと憶測を立てた。また、遊びの面では友達と「夫婦喧嘩ごっこ」をしていたという。友達と腕を引っ張り合ったり、頭を叩く真似をしたり、「役立たず。」「お前なんか出ていけ。」とお互いを罵倒したりするのだという。とても小学校2年生の女の子がする遊びとは思えないが、この光景はSちゃんが実家で生活していた時の日常を再現したものだと考えられた。親子間で遊ぶ機会を得られなかったばかりか、夫婦喧嘩という子供にとって苦しいであろう出来事を遊びとして取り入れてしまうSちゃんに同情の念を覚えた。愛情を持って育てられなかった子どもは普通とはずれた感覚を持ってしまうものなのだろうか。

 

以上がSちゃんの大まかな特徴である。その後は少しずつ心を開き始めるようになったという。最初は硬直していた身体が養護施設での生活を通じて段々と柔らかくなっていったのだ。また、虐待の傷跡が痛むとしばしば職員に訴えてくるようになったという、その際に「これね、お母さんに棒で叩かれたの」と言ったそうだ。Sちゃんが初めて自分から虐待を受けたことを告白したのである。この時に職員はSちゃんが本当に痛かったのは身体ではなく、心なのだということに気付いたという。私はこの場面を想像して切なくも嬉しい気持ちになった。何故ならこのSちゃんの訴えはSちゃんが普通の愛情がどのようなものなのか気付き始めたサインだと思ったからである。自分の気持ちを、苦しい体験を正直に話せる相手を見つけることができたのだ。職員のことを信頼できる相手として認識した瞬間ということもできるだろう。暴力や暴言を使わなくてもコミュニケーションは成立するということをSちゃんは知ることができたのだ。

 

虐待を受けた子どもも適切な場所で丁寧な応対をすることで正しい愛情を理解することができるのだということがわかった。次回は性的虐待を受けたAちゃんについてまとめようと思う。

 

 

 

参考文献  秋月菜央『虐待された子共達』

人間の尊厳を保つには?

人間の尊厳を保つことは、社会で生きていく上で必要不可欠なことだと思う。 私が思う人間の尊厳は、一人ひとりが社会の中で相互的に理解され、尊重し合うということであり、そう考えると人間の尊厳なくして社会で生きていくことはできないと思う。 ゼミで話し合った認知症は、その点でとても難しいケースだ思う。 認知症患者にとっての社会は家庭やグループホームだと思うが、その中でも家庭において認知症患者の人間の尊厳が保たれることは難しい。本人と家族がお互いを理解することが難しくなるからだ。 例えば、認知症が進むと色々な事を忘れてしまい、自分がご飯を食べたことも忘れてしまう。本人はまだご飯を食べていないと思っているから「ご飯まだ?」などともう一度ご飯を食べようとする。しかし、家族はもう既にご飯を食べているから食べさせることはできない。そうなると、本人はどうして食べさせてくれないんだ、と思うようになり「家族は自分をいじめている」と考えてしまう。家族は本人のためを思っているのにそれを本人は理解してくれないし、認知症患者自身も自分の気持ちを家族にわかってもらえない、と思ってしまうのだ。このように認知症患者とその家族がお互いを理解し合うことは難しい。その中で認知症患者は尊厳を持って生きていると思うことがなくなってしまうと思う。 のし状況を良くするためには、認知症への理解が必要だと思う。家族が認知症をよく知り「認知症とはこういうものだ」と思うことができるようになれば、理解できる部分も大きくなるのではないかと思う。そうすれば、認知症患者も人間の尊厳を保ちながら生きることが可能だと思う。 何事に対しても、まずは「相手を知る」ということが大切だと思う。人種差別や障害者差別など、世の中には「人間の尊厳が犯されているのでは?」と感じることがまだまだ多くある。しかし、それも相手を知ることで変わってくるところがあると思う。相手の考えや思い、生き方などを何一つ知らないのに、「この人種だから」「障害者だから」というだけで差別するのはおかしいし、人間の尊厳を犯す行為だと感じるし、それを行う人に自分の尊厳を主張する資格はないと思う。 認知症や人種、障害は簡単にわかり合うことは難しいことである。しかし、どんなことでもそれを知ることはできると思う。そして、知ることが最終的には理解に繋がると思う。 誰もが尊厳をもって生きるために、まずは相手を知り、理解しようという気持ちが私たちには必要だと思う。

