前回は、「教育の自由」と「参加」が、戦後改革からしばらくの間、民間教育研究団体や「国民の教育権」論の立場の主要な概念であったにもかかわらず、反対の側、つまり、支配的勢力の側にからめ捕られてしまったことを指摘した。そして、今回は、なぜそういう敗退が起きたのかを考察する。
勤評闘争
戦後の教育的対立のなかでも、勤評問題は最も大きな騒動のひとつであった。私は、学生時代に、大学紛争のあとでなされた改革の一環で開かれた「全学ゼミ」のなかで、この勤評問題をとりあげたことがある。ゼミの指導者は、石田雄教授で、このテーマの研究のために、1カ月以上、勤評闘争の舞台であった愛媛県の新聞を読むために、新聞研究所の地下に通って、当時の愛媛新聞をずっと読んだものだ。石田教授も、この発表を受けるための準備だろう、何冊もの勤評関係の本を読んでこられた。
地方公務員法には、公務員の勤務評定をすることが、明記されている。だから、勤務評定をすること自体は、法的に必要であるのだが、誰もが容易にわかるように、教師の勤務を評価して、昇給や昇格に活用することは、極めて難しい。だから、今でも、教師の評価方法に関しては、コンセンサスはないといってよい。当時は、実際上、教師は勤務評定の対象にはなっていなかったのである。 “教育学について考える3 何故「自由」「参加」は行政にからめ捕られたのか” の続きを読む
カテゴリー: 教育
教育学について考える2 自由と参加
文科省が正式に、9月入学の見送りを決めたようだ。その流れは決まっていたようなものなので、特に驚かないが、日本教育学会の提言に対して感じたことと、同じような感じをもったことが、かつて一度あった。それは、学校選択制度に関することだった。
私は、これまで何度か書いたように、1980年代にいじめによる自殺が多発したときに、教育制度として、このような悲劇をなくすことはできなくても、少なくするようなことは考えられないのかと考えて、学校選択制度に行き着いた。学校でのいじめに耐えられず、しかも、教職員がきちんと対応してくれないときには、容易に転校できるシステムであれば、自殺などしなくてすむし、また、学校を自由に選ぶことができれば、いじめ対策をきちんとしていない学校ではなく、何か問題には真剣に取り組んでいる学校を選べるわけだ。言いかげんにしていると、生徒が集まらないから、学校も真剣に取り組むだろうと考えたわけである。
では、そういうシステムをもっている国はないのかと探したところ、オランダがまさしくそういう国だった。そこで、オランダの教育を調べることになったのだが、オランダでは、もちろんいじめは珍しくないが、いじめによって自殺するなどということは、まず起きないと、誰もがいう。家庭で親子が話し合う雰囲気が、日本よりはずっと強いということもあるが、やはり、学校を選んで入るために、信頼関係が強く、学校不信は極めて稀だ。不信感をもったら、他の学校に移ることになる。 “教育学について考える2 自由と参加” の続きを読む
道徳教育ノート 二人の弟子
文科省の道徳教材の中学を見ていったら、とても気乗りがしないような教材が並んでいる。いかにも「道徳教材」というきれいごとの文章で、こんな教材で教えたら、間違いなく特定の道徳的価値観の押しつけになってしまう。そう思いつつ読み進めていって、「二人の弟子」という教材は、なんとか取り組む意欲が湧きそうなので、今回はこの「二人の弟子」を扱う。
道徳教材には、歴史的な題材が少なくないが、多くが、時代やその背景を無視した文章になっている。おそらく、作者はいるのだろうが、それを教科書編集者が書き換えてしまうのだろう。道徳は時代的限定を受けない、普遍的な価値を教えるのだ、という立場もあるだろうが、時代が変われば道徳的価値が変化することも明らかなのだから、私自身は、やはり、教材である以上、その時代背景や事実を無視することは間違っていると思う。 “道徳教育ノート 二人の弟子” の続きを読む
無駄に気づいて改めよう 学校での起立して回答
新型コロナウィルスは、様々な側面でこれまでの生活に対する反省を迫っている。今日6月2日のMSNに「飲食店関係者がコロナ禍で気づいた「無駄だった慣習」の数々」という文章が掲載されていて、なかなか面白い。BGMや、子連れNGルール(居酒屋)、全員での声だしなどがあがっている。BGMは、マスクをするようになると、声が届きにくくなり、うるさいと感じるようになった。居酒屋の子連れがだめというのは、常識的だが、テイクアウト方式がでてくると、家族で買いに来るので、断りにくくなったし、客を選べる状況ではない。全員の声だし(「いらっしゃいませー」とみなで大声をだす)は、そもそも大声での話は感染リスクだから、やめたのだが、客には喜ばれているという。 “無駄に気づいて改めよう 学校での起立して回答” の続きを読む
