前回は、自由という思想的系譜において「意思の自由」という系譜と、不当な干渉を受けない自由というふたつ系譜があり、それぞれ現代社会において、重要な、かつ実質的な意味をもっていることを指摘した。
そして、更に、「意思自由」の系譜においては、必然性の認識論と存在被拘束性の論があることを確認した。
さて五十嵐は、教師の研究の自由を根拠づけるのに、かなり複雑な論理構成をしている。この根拠づけは、五十嵐に限らず、一筋縄ではいかないのだが。
まず、基本は、大学の教師や専門研究者に認められる学問の自由、そして、その系としてでてくる教授の自由が、高校・中学・小学校の教師にもあてはまるのだ、という構成をとっている。しかし、私の見る限り、大学と高校~小学校においては、異なる意味づけをしている。そもそも、大学については、伝統的に承認されている論理があるから、特別に論証する必要があまりないと考えられている。しかし、高校~小学校については、決まった教材を教えるのだから、学問の自由と、教授の自由は、そもそも問題にならないというのが、大学限定論(宮沢俊義)である。