五十嵐顕考察24 教育の自由3

 では、「教育の自由」を主張することは、どのようにして可能なのか。あるいは、それは教育権として、適切な主張なのかをみておこう。
 前述したように、世界で教育の自由を憲法で承認しているのは、オランダだけである。では、オランダでは、教育の自由とは何を意味しており、どのように、社会権としての教育権と調和しているのか。
 オランダ憲法のなかで、教育については、学校設立の自由、教育内容の自由(おもに世界観について)、教育方法の自由を保障している。そして、もうひとつ重要な規定が、公立学校と私立学校の、教育財政上の平等である。
 まず「学校設立の自由」をみてみよう。
 実は日本においても、学校設立の自由は、認められている。しかし、日本人で、自由に学校を設立できると思っているひとは、ほとんどいないに違いない。法的に自由であっても、実際に学校を設立し、維持することは、極めて困難だからである。なんといっても、莫大な資金が必要である。そうした資金を用意できるひとは、極めて限られている。

 もちろん、オランダでも、誰でも気軽に学校を設置できるわけではない。しかし、日本と決定的に違うのが、「公私立学校の財政的平等」の規定である。これは、私立学校でも、公立学校でも、そこに必要な経費に対する、国庫補助は、平等に行なわれるという意味である。日本は、1975年までは、私立学校に対する公費補助は憲法で禁止されている、と解釈されていた。したがって、まったく補助はなされてなかったのである。
 それに対して、オランダではたとえば義務教育学校で明確だが、義務教育は、日本と異なって、文字とおり、無償原則が実施されている。学校が使用する教材等も含めて、無償である。無償ということは、公費支出されていることだ。そして、公立と私立が平等ということは、私立学校でも、完全に無償であることを意味する。つまり、同じ基準で(たとえば生徒一人、教師一人の積算費用)、人数分の、つまり実質的な運営資金の全額が、国庫補助がなされる。義務教育より上級になると、授業料を徴収することになるが、多くは国庫補助金によって充当され、その点でも公私は平等になっている。もちろん、学校として成立する最低基準が設定されており、都市と農村等で異なるが、この地域では学校の生徒数が何人以上等の基準があり、それを満たさなければ、補助は一切受けられない。そして、それは公立学校でも同様なのである。公立学校といえども、運営責任は地方自治体であるが、運営資金は国庫補助である点で同じなのである。
 このように考えれば、オランダでは、日本よりはるかに実質的な学校設立の自由があることが理解できるだろう。
 学校の設立の自由があれば、基本的な教育価値の設定や教育方法、内容の重点の置きかたの自由が認められることは、当然のことだろう。そうしたことが統一されているのならば、学校を独自に設立する意味がないからである。
 
 さて、そうして、私立学校や公立学校がさまざまな形で設立されていれば、どの学校で学ぶかを、国家が決めることはできないことが理解されるだろう。それは、きちんとしたカリキュラムで教師が授業をするのが当然だと思うひとに、サドベリバレイ校を指定することなどできないことである。逆も同様だ。
 だから、オランダでは、全国的なレベルで、学校選択の自由が保障さており、学区域の指定などは、存在しないのである。通学区域の指定と、教育の自由は、根本的に矛盾する原理なのである。
 
 ところが、国民の教育権論は、ここの矛盾をあいまいにしてきた。
 兼子仁は、通学区指定に、本心は賛成ではなかったかもしれないが、すべての学校で、水準が保持されていることで、通学区指定が是認されるとしていた。しかし、この論理は、ふたつの重大な欠陥がある。
 第一は、義務教育学校が、学校ごとの水準が一定している、あるいは、どの学校も満足な水準に達している、などということを、事実として認めるひとなどいないだろうということ。学校や教師ごとに、水準は極めて差があり、「外れ」と認識される場合も少なくないことは、多くのひとによって認識されている。
 第二は、本当に水準が統一的に維持されているとしたら、それは、国家による統制を是認し、統制が進むほど、好ましいということになってしまう。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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