教育学について考える1
9月入学問題での推移は、いろいろと考えさせるものがあるが、ひとつの驚きは、日本教育学会が、いわば迷っていた文科省や自民党に先駆けて、改革の反対を表明し、それに官庁と政府与党が追随したという成り行きである。これまで日本教育学会は、政府や文科省のやり方に批判的な声明を出すことが多かったが、今回は二重に逆になっている。与党や文科省に先立って見解をだしたこと、そして、双方が一致したことである。
もうひとつ疑問であるのは、自粛要請がでていて、ほとんど外出できない状態で、学会の委員会は、どうやって意見集約をしたのだろうかということだ。政治家や官僚は「出勤」しているから、通常よりは不便かも知れないが、会議ができる。しかし、職場が違う研究者は、直接あって議論はできない。もちろん、オンライン会議がかなり普及してきたから、オンラインの会議をやったのだろう。それはよい。しかし、それだけインターネットを活用して会議をするのならば、学会所属メンバーに対して、意見を求めることだってできたはずである。もちろん、学会のメンバーである私に、そうした意見聴取はまったくなかった。学会事務局は、会員のメールアドレスを管理しているのだから、メールによるアンケートをするなり、あるいは、学会ホームページにアンケートページ、あるいは意見を書き込めるようにするなど(もちろんそのアナウンスは必要であるが)、いくらでも方法はあったはずである。簡単なアンケートでもよいのだ。厚労省は line を使って、健康状態の確認をしていた。最低限、学会のホームページに、意見があるものは申し出るようにとの措置はとれたはずである。
9月入学の実施はしない方向だが
日本教育学会、文科省、自民党と立て続けに、9月入学の慎重論が出され、ほぼ実施されない方向が明確になったようだ。私は、橋下氏とはかなり考えが違うが、「断念だ」という思いは同じである。結局、ここに、日本社会で政治的、学問的リーダーシップを発揮している人たちの、思い切りの悪さ、現状改革への熱意のなさがよく表れている。私自身は、ずっと以前から、何度も9月入学にすべきであるという論を提起してきた。最初に書いたきっかけは、東大が9月入学計画を発表したことだった。すぐに同意した。しかし、そのときには、現実的に無理だろうと思っていた。というのは、9月入学に切り換えるのは、よほど大きな社会的契機がないと無理だからである。今回の新型コロナウィルスは、それこそ数十年に一度くるかどうかの、社会変革のきっかけとなるはずである。1990年代にヨーロッパに海外研修にいって、そこで生活してきた経験から、9月入学のほうがずっと合理的であると感じていたから、今回は絶好のチャンスであると考えたわけである。そして、充分に考えた末の結論でもあった。
しかし、日本教育学会にしても、文科省にしても、自民党にしても、それぞれの立場で教育のあり方に、最も責任のある立場であるにもかかわらず、いかにもおざなりの検討しかせず、結局のところ、変えたら起きるだろうマイナスを強調して、4月入学や、3カ月休校だったマイナスの克服には、目をつぶってしまったのである。何度か書いたので、重複になる部分もあるが、これがおそらく当面最後なので、彼らの思考様式の問題を中心に考察しておきたい。 “9月入学の実施はしない方向だが” の続きを読む
羽鳥モーニングショーで9月入学について議論
番組では、9月入学賛成派と反対派がゲストとして登場し、レギュラーを交えて是非を議論していた。結局、考えねばならない論点は、2点だといえる。
第一は、3カ月授業がなかった遅れを、9月入学にすることによって乗り切るのか、現行制度で乗り切るのか、どちらが効果的であるのかという点。
第二は、そもそも学年は4月に始まるのがいいのか、9月に始まるのがいいのかという点。
多くの議論で、第二についての議論そのものに大きな欠点がある。9月入学賛成論として、必ず出てくるのが「国際化」対応であり、留学が便利だということがいわれる。賛成論の人も、メディアに出てくるとそのようにいってお終いにするのが不可解である。9月入学のメリットは、留学のしやすさだけではない。むしろ、それは、重要ではあるが、誰にも関係するというものでもない。どんなに留学が盛んになっても、せいぜい高校生以上であって、主要には大学に関わることだろう。
きちんと考えるべきなのは、一年サイクルとして相応しい開始と終点の設定なのである。日本教育学会は、現行の入学時期は、文化生活に大きく根ざしており、それを変えることは問題であるというようなことを書いているが、4月入学だから、そういう文化になっているのであって、9月入学になれば、文化が変化するのである。結局、教育的にみて、あるいはそれを社会システムにひろげてみて、どちらに合理性かあるかという話なのだ。 “羽鳥モーニングショーで9月入学について議論” の続きを読む
