では、オランダでは何故教育の自由が憲法上の規定になり、世界でもっとも自由な教育制度が実現したのかを考えてみよう。
まずそれは、オランダ建国の歴史がもっとも自由の重要性を認識させるものである。オランダは、宗教改革に対する反改革の拠点となり、カトリック以外の宗派を弾圧する政治を行なっていたスペインに対して、宗教の自由を求めて独立戦争を闘ったあとで、独立を勝ち取ったことで、オランダという国家が成立した。つまり宗教の自由、精神の自由は、建国の理念となっている。そして、重要なことは、カトリック国スペインに対抗したとはいえ、オランダにはカトリック教徒もおり、また、新教徒にもふたつの宗派があった。このみっつの宗教勢力はほぼ拮抗しており、そして、協力して独立戦争を闘ったのである。だから、ある特定の宗派が多数派を形成するという、ヨーロッパの国家の多くと異なって、異なる宗派が拮抗して、最終的には妥協しあう政治体制が形成されてきた。そして、19世紀になると、ここにやはり拮抗できる勢力としてリベラル派が登場し、主に4つの勢力が妥協的に政治を押し進めてきた。それか教育の自由を認めるもっとも大きな理由である。
もうひとつ建国の重要な点として、合理主義がある。オランダは、周知のように、人口の多くが住んでいる地域のほとんどは、海面下にある。オランダ中に道路のように巡らされている運河は、水を北海に押し上げる機構なのである。昔は風車がその動力だったが、今は電力によって水を押し上げる。そして、これは精密に設計され、確実に運用されることによって可能になり、それが破綻すれば国中が洪水になってしまう。したがって、科学的合理的に対策をたて、それを実行する精神がオランダ人には強く形成され、他のさまざまな領域に応用されている。
教育の自由があれば、学校選択の自由があるのが当然、という合理的に考えれば、当たり前のことが、当たり前のこととして受け入れられるのである。
日本では、1990年代に学校選択制度が導入されようとしたとき、「教育の自由」論者たちが、いかに不合理な反対を展開したかをみれば、合理的にものごとを考えることが、いかに困難であるかがわかるというものだ。
まとめると、まず独立において、信教の自由を核にしたことによる、自由の重要性が認識され、かつ、宗派の勢力が拮抗したことによって、それぞれ異なる立場を許容する社会的風土が生まれた。それぞれの宗派、そしてリベラルが設立した学校が、教育の自由をもとめ、それが公私の財政的平等の規定で、公私の学校が平等な立場で成立し、それを自由に選択するシステムが社会に定着した。彼らの合理的思考は、これを当然のこととした。
日本のことを振り返っておこう。
戦前、民主主義を主張するひとたちは徹底的に弾圧された。逆に、戦後は、軍国主義を強力に押し進めたひとたちは、裁判にかけられるなり、公職追放された。そして、戦後弾圧されたひとたちが、世にでた。しかし、また数年後、追放組の多くは復権し、世に出たひとたちは、レッドパージにあった。教育界では、当初協調的だった文部省と日教組は、やがて激しい対立関係になり、1980年代後半までつづいた。その間、様々な組合抑圧の政策によって、日教組が弱体化、分裂してしまい、教育への影響力か著しく弱くなった。少なくとも、妥協できる関係に修復する必要がある。
そのためには、文科省の態度を改めるのが第一に必要だろう。現在の学校のブラック化と、教師の不足という事態は、文科省が長年とってきた教師に対する抑圧政策の結果であることは明らかである。
詳しくは、別の機会にするが、教育に関わるひとたちが、共通の土壌で話し合いができ、それぞれの立場を認め合う状況がつくられることが、教育の自由にとっては不可欠であり、教育の自由がないところに、今後の教育の発展がないこともまた明らかなのである。それは文科省が、学校選択の自由を押し進めた時期があることで、文科省でも実は肯定している原則ともいえるのである。
教育の自由は、今日の多様化した社会をさらに発展させるためには、絶対に必要名原則なのである。