人間の尊厳

人間の尊厳私が人間の尊厳はなんであろうか、と考えた時、一番はじめに思い浮かんだことは、誰もが平等にもっている人間らしく生きること、であった。それはいつどんな時も存在するもので、周りから影響を受けないものである。人によって価値の大きさが異なったり、時や場所によって変化するものではない。

私は今まで人間の尊厳のことを考えながら生きてきたことはなかった。きっとそれは、私はそれなりに幸せに人間らしく生きてきたからである。

人間らしさとは、朝ふとんの上で目が覚める、ごはんを食べる、お風呂に入る、学校にいくと極めて当たり前のことが当たり前にできることであると考える。

しかし、それら生活する上で人間らしい生活ができなかったり、人間らしく扱われない人たちが世の中にはたくさんいるのだ。

 

そのように、人間の尊厳が尊重されず失われてしまうのは、一体どのようなことが原因なのか考えた時、一番に貧困によるものが頭に上がった。貧困はそこから多くの人間の尊厳を奪ってしまう。経済的余裕はもちろん、衣食住、睡眠、清潔さ、、、考えたらきりがない。

貧困の度合いのばらつきはあるが、貧困によって人間らしく生きることができない人は沢山いるのだ。

そして、その中には子どものことも含まれている。もちろん子どもたちにもその権利はあるが、子どもたちの方が仕方なく自分の責任でなく、奪われてしまうことがあるのではないだろうか。

私がこどもの貧困に関連する本を読んで最も痛切に気に感じたのとは、貧困は連鎖するということだ。例えば、親に経済力がなく貧困状態であれば、子どもは生まれた時点で貧困状態がスタートラインとなってしまい、次第に他の子どもとは差がつき、将来も苦しい生活を送るというものだ。

子どもは親を選べないのは当たり前であるし、貧困家庭に子どもを育てる権利がない、ということになってもおかしな話であるとは思う。しかし、親の貧困連鎖によって、寝るところもない、食べ物もたべれない、お風呂も入れないなどの、人間の尊厳がほぼないという状態で一生過ごすかもしれない子どもたちのことを考えると、私はかわいそうで仕方が無い。幸せなこともあるだろうが、きっと辛く悲しいことの方がたくさんあるだろう。

 

このような貧困児童を減らすためには、やはり貧困の連鎖を断ち切るしか方法はないと思う。その方法を探すため、今の子どもたちはどのような貧困状態におかれているのか知るため、今後自分なりに調べ活動していきたい。

人間の尊厳・中間報告

 

ゼミのテーマが人間の尊厳ということで、私は人間の尊厳が侵されている場面を想像し、テーマをスクールカーストとした。では侵されているのではなく、保たれている状態とはどういう状態を言うのだろうか。まず今一度、尊厳というものが何なのかを確認したい。私は侵害されてはいけない絶対のものであると思う。ニュアンス的には権利や自由と似た意味になるのではないだろうか。

尊厳というものは人間にしかない。それは、あらゆる生物の中で人間にだけ理性があるからである。そして全ての人は自分の欲求を満たそうとする時、それが他人に迷惑をかけないか、傷をつけないかを事前に考える。他人に迷惑をかけている自由は自由とは言わず、尊厳を侵している。その人は人の尊厳を侵していることになる。このことから尊厳が保たれている状態を想像すると、他人に迷惑をかけず、傷をつけることなく自分の欲求が満たされている状態のことを言うのではないだろうか。