日本教育学会9月入学否定論の批判1
5月11日に予備的な声明がでて、早急に検討を経て、日本教育学会としての見解を表明するとしていた「声明」が22日に出た。報道では「日本教育学会」としての見解であるとされているが、正式文書では、「『9月入学・始業制』問題検討委員会」としての声明であって、学会としての総意ではない。メディアの報道も、誤解のないようにすべきであろう。詳細な検討を順次行うとして、まず最初に、全体としての認識枠組みについて、検討する。
文書は、「第Ⅰ部 9月入学・始業実施の場合必要な措置と生じる問題」「第Ⅱ部 いま本当に必要な取り組みに向けて」という二部構成になっている。ここに典型的に現われているのだが、私がずっと不満に思っている教育学者たちの発想法の欠陥がある。
いま議論になっていることに関する「問題点」を指摘する。その問題が生じないように、「現行」を前提にして改良案を提示する。その際、「現行」の欠点については、重視しない。
これが、長く日本の教育学者を支配してきた思考パターンである。今回の声明の「目次」から、そのことを明らかにしておこう。 “日本教育学会9月入学否定論の批判1” の続きを読む
道徳教材「最後のおくり物」について
久しぶりに「カテゴリー」にある内容にそった文章を書こうと思う。まずは「道徳教育」に関わり、「最後のおくり物」という5,6年の教材として、文科省のホームページに掲載されている話を扱う。
(1)礼儀正しく真心をもって、(2)相手の立場に立って親切に、というふたつのことを考える教材となっている。
実践例がいくつかインターネットにあり、そのひとつが、概略をまとめているので、それを利用させてもらう。
ロベーヌは、ステージに立つ夢をもつ俳優志望だが、養 成所に通う余裕がないため、窓の外に聞こえてくる練習の 様子を盗み聞きながら、自分で練習を続けていた。守衛の ジョルジュじいさんは、そんなロベーヌを、温かく見守って くれていた。ある日、ロベーヌのもとに「おくりもの(養 成所の学費)」が届けられるようになる。しかし、ロベーヌ が、養成所での練習が始まり、周りからも実力を認められ ようになった頃、「おくりもの」が届かなくなり、通うこと ができなってしまう。そんなとき、ロベールは、「おくりもの」 は、ジョルジュじいさんからだったことに気付くが、じいさ んは病に倒れてしまう。ロベーヌは、身寄りのないじいさ んを自分が看病することに決めるが、じいさんは亡くなって しまう。ロベーヌは、ジョルジュじいさんが最後に書いた手 紙を読み返して、じいさんの「思いやり」の心に触れ、何 かを決意したかのように遠くに視線を移した。http://www.kyoto-be.ne.jp/ed-center/cms_files/kensyusien/dotoku/doc_dotoku_2018_16.pdf
だいたいの内容はこの通りだが、いくつか私が読む限りでは、異なる点がある。 “道徳教材「最後のおくり物」について” の続きを読む
9月入学にメリットがないのか?
9月入学問題がさかんに議論されるようになっているのは、とてもいいことだと思う。いろいろ読んでいくと、気になる議論があるので、気づいたら、その都度検討していきたい。
明確な反対論として、会計年度との関連で反対する議論があった。「「9月入学」にデメリットの数々、社会のリーダーは民意を読み違えるな」と題する日刊工業新聞の記事で署名はない。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200515-00010003-newswitch-bus_all)
会計年度は4月から始まるとするのだが、それは誤解ではないだろうか。国としての基本となる会計年度は1月から始まると、私は理解している。それは、課税の基礎となる、国民の基本的な資産 が1月時点から12月時点までで計算されるからである。組織としての会計年度が、多く4月からになっているのは、教育全体が4月から始まり、その結果として、人の移動が4月を開始点とすることが多いからであろう。だから、9月入学になれば、社会の新年度がすべて9月になるのであって、これまでの4月から始まる会計年度を9月から始まるようにすればよい。それでも税金の基本となる年度は1月のままだろう。
したがって、会計年度との関係での否定論は、意味がないことになる。 “9月入学にメリットがないのか?” の続きを読む