五十嵐顕考察22 教育の自由1

 五十嵐の論文で、教育における研究の自由に関する論文があった。極めて、興味深い論文で、五十嵐の若いころのものだが、私の考えとは完全に異なるものであることが、明確になった感じだ。
 「自由」という概念は、実に多くの切り口、あるいは側面をもっている。そして、現実の生活や社会のありかたに多大な影響をあたえているし、また、もっとも論争点となっている概念でもあるだろう。
 私の理解であるが、極めて大きくふたつにわけると、ひとつは「自由意思」に関わる問題であり、もうひとつは「国家的干渉からの自由」という問題である。

 「自由意思」あるいは「意思の自由」の問題こそが、古典的な自由の論争点だったといえる。つまり、人間は自由意思によって、人生を生きているのか、あるいは神の意思によって決められているのかという問題である。単純にいえば、人の運命は神によって決められているという「宿命論」からは、近代社会に近づくにつれて、ひとつには神など認めないという観念とともに、人間は自由意思があり、運命は自分で決めているという自由論が強くなってくる。そして、近代的な刑法、刑罰思想は、この自由意思論によって成立している。人間は判断することができ、自由意思によって行動しているのであり、その意思をもって行う悪事が犯罪であるということになる。だから、何らかの理由で自由意思をもてないはされる人は、犯罪の責任を負わないことになる。子ども、精神疾患にある者などである。
 こうして、自由意思論は、社会的に共有されるに至っているともいえる。しかし、それに反する見解がでてくる。
 ひとつは、当然のことながら、意思によって、どんなことを自由に実現できる訳ではない。人間の意思として自由であるようにみえて、本当に自由であるのは、自然や社会の必然性を認識し、その必然性にそくした実践をするときにのみ、自由なのであるという考えかたである。エンゲルスによって主張され、レーニンに引き継がれる。(自由とは必然性の認識である)
 似ているが多少異なるのは、人間の行動、考え等々は、社会環境や自然環境等によって規定されているのであって、けっして、完全に自由に考えたり、行動できるわけではないという考えである。(存在被拘束性)
 
 さて、五十嵐は、当然のことながら、エンゲルス・レーニンの筋によって、自由を論じており、それに依拠して、教師たちの研究の自由・実践の自由を論拠づけようとしている。この問題を主要に論じた「教育における研究の自由(上下)」という論文を書いたのは、1959年のことであり、まだ学力テスト問題や教科書訴訟がおきる前だが、そこで主要な問題となった「教育の自由」についても、この延長で考えていたといえる。
 しかし、教育において、裁判で争われた「教育の自由」は、こうした「意思の自由」「自由意思」論とはまったく別の領域の自由論であることは、明白である。有名な「自由論」を書いたJ.S.ミルが最初にことわったように、意思や精神の自由ではなく、社会的な意味での自由である、といって論じた「国家の干渉」をうけないという意味での「自由」、つまり、日本国憲法で保障された自由権の領域である。しかし、国民の教育権論や教科書訴訟原告の側にたって、教育の自由を根拠に闘ったひとたちは、もちろん自覚していたと思うが、「教育の自由」は、日本国憲法で保障されているものではない。そもそも、「教育権」は自由権ではなく「社会権」に分類されており、それは、国際人権規約においてもそうなっている。つまり、国家の不干渉としての自由権ではなく、国家が積極的にかかわる「社会権」なのである。「教育の自由」を憲法で保障しているのは、私の知る限りオランダだけである。オランダで「教育の自由」を憲法で保障したのは1850年ころだから、すでに相当な年月がたっているが、その間、他の国家で「教育の自由」を憲法で保障したところは存在しない。それにたいして、極めて裕福な人にとっては、教育はもともと自由にうけられることであったが、国民のほとんどの人にとって、集中的な教育をうけることは手のとどかないものだった。それを、それぞれの国において事情は異なるが、主には産業革命によって、読み書き計算ができて、規律ある労働者を育てる必要と、教育を求める国民の意思の共有によって、国家制度としての国民教育制度が成立する。つまり、国家がさまざまな保障をすることによって、国民が教育をうけることができるようになった、つまり、教育をうける権利が実質化したわけで、あきらかに社会権として把握されるものだった。そのなかで、国家が干渉しないという意味での自由権としての「教育の自由」は、規定されないままに至っているのである。
 
 では、とくに、どうしても「教育の自由の論理」が必要であった教科書訴訟では、どのように、教育の自由を導き出そうとしたのだろうか。
 もっとも主な論理は「学問の自由」憲法23条から導き出そうとしたものである。この学問の自由とは、伝統的には、大学における問題とされていて、戦後もしばらくは、そうした大学教授の研究の自由とその発表の自由、つまり教授の自由と解釈されていた。しかし、それに批判を加えたのが、国民の教育権論であり、研究をしているのは、けっして大学の教授だけではなく、小中高の教師だって、教材を研究し、教え方を研究し、それを批判的に交流しあって、よりよい授業をしようと努力しているわけである。それらは、けっして大学だけではないのだ、という理屈だった。しかし、他方で、大学が相手にする学生は、基本的には大人であるが、小中高では相手は子どもである、だから、大学生相手に自由に学生を発表するとしても、子どもに対しては、規制があって当然であるとする考えもまた根強くある。それに対して、たしかに、子どもに対しては相当な配慮が必要だが、それは子どもの発達段階が、規制をするのであって、国家がするのではない、ということになる。そして、その論理を採用したのが、杉本判決とされるもので、唯一、家永、つまり原告が勝訴した判決だった。それ以外はすべて、基本的には、家永氏の主張を認めなかったのである。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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