五十嵐顕考察20 戦争責任問題1

 五十嵐は戦争責任について問題にし続けた。しかしその重点は変化した。
 当初は戦前の軍国主義への批判であった。専門の財政学の観点でも有効な批判をした。たとえば義務教育費の国庫負担をしたとき、あわせて思想取り締まりの部局を文部省は設置した。これは国家が必要な政策をとりつつも軍国主義を進めるという両面の事実を指摘する優れた分析だった。当初、地方に義務教育の費用までも負わせていたのを、調整という合理的な目的があるにせよ、国家が補助をするという形をとって、教育費を国家管理するようになり、そのことによって、国家の観点から重視したい分野に多く配分できる体制を構築していったわけである。思想局を設置するというのは、極めて例外的な、しかし露骨な教育費を媒介にした国家統制であった。そうした財政の流れを的確についていたわけである。

 ところが戦後についてはあいまいになる。義務教育国庫負担法はほぼ同じだが、軍国主義の観点で批判するのだが、戦後は抱き合わせの思想取り締まりの部局は設置されていない。もっとも、国庫補助とは別に、勤評政策に表れているように、日教組の取締という側面はもっていたわけだが、「勤評は戦争への一里塚」という批判も行われた。しかし、幸いなことに、日本が積極的に戦争にかかわることは、実際には起きなかった。しかし、五十嵐の戦争責任批判は、戦後の教育改革への反動の政策に対しては、戦争への反省がないことの証拠として批判されている。つまり戦前は具体的政策によって軍国主義の指摘をしていたのに、戦後は具体的政策を指摘なしに軍国主義と評価している。次第に結論ありきになっていったと思う。
 そうした弱点が明確に出ているのが教科書無償である。五十嵐はこれに対して何も論じていない。戦後の教科書無償こそ国民の要求に応じながら、国家管理を進めた典型的な政策であり、五十嵐の財政理論からは、厳しい批判があってしかるべきだった。教科書無償化は、日教組だけではなく、国民のほとんどの願いであったから、無償化自体を批判する必要はなかった。しかし、それと抱き合わせの「毒」というべき、教科書検定や採択の国家管理の側面が、批判の対象ならなかったのは、五十嵐が政治的立場から発言することが多くなったからか。
 こうして、実は、五十嵐の軍国主義批判は次第に具体性に乏しくなっていったといえる。そして重点は戦没学生の問題になっていった。代表的なのが木村久夫である。そしてここでも重点の移動がある。木村久夫とは、京都大学の在学中に徴兵され、南方に派遣された。そして、敗戦直前のことだが、ある村に日本軍に敵対するスパイがいるという嫌疑がかかり、住民を拷問にかけて、何人かを処刑したのである。敗戦後、多くの部隊のものが戦犯裁判にかけられ、軍隊の責任者と、直接手をくだしたとされる数名が死刑判決を受けたのである。そして、木村久夫もそのなかにはいっていた。木村は、犯罪的なことはしていないと抗弁したようだが、受け入れられなかった。そして、その手記が「きけ、わだつみの声」に収録され、五十嵐が読んだのである。
 当初は自分も木村になってもおかしくなかったと、学徒動員の不合理の指摘に重点があったが、次第に戦没学生の精神の安定に関する追求になっている。自分は戦争に無批判だったので将校になり、捕虜虐待などをせずにすんだ。しかし、木村は戦争反対の声を発していたため兵卒になり、捕虜虐待の命令をうけ、戦犯になり、処刑された。五十嵐は他人事に思えなかった。しかも木村は勇気の故に処刑され、自分は臆病で無知だったから助かった。それが五十嵐の意識に深く沈潜したのである。しかし、別の点からみれば、日本軍が現地住民にひどい犯罪的なことをしたことは事実であり、個々の刑罰が適切であったかどうかは別として、戦争犯罪的な行為をした者が裁かれることは、当然のことであったといわざるをえない。
 こうした木村への、ある種のコンプレックスは、矢内原忠雄への評価と関連があるといえる。そして、矢内原への評価は、ずっと一貫していて、変わることはなかった。真偽のほどは不明だが高校(第四高等学校)のときに矢内原の辞任を知り不快に思ったという。そして東大入学後矢内原の講演に出席している。戦後も折に触れ矢内原に言及している。自分は戦争に無批判だったという意識が矢内原と木村に向けられたと考えられる。先述したことから、木村に対してはより強い意識だった。
 ところが晩年集中的に戦没学生の問題を扱うようになると問題意識がまったく変わってしまう。木村たちの意識、心の安定を得られたかを追求するようになる。もはや戦争責任問題はどこかにいってしまったようだ。五十嵐自身が戦争責任の意識にとらえられ自身の安定を求めているかのようだ。残念ながら冷静な戦争責任の分析は放棄されたかのようだ
 私は、こうした変化の背景には、理由があると思うのである。(つづく)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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