 

次に前回の書き込みでスクールカーストの順位を決定づける要因としてコミュニケーション能力が重要であると書いたと思う。論文や本を読み、さらにわかったことがあるのでここに書き込んでいきたい。私は森口朗著の「いじめの構造」(新潮新書)という本を読んだ。少し話がずれてしまうが。この本の中ではいじめというものを類型化している。

 

・  タイプⅠ 集団のモラルが混乱・低下している状況(アノミー的状況)で起こる

・  タイプⅡ 何らかの社会的な偏見や差別に根ざすもので、基本的には異質性排除の論理で展開する

・  タイプⅢ 一定の持続性をもった閉じた集団の中で起きる。(いじめの被害者は集団の構成員)

・  タイプⅣ 特定の個人や集団が何らかの接点をもつ個人に繰り返し暴力を加えたり恐喝の対照とする。(理念型藤田モデル P35)

 

著者はさらにこの藤田モデルにスクールカーストの概念を取り入れ図のみであるが「修正藤田モデル」を紹介している。この図によってスクールカーストの高低によってタイプごとにいじめの被害者になりやすい人、加害者になる人を見分けることができる。

 

スクールカーストに話は戻り、「まず子供達は学校に入学した時やクラス分けの時に、クラスの人のコミュニケーション能力や運動能力、容姿等を測りながら1〜2ヶ月は自分のポジションを探る。」(P44)子供達は無意識にこのことを行い、ポジション取りに成功したものは1年間、いじめに遭うリスクを最小限にすることができ、成功しなかったものはハイリスクな1年間を過ごすことになる。ここでコミュニケーション能力の話になるが、コミュニケーション能力とは具体的に何をそう呼ぶのだろうか。改めて考えてみるととても意味が曖昧な言葉である。そこで著者はコミュニケーション能力を3つに分類した。(P44)

・  自己主張力 集団の中で自己主張する力

・  共感力 他者と相互に共感する力

・  同調力 クラスのノリに同調し、場合によっては空気を作っていく力

 

この3つの総合力(自己主張能力+共感力+同調力=コミュニケーション能力)を主因としてスクールカーストが決定される。さらに著者はこの3つの能力の高低によって占めがちなポジションを図で表している。例えば、全ての能力が高い人は皆から認められるリーダーとなり、カーストの地位は最高ランクとされ、おそらくいじめの被害者にも加害者にもならないであろう。自己主張力と同調力が高く、共感力が低い人がいたとすれば、この人もランクは高いが、周囲はこの人に対して自分勝手な印象を持ち、さらにいじめの加害者になる可能性が大となる。ここで注意したいのはスクールカーストが上位の人が必ずしもいじめの加害者にならないということである。

スクールカーストにおいてコミュニケーション能力が重要であるということは言われていたが、どうしてコミュニケーション能力が重要であるのか、またコミュニケーション能力という曖昧なものを分類化した森口氏の研究はとても大きな意味があったと思う。

 

 

これまでの経過と改めて人間の尊厳とは何か

私の考える人間の尊厳とは、人が何か考えを発する権利や、その発言によって傷つけられない権利である。それは、誹謗中傷や、反社会的な発言が行われたときに、その対象となった人の人間の尊厳が犯されていると考える。

