芝正身『近現代日本の「反知性主義」』は、たまたまアマゾンを見ていて目についたので購入して読んでみた。アカデミックな本ではないので、比較的すいすいと読めるが、浅い本ではない。つまり、著者の問題意識(日本における反知性主義という現象)を明確にし、その歴史的考察をへて、日本のあるべき姿を模索しようとしている。
著者によれば、グローバリズムの新自由主義か、あるいはナショナリズムの台頭かに揺れるなかで、批判軸として期待される啓蒙主義的リベラリズムの弱体化から、結局、日本は、シンガポール型の国家(統制型の経済主義)になってしまう恐れがある。それに対抗するための方策を模索するために、この本を書いているようだ。
著者は1960年代の生れなので、私よりは大分若いのだが、その時代から、反知性主義のありかたが変ってきたという。氏によれば現在の象徴がネット右翼(ネトウヨ)である。ただ私の世代でいうと、右翼によるバカデカイ音声による街宣車などが走り回っていた時代もあるし、その前には、右翼がよく駅頭で拡声器を使って演説をしていた時期もある。彼らは当然、しかるべきところから資金をもらってやっていたのだろうが、現在では、街頭演説や街宣車よりは、これだけSNSが普及しているから、宣伝効果を考えて、そちらに資金がまわされているのだろう。一時、安倍晋三氏などが、資金をだしてネトウヨにさかんにネットでヘイト書き込みをさせていたという説があった。
本論は、戦前から戦後の代表的な反知性主義の騎手として活躍した人物を対象にして分析しているのだが、その人選はいささか疑問を抱かざるをえない点もある。
最初に出てくるのが、江戸川乱歩であり、次が蓑田胸喜である。そして、戦後が中心的に扱われているが三島由紀夫と丸山真男である。
ただ、せっかく戦前にまでさかのぼるならば、幕末までさかのぼって、尊皇攘夷運動などからはじめたほうが、日本的反知性主義の流れがより鮮明に浮きでるのではないかと思うのである。蓑田は、確かに「反知性主義」者というのにふさわしいのだろうが、ただ、彼自身は、権力者に働きかけて、批判対象者を地位から引きずりおろす策謀をしたが、暴力的なテロは煽ったりはしなかった。しかし、「反知性主義」といえば、やはりより強烈なあり方として、テロを含むものではないだろうか。とくに、尊皇攘夷運動や、戦前軍国主義を推し進めたような右翼テロは、いずれも当時の知的な政治・経済の実力者を狙ったものであり、このほうが、やはり、社会の人びとに大きな脅威をあたえたのでないだろうか。
それはさておき、蓑田に対しては、私も非常に興味をもっている。全集ももっており、必要な部分は読んでいる。蓑田について思うのは、彼自身が、かなりの知識人であり、高度な知識をもっていたことである。そして、自分の知識にも自信があったのに、世間(帝国大学)がそれを認めていないことに対する怒りがあったのだろうと思う。しかし、その知識や知性が、まったく型にはまったアウトプットを生みだすようなものになってしまったのは、何故なのか、そこに私は関心がある。つまり、相手のいっていることは、真剣にチェックするのであるが、それは直ちに、天皇の神聖性という判断軸によってすべてが切られていくのである。そしておそらく、その天皇信仰は、彼にとっては本物だったのだろう。北一輝やその追随者などは、天皇自身の意思などはまったく考慮しておらず、天皇の名において自分たちの主張をとおす道具に過ぎなかったのだが、蓑田の場合には、そうした自分自身の計画的内容などはほとんどなく、ただただ天皇崇拝という一点が、論理として意味をもっていたように思う。これは現在の男系男子カルトの精神構造を考える上でも参考になる。
蓑田について語ることは、すなわち天皇機関説事件を語ることであるが、その部分は宮沢俊義の著書に依拠しているので、とくに新味はない。天皇機関説については、前回紹介した『天皇機関説タイフーン』が極めて詳しい。
むしろ、驚いたのは、戦後の代表的人物として、三島由紀夫と丸山真男が扱われていることである。(つづく)