一言で『人間の尊厳』と言われてもなかなかピンとくる人はいないのではないか。私も最初はそうだった。このゼミのテーマが『人間の尊厳』だと言われた時に真っ先に思い浮かんだのは日本国憲法の基本的人権の尊重くらいである。それによると、基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」によって確立されたものであり、「侵すことのできない永久の権利」と謳われている。このことを頭に思い浮かべながら日常生活を営んでいる人が果たしてどれくらいいるだろうか。一人もいないだろう。何故なら私たちは普通に生活をしている分にはある程度幸せな生活を送れているからである。意識せずとも安全な生活は保障されているのである。つまり、主観的に『人間の尊厳』を考えるとなかなか難しいものがある。これは体調を崩した時に初めて健康であることのありがたみを感じる心理と似ているのではないか。
では、客観的に考えてみたらどうだろうか。つまり、体調を崩している人にとっての健康を考えるのと同様に、『人間の尊厳』が侵されているだろう人から見た『基本的人権』を考えることで、私は再度『人間の尊厳』とは何かを考察してみたいと思う。ここではできるだけ身近なケースを考えてみることにする。学校内におけるいじめ問題、障碍を持つ人達の暮らし、虐待を受けた子ども…。これらは割とすぐに思いついた。自分から見て日常生活に支障をきたしているだろう人を思い浮かべればいいからである。(障碍を持つ方からするとその生活が普通であって、何の負担も無いという主張が挙がるかもしれないが、これはあくまでも私からの視点なので悪しからず。)
中でも私は虐待を受けた子どもに焦点を当てて調べている。虐待を受けた子どもは親やその周囲の大人からの直接的な暴力や暴言などによって本来の子どもらしさというものが出せずに幼少期を過ごし、その後の発達段階で身体的・心理的に支障をきたしてしまうということがわかっている。また、親子間の愛着形成が不十分であったために人との接し方がわからない、コミュニケーション能力の欠如した人格が形成されてしまう。子どもでありながら子どもとして過ごすことを他者によって阻害された子どもは『子どもの尊厳』を得られずして大人になってしまう。そして大人になった時には一般的な人間の持つ常識的な振る舞いや、良好な対人関係などを築けなかった結果として世間では健康な人から『体調不良者』として見られてしまいかねない。これは明らかに『人間の尊厳』を冒されていると言えるだろう。
以上より『人間の尊厳』とは『健康』であることに近いものがあり、それを得られない時に初めて考えられるものなのだと私は思う。私達健常者は客観的に『人間の尊厳』を冒されている人について調べ、その人に降りかかる様々な障害を理解し、今度はその当事者の立場になって考える事で初めて『人間の尊厳』のありがたみを知る事が出来るのではないか。