私はネット右翼という言葉を知らないどころか、2チャンネル自体にも検索で引っかかった時にしか立ち寄らない程度であり、このテーマについてほとんどゼロの状態から始めたために、まずは、ネット右翼とはどのようなものなのか、というところから始めた。だが、ネット右翼と検索にかけてみても、ネット上で右翼的な発言をする人としか出ず、最初からつまずいた。しかし、ちょうど、STAP細胞問題や、従軍慰安婦問題、集団的自衛権の問題などといったネット右翼たちが食いつきそうな問題がでできたため、それに対しての投稿を集めてみた。すると、普通、面と向かっては言えないような過激な発言や、非人道的な発言が多々載っており、根拠なしにただ批判したものや、右翼の思想と絡めた発言ばかりで、正直驚いた。こうしてネトウヨの存在について知ることができたので、次は特徴を調べた。すると、民主党が嫌い、中国韓国が嫌い、在日が嫌いなどと載っており、また、社会的地位が低い、経済力は低収入、対人関係は不得意であるとあった。だが、後者の社会的地位や、経済力、対人関係についてはネトウヨたちの活動を見たところあまり共感できず、なぜなのかと疑問に思った。そこででてきたのが、古谷経衡さん(評論家、著述家)である。古谷経衡さんの書いた、「ネット右翼の逆襲」という本では、独自にネトウヨと思われる人1000人にネット上で独自にアンケートを取ったところ、学歴、収入ともに、平均並み、もしくは平均を上回るくらいで、恋愛経験も並みであるという見解を示した内容が書いてあった。なので、そのような考えはメディアの誤った表現や、「電車男」のような映画にも表れているように、私たちの勝手なイメージから生まれてきてしまったものではないかというように思えた。そして、その本に、今まで検索しても出てこなかった、ネトウヨ的発言の多い掲示板サイトが載っており、そこで改めてネット右翼たちの発言を見た。やはり予想通りで、在日に対する批判をはじめとした痛烈な批判ばかりで、あった。

こうして調べていくうちに、最初は、「なぜこんな発言ができるのだろうか」という疑問だったが、「こうやって発言できるのはネット上であり、相手が見えないからであろうか。実生活とは違うネット上の自分を演じているのだろうか。また、本当に本心で言っているのだろうか」という風に変わった。なので、先生に指摘されたように、演じているその人にとっての尊厳とは何かということもこれから考えていきたいと思う。

人間らしい、人間の尊厳って何?

人間の尊厳とは「どんな人も持っている、人として尊敬されかつ守られるべきもの」であると考える。これは年齢や性別、病気の有無に関わらずすべての人が持っているものである。
まず、「人間らしくある」ということはどのようなことなのだろうか。
ここで日本国憲法第十一条をみてみると「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と規定されている。つまり、調べてみると「人間が人間らしい生活をするうえで、生まれながらにしてもっている権利」と書かれている。このことから、人間の尊厳と基本的人権を尊重することは似ているものであると言うことができるのではないだろうか。
私たちは働くことによって収入を得ている。その得た収入があるからこそ、住む場所があり、食事をすることができ、睡眠をとることができる。また洋服を着たり、生活用品を買うこともできている。つまり「人間らしくある」ということは「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」と言うことができるのではないだろうか。残念ながら「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活していく」には食材や生活用品の購入などによりお金が必要になってしまう。職を得て十分なお金を稼いでいる人にとってみれば、このようなことは大きなことに感じないかもしれない。しかし、現実には働くことができず、家がなかったり、十分な食事がとれなくて苦しんでいる人がいる。親から十分な食事をもらえずお腹を空かしている子どもがいる。果たしてこのような苦しい思いを抱えた人々は人間らしい生活を送っていると言えるのだろうか。「人間らしく」生きていくためにはお金が必要であり、そのお金を得る代わりに働かなければならないのである。この「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」人間らしさというものは最低限の条件であり、「年齢や人種、性格や見た目で傷つけられたり、差別されたりしないこと」と「誰もが1人の人として存在していることを否定されない(尊敬される)」という1人1人の人間を守る見えないルールが組み合わせられることで人間の尊厳が守られていると言えるのではないだろうか。

では、ここで私の調べているテーマである「学校現場で教師が子供に不快に思うようなことや傷ついてしまうようなことを行うことは、子供の尊厳が侵されている」ということを関連させながら考えていきたい。
学校は子供に社会で生きていくために必要な力(学力・団結力・リーダーシップなど)を身に付ける場である。だからこそ教師は子供を「教育」しなければいけない。このようなことから教師は、子どもが誤ったことを行った場合には叱り、正しいことを教えてあげなければならない。このような教師と生徒という関係には必ず教師が「上」で生徒が「下」という上下関係が存在する。この構造を利用して教師は子供の尊厳を侵してしまうことがある。

