イラン戦争は泥沼的様相を呈してきた。何よりも近代社会が積み上げてきた戦争のルールを、まったく無視しているように思われることである。トランプは、自分には制約を受けるルールは存在しない、自分がやりたいようにやる、と言っているそうだが、実際にそれを感じるし、それは独裁的に振る舞っている他のひとたちも同じである。
戦争は、服従関係、領土関係などを主な対立軸として行われる。だから、一方が降参して、相手への服従を誓えば、戦争は終了するし、また、領土戦争も同様である。こうした目的によってひき起こされた戦争は、相手を徹底的に叩きのめしてしまうということは、その後の自分たちの支配の安定のためにはマイナスだから、避けるのが、一般的であったろう。領土を拡大するために侵略したとしても、住民を皆殺しにしてしまえば、そこから税を取り立てたり、兵役労役に借り出すことができなくなる。それでは領土を拡大する意味がなくなってしまうわけである。だから残虐といわれた民族でも、大帝国を築いた民族は、激しく抵抗されない限りは、占領地は寛大に扱うものなのである。その典型が、中国の帝国といえるだろう。その象徴が朝貢システムだ。
しかし、歴史をとおしてみても、そういう寛容さがみられず、過酷な措置を徹底させようとするのが、宗教が絡んだ戦争である。とくに、一神教が絡んだ宗教戦争は、激しいものになることが多かった。といっても、イスラム帝国は、租税を納めさえすれば、被占領地の住民に対して寛大であったとされる。その結果急速に領土を拡大することもできたのである。過酷になるのは、同じ宗教内の宗派争いが絡んだような場合である。中世から近代にかけてヨーロッパで起きた宗教戦争がその典型といえるだろう。捉えられ火刑に処せられたジャンヌ・ダルクがその典型といえるだろう。
しかし、近代になると、徐々に戦時法が、ある程度先進国間で合意されるようになり、現在では、ある程度の拘束力をもっている。にもかかわらず、それをまったく意に介することなく、戦争をはじめ、戦争の状況を作り出しているのが、プーチンであり、トランプであり、またネタニエフである。とくにネタニエフの戦争指導は、もっとも反近代的ともいえ、まるで宗教戦争を想起させる。
前述したように、宗教戦争は、呵責なく相手を殲滅させようとする。相手は異端であり、自分の信仰に敵対するものだからである。ネタニエフに比較すると、トランプはまだ、支配者としての合理性を少しは保持している。あるいは経済人としてのdeal 感覚ともいえるのだが。交渉するために相手の指導者たちを抹殺することは意図しないし、相手の経済基盤(この場合石油関連施設)を破壊しようとはしない。しかし、ネタニエフはまったく躊躇することなく、イラン指導者を殺害し、石油施設を攻撃している。(これはトランプに制止されたようだが、どうなるかわからない。
ユダヤ教が主体であるイスラエルと、イスラム教シーア派のイランの宗教戦争という側面を否定する人は、いないにちがいない。経済的利害や領土などという生易しいものではなく、生存をかけた戦争になっている。
しかし、現代社会において、相手を殲滅するような戦争を完全遂行することは可能なのだろうか。また、かつてのような植民地として領土にしてしまうことは可能なのだろうか。
スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスなどが、アジア、アフリカ、南米などを、植民地下におくことができたのは、そうした地域が、まだ国民国家として形成されていなかったからであって、現在は、いずれの旧植民地も独立し、かつ国際的に人権が確認されている状況である。武力で攻撃することは、国際的に厳しい批判にさらされるし、また、国民として形成された人びとは、侵略には抵抗して闘うし、またそれに対する国際的支援も生れる。だから、第二次大戦後に、独立していた国を、より強大な国家が武力で征服した事例は存在しないのである。不可能といってよいであろう。
イスラエルがイランを軍事的に圧倒して、かなりのダメージをあたえ得たとしても、「臥薪嘗胆」という言葉をイランはその後実行するにちがいない。だからこそ、ダメージを大きくしようとするかも知れないが、それは、かつてのソ連のように、自らの崩壊を招くにちがいない。