前回は、自由という思想的系譜において「意思の自由」という系譜と、不当な干渉を受けない自由というふたつ系譜があり、それぞれ現代社会において、重要な、かつ実質的な意味をもっていることを指摘した。
そして、更に、「意思自由」の系譜においては、必然性の認識論と存在被拘束性の論があることを確認した。
さて五十嵐は、教師の研究の自由を根拠づけるのに、かなり複雑な論理構成をしている。この根拠づけは、五十嵐に限らず、一筋縄ではいかないのだが。
まず、基本は、大学の教師や専門研究者に認められる学問の自由、そして、その系としてでてくる教授の自由が、高校・中学・小学校の教師にもあてはまるのだ、という構成をとっている。しかし、私の見る限り、大学と高校~小学校においては、異なる意味づけをしている。そもそも、大学については、伝統的に承認されている論理があるから、特別に論証する必要があまりないと考えられている。しかし、高校~小学校については、決まった教材を教えるのだから、学問の自由と、教授の自由は、そもそも問題にならないというのが、大学限定論(宮沢俊義)である。
これは私の解釈であるが、五十嵐は、まず歴史的に問題を設定する。確かに小学校や中学校では、教えることが、決められている。それを勝手に変更することはできない、とされている。しかし、明治以来の日本の教育をみれば、「教える内容」そのものが、大きく間違っており、日本だけではなく、世界の人々を不幸に貶めたではないか。多くの生命を奪ったのが、明治以来の「教えなければならない内容」のためだったのではないか。だから、確かに、教えなければならないことはあるが、そのことの正しさを、つまり、人々の生命を奪うような教育内容ではないものにするためには、教師が、国家が決めた基準を批判的に吟味し、あるいは、教師たちが教えているもっとも現実的な内容、そして教える方法が、正しいものであるかの判断できなければならない。そして、そのことが保障されるためには、研究や教育の自由がなければならないのだ、という訳である。
もちろん、五十嵐は、個々の教師に教育の自由や研究の自由を保障すれば、正しい内容を教えることが実現するなどということを主張しているわけではない。個々のあやまりなどがなるだろうし、教え方の未熟さもあるだろう。それを教師集団のなかで相互批判を厳しくすることによって、正しい内容や教え方が実現する、そういう厳しさが必要であるという。
では、その正しさとはなにか、それは、「真理」である。国民の教育権論は、「真理の代弁者」である教師には、自由が必要であるという論理が中核にあったが、ここに結びついている。論者によって多少異なるが、この真理の保障については、教師が真理を教えるのは当然だという、ある意味安易な論理、あるいは、ぎりぎり教育の自由を主張するためには、「真理の代弁者」を理由にせざるをえないという、背水の陣的な色調があった。ただ、五十嵐が、他の国民の教育権論と異なるのは、ここに「必然性の認識」論が結びついていることである。ここから、五十嵐は社会主義論に展開していくのだが、ここでは、それには触れないことにしよう。
教えるべきことは、「真理」であり、真理は、必ずしも国家が決めた教育内容であるとは限らない。だから、教師集団の相互批判によって、真理を明らかにし、それを教えることを保障するためには、研究の自由と教育の自由が必要なのだ、という論理である。
しかし、私は、この見解には納得しない。教育内容べき内容を「真理」とし、そこに至る道を保障するものとしての研究の自由と、教育の自由といっても、それによって、真理が保障されるわけではない。自然科学のように、科学的に証明されたことが、そのことについて「真理」=教育内容として構成して、それを教えることは、上記の論に妥当するが、そもそも、立場によって見方が異なることがらは、いくらでもある。歴史の見方などは、そうした事例がたくさんある。安井俊夫は、東大寺の大仏を建立するために働いた農民は、何故、そんなことをしたのか、という問題を設定し、それは、天皇権力に強制されたから、そうせざるをえなかったのだ、という結論を教えようとしたが、生徒から疑問がだされ、それから、それまでとはまったく異なる資料調査等によって、やはり、それぞれの階層にとっての立場、思いがあったことを認識し、なにか「真理」を前提にした歴史教育ではなく、もっと多面的な見方を鍛えることこそ、教育的に必要であるという方法を導き出した。円高・円安がひとや立場にとって、まったく違う意味をもつことは、容易に理解できる。
更に、こうしたひとつの事実に対する見方ではなく、教育のなかで何を重視するか、どういう教え方をするのがよいのか、ということについて、つまり、教育的価値には、もっと多様な側面があることは、明らかである。
教育のなかで、スポーツを重視したい、あるいは音楽を、絵画を、舞踏を、等々、ひとによって異なる。それらを広く浅く教えたい、学びたいというひともいる一方、そんなことを無駄で、やはり、個々人の好むことを重点的に教え、学ぶほうがよい、というひともたくさんいる。それは、どちらが正しいというものではない。また、社会が豊かになり、人々の欲求が多様になり、また、その実現手段も多様になった社会では、教育内容そのものが、やはり、ひとによって、異なることを望むのである。
度々、紹介して、サドベリバレイ校の教育を理想とするひとたちがいるが、そんな学校は絶対に嫌だ、というひとも大勢いるだろう。シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、TOSS、イェーナプラン、ドルトンプラン、生活綴り方等々、それぞれ、独自の教育理念と方法をもって、多くのひとに共感をもたれ、また多くの学校で実践されている。
これを、必然性の認識、真理ということで、ひとつにまとめることができるだろうか。
教育は、具体的なことがらであり、実際に何を教材とし、どのような方法を採用するか、これが絶対的に正しいと統一することは、本来できないのであり、それを統一しようとすれば、それこそ、教育の自由、研究の自由とそもそも矛盾することになる。
ところが、五十嵐が適切に批判しているように、明治以来の日本の国家は、教えるべき内容をひとつのものとして決め、それを強制してきた。教科書は国定教科書だったことで、更に、それは徹底された。
多くの近代国家が、義務教育を制度化し、法的に教育内容を定めなかったとしても、義務教育の内容については、実質的に、ほぼ統一していたことは、共通しており、だからこそ、教育権を自由権として認定してこなかったのである。
つまり、「真理の代弁者」論では、教育の自由を導き出すことはできないのであり、かならず論理的に破綻する部分が生じるのである。