まず、「叱る」という行為に関して、生徒は子供という前に1人の人間である。だからこそ、人として尊厳されなければならない。教師は敬意をもって叱ることが必要であるだろう。次に「教師と生徒」という上下関係を利用することである。最近では教師によるセクハラや体罰が多く問題となっている。子供からしてみれば、様々なことを教えてくれる人生の先輩からのセクハラや体罰はショックなことであろう。
私は小学校から高校までの担任の先生や部活動の顧問の先生にあこがれて、教師になることを目指すようになった。また、先生に怒られたことは今でも忘れることはできなく、今でも気を付けるようにしている。
このように、子供にとってみれば教師は「一日の大半を一緒に過ごす大人」であり子供への影響力は良くも悪くもとても大きいものである。だからこそ、教師は子供との接し方を考えなければならない。子供の成長のカギを握るのは親だけでなく教師も同じである。実際に学校現場を見てみると、子供が1人の人間であるという前提を考慮せず、教師と子供の上下関係を利用して叱る姿を目にすることがある。
先にも述べたように、人間らしく生き、尊厳されるということは年齢や人種などに関わらずすべての人に平等に与えられているものである。私たちは目先の年齢や学歴などの上下関係にとらわれがちであるが、その前提に誰しもが守られるべきルールがあることを忘れてはならない。

*参考URL
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/seiji/01_3_3_kihonnteki.htm

人間の尊厳とは

人間の尊厳とは何か、そのことを考える上で代表されるのはハンナ・アレントの“人間の条件”だ。
仕事・労働・活動の中で、マルクスが最も“労働”をメインとした“マルクス主義”をハンナは批判し、三つの基本的な人間の活動力(仕事・労働・活動)の中で、唯一人間的なものは“活動”であると述べた。
なぜなら、仕事・労働は生命維持と密接に関係しているので、人間だけでなく他の生物も共通して行っているのに対し、活動は多様性に富んでいて直接的には生命維持とかかわらないので、より人間的な行動だからだ。
このようにハンナが述べた人間の条件を、太田先生は「多様性かつ平等で個人を表現できること」と要約した。

このことから、人間の尊厳は、憲法二十五条の生存権
“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。”
よりも、憲法十一条
“国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。”
憲法十三条
“すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。”
といった基本的人権の尊重と重なると考える。
よって、店員の“人間の尊厳”が保たれている状態とは、店員である前に一人の人間であるので客と店員の立場関係が平等であり、「郷に入っては郷に従え」ではないが客が店側の行動やきまりを尊重できることだと考える。
だからこそ、横柄な態度は“平等さ”を欠き、自分の価値観を押し付けるような理不尽な要求は“多様性”を認めていないという点で“人間の尊厳”を侵しているのだ。

これまでのことを踏まえて、これからは「クレームと苦情の違い」や「どのようなクレームがあったか」、「客と店員の立場関係の認識」などをアンケートから読み取っていきたい。

人間の尊厳とは

「人間の尊厳」を考えた時、まずは「侵してはならない領域」だと考えました。人にはひとりひとり個性や人格がある。それは自分で形成していくものであり、手に入れていくものであり、他人に侵されていい領域ではない。当たり前のことではあるが人の人生は一度きりしかなく、その人生は紛れもなくその人のものだ。誰によって侵されてしまうのか?それはやはり他人であると考えました。
例えば学校でのいじめ、暴力、暴言などで自分の人格や個性を否定されることは、その人の尊厳を侵しているということではないだろうか。
生きていく上で、ひとりで生きていくことは不可能だ。誰しもが不特定多数の集団の中で生きていく。それが小さくても大きくても、周りに人がいるという状況は皆同じだろう。
その中でひとりひとりが自分らしく生きていくためには、互いに尊重し合い生きていくことが大切だと考えた。人の言葉ひとつで立ち直れないほどの傷を負うこともあれば、傷を負ったまま自分の命を終わらせてしまう人もいる。他人の影響力と言うのはそれほど大きいものなのだろう。
その不特定多数の中で自分の人格や個性をもち、自分らしく生きていくことが自分自身の尊厳をを保っている状態なのではないだろうか。

