五十嵐顕考察20 戦争責任2

 関係ないことから書くが、昨日は五十嵐著作集の編集委員会で一日でていた。だから、このブログを書く時間がほとんどなかった。しかし、毎日書くというノルマを課しているので、結局、電車のなかとか、昼食を食べているときに、カフェに陣取って、スマホで書いた。実はスマホで文章を書くのは初めてだった。以前、ゼミの学生で、通学の電車の行き帰りで卒論をだいぶ書いた者がいて、そんなこと可能なのかと思っていたが、スマホの日本語入力は、私がパソコンで使っているものより、何倍も優れていて、長めの文書を書いていると、入力の途中で、どんどんそのつもりの変換が示されて、速く書くことができる。もちろん、パソコンには及ばないが、意外と書けるものだとおもった。
 さて、戦争責任論についての続きだ。五十嵐は、終戦後1年後に、帰国している。だから、東京極東軍事裁判などの進行はリアルタイムでみることができたから、はっきりと知っていたとおもわれるが、東京裁判についての言及は、私がこれまで読んだなかでは、ほとんどない。逆に、東京裁判に充分意識がいかなかったことを反省しているくらいだ。前回書いたように、日本に対して行われた裁判については、学徒動員されて処刑された木村がほとんど唯一の関心で、五十嵐が言及した「わだつみ」関連の戦死者のほとんどは、戦死ないし野戦病院での病死である。

 五十嵐がもっとも強く、戦争責任に関して言及したのは、戦後改革の修正に転じた時期の、修正したひとたちの姿勢に関連してだった。戦争責任問題は、戦後の極めて大きな論争テーマだったが、五十嵐の場合には、具体的に、個人的レベルでの戦争責任などについて論じたものはほとんどない。むしろ、国全体としての動向に関してだった。資本主義は変らないので、階級的な矛盾が生じざるをえないというような批判が主軸だ。
 教育制度以外の分野に関しては、戦後改革の修正が大きくなされたということはあまりない。例外は、軍隊が廃止されたが、結局自衛隊として復活したことだろう。農地改革が大きく修正されたわけではないし、財閥が早くから復活したわけでもなかった。もちろん、大きな流れとしては、戦後改革の修正があるのだが、教育制度に関しては、それが早く行われ、かつ徹底していた。これまで、アメリカの政策が変化したことに、主張な修正理由があげられていた(例えば池田・ロバートソン会談)が、実は、もっと基本的な問題があったようにおもわれる。そして、そのことは、あまり議論されていないような気がするのである。
 教育制度改革を実施したのは、当然、文部省である。ところが、戦前の文部省は、極めて弱体な官庁だった。思想善導などを主導するようになり、思想局などを設置して、それなりに膨れ上がっていたが、その前は、高等文官試験を合格しても、文部省を希望する者は、ほとんどいなかったので、内務省などからの出向で人員を満たしていたといわれていたほどだ。当然、思想善導を主導した人員が、戦後の民主化に力量を発揮できるはずもない。したがって、戦後改革を実施していた時期には、学者が課長・局長クラスまではいっていって、文部大臣も学者だった人は複数いたほどだ。反改革の時期になると、そうした学者たちは、ほぼ文部省を去って、大学にポストをえていく。教育学者としては、勝田守一がもっとも有名である。勝田は「社会科」創設の中心メンバーだった。このように、行政当局でも、改革の主体はかなり手薄だったのである。
 他方、教育界も同様だった。戦後日教組が「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンで闘うにようになったことは、逆にいえば、戦争中は、教え子を戦場に積極的に送り出していたことを示しているのである。戦争中と戦後に、まったく違う、逆のことを教えられたことで、子どもの多くが不信感をもったというのも、当然だったろう。もちろん、非常に真面目に反省した教師も多かったと思うが、人間はそう簡単には変われないものだろう。
 勝田は、戦後改革に関して、改革の主体が存在しなかったことが、最大の不十分性だったと後年のべているが、勝田の頭にあったのは、ランジュバン・ワロン計画を提出したレジスタンス運動や、戦後の中等教育改革の提言をだしたイギリスの労働党などだったろう。たしかにフランスやイギリスでも、戦後大きな教育改革が実施された。そして、その後、一貫してその方向性が継続されたわけではなく、とくにイギリスでは紆余曲折があったが、しかし、大きなラインとしては、戦後改革の方向をさだめ、その延長上に現在の制度があるといえる。
 日本では教育界だけではなく、社会全体として、戦争に反対する実効的な活動をなしえた勢力はなく、明確に反対した共産党は、転向するか、転向しなければ、刑務所にいれられたままだった。戦争反対を表立っていえた主体は、あとはわずかな宗教人だけだった。
 
 そのなかでも、五十嵐が終生尊敬の念をもちつづけたのは、矢内原忠雄だった。私は、矢内原と共産党の違いについて、最近多く考えるようになった。
 矢内原は、一貫して政府の植民地政策や軍事的な対応に批判的であったが、満州事変を境に、批判を明確にするようになった。そして、最終的には、昭和12年、戦争批判を理由に東大を追われることになる。しかし、私の眼にも不思議なのは、その後も矢内原は姿勢を変えることなく、中央公論や改造などの雑誌に書くことはできなくなったが、個人雑誌を発行しつづけて、そこでもけっして批判的な言論を緩めたわけではなかった。そのために、何度も警察や検察の呼び出しをうけているのである。そして、用紙の制限をされたり、実質的な嫌がらせを権力からうけているが、結局、逮捕されることはなかった。大内兵衛や河合栄治郎など投獄された東大教授もいるから、東大教授だったから逮捕を免れたわけでは決してない。そして、大内や河合が矢内原よりも、過激に政府批判をしたわけでもない。にもかかわらず、なぜ矢内原は、逮捕を免れたのか。それは、かれが批判を緩めたからではなく、相手に逮捕の口実をあたえなかったこと、そして、検察官でも認めざるをえないような議論をしていたことによると思われる。
 他方、共産党は、コミンテルンの指示を受けた活動をしており、コミンテルンが、逮捕されないような活動手法を創造し、そういう方向での活動を求めたというよりは、危険に晒すような活動を強いたのではないかと、思わざるをえないのである。それは戦後でも、似たような混乱を生んだ。今後、そうした観点で調べてみたいと思っている。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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