自分らしく生きる=自由奔放に生きる、好き勝手生きる、とは違う。それは逆に他人の尊厳を侵している状況になるかもしれないからだ。誰の尊厳も侵さずして、自分の尊厳を保つ。それが理想の形なのだと思う。

学校という場は誰もが通る道であり、人が人を「教育」する場として非常に貴重な時間であると思う。そこで享受したことを抱えながら子供は大人になる。大人に比べて子供はより吸収し身につけてしまう。その中で教師の発言によって子供の尊厳が侵されるということは多いのではないかと思う。実際にそういった場面はあるのか、どんな発言が影響を及ぼすかということを自分が教師を目指すにあたって、この研究を通して学びたいと思っています。

『健康』であることのありがたさを知るために

一言で『人間の尊厳』と言われてもなかなかピンとくる人はいないのではないか。私も最初はそうだった。このゼミのテーマが『人間の尊厳』だと言われた時に真っ先に思い浮かんだのは日本国憲法の基本的人権の尊重くらいである。それによると、基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」によって確立されたものであり、「侵すことのできない永久の権利」と謳われている。このことを頭に思い浮かべながら日常生活を営んでいる人が果たしてどれくらいいるだろうか。一人もいないだろう。何故なら私たちは普通に生活をしている分にはある程度幸せな生活を送れているからである。意識せずとも安全な生活は保障されているのである。つまり、主観的に『人間の尊厳』を考えるとなかなか難しいものがある。これは体調を崩した時に初めて健康であることのありがたみを感じる心理と似ているのではないか。
では、客観的に考えてみたらどうだろうか。つまり、体調を崩している人にとっての健康を考えるのと同様に、『人間の尊厳』が侵されているだろう人から見た『基本的人権』を考えることで、私は再度『人間の尊厳』とは何かを考察してみたいと思う。ここではできるだけ身近なケースを考えてみることにする。学校内におけるいじめ問題、障碍を持つ人達の暮らし、虐待を受けた子ども…。これらは割とすぐに思いついた。自分から見て日常生活に支障をきたしているだろう人を思い浮かべればいいからである。(障碍を持つ方からするとその生活が普通であって、何の負担も無いという主張が挙がるかもしれないが、これはあくまでも私からの視点なので悪しからず。)
中でも私は虐待を受けた子どもに焦点を当てて調べている。虐待を受けた子どもは親やその周囲の大人からの直接的な暴力や暴言などによって本来の子どもらしさというものが出せずに幼少期を過ごし、その後の発達段階で身体的・心理的に支障をきたしてしまうということがわかっている。また、親子間の愛着形成が不十分であったために人との接し方がわからない、コミュニケーション能力の欠如した人格が形成されてしまう。子どもでありながら子どもとして過ごすことを他者によって阻害された子どもは『子どもの尊厳』を得られずして大人になってしまう。そして大人になった時には一般的な人間の持つ常識的な振る舞いや、良好な対人関係などを築けなかった結果として世間では健康な人から『体調不良者』として見られてしまいかねない。これは明らかに『人間の尊厳』を冒されていると言えるだろう。
以上より『人間の尊厳』とは『健康』であることに近いものがあり、それを得られない時に初めて考えられるものなのだと私は思う。私達健常者は客観的に『人間の尊厳』を冒されている人について調べ、その人に降りかかる様々な障害を理解し、今度はその当事者の立場になって考える事で初めて『人間の尊厳』のありがたみを知る事が出来るのではないか。