9月入学にメリットがないのか?

 9月入学問題がさかんに議論されるようになっているのは、とてもいいことだと思う。いろいろ読んでいくと、気になる議論があるので、気づいたら、その都度検討していきたい。
 明確な反対論として、会計年度との関連で反対する議論があった。「「9月入学」にデメリットの数々、社会のリーダーは民意を読み違えるな」と題する日刊工業新聞の記事で署名はない。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200515-00010003-newswitch-bus_all)
 会計年度は4月から始まるとするのだが、それは誤解ではないだろうか。国としての基本となる会計年度は1月から始まると、私は理解している。それは、課税の基礎となる、国民の基本的な資産 が1月時点から12月時点までで計算されるからである。組織としての会計年度が、多く4月からになっているのは、教育全体が4月から始まり、その結果として、人の移動が4月を開始点とすることが多いからであろう。だから、9月入学になれば、社会の新年度がすべて9月になるのであって、これまでの4月から始まる会計年度を9月から始まるようにすればよい。それでも税金の基本となる年度は1月のままだろう。
 したがって、会計年度との関係での否定論は、意味がないことになる。
 そして、その文章では、9月入学のメリットは、国際化対応くらいで、他には何もないと書かれていたのにはびっくりした。積極的に9月入学を主張している人の多くは、今回の学習空白を埋めるためではなく、本来9月入学が望ましいが、通常の時には変えることが難しいので、今がチャンスであるという立場であろう。私もそうだ。もちろん、空白の埋め方としても、9月入学にして、やり直すほうが、夏休みや冬休み、土曜日を返上して、詰め込みをするよりもよいという考えもある。
 では、なぜ、9月入学がいいのか。
 改めて、9月入学をとっている国の他の部分も見てみよう。
 例えば、芸術や芸能活動のなかに、年度を区切って活動する組織と、そうしたこととは無関係に活動している組織がある。後者は別として、前者について見れば、例えばオーケストラやオペラ劇場などは、新年度を秋に設定しているところがほとんどである。おそらく、演劇の世界でもそうだろう。これは、一年の活動のなかで、夏は休みにしたいというのは、どこでも同じで、すると、夏休みを途中にいれるか、あるいは、最後にいれるか、どちらが合理的かは、明らかだろう。秋に活動を開始して、暑くなる前に終了し、夏はゆっくり休む。そして、涼しくなったら、開始する。こういうスケジュールが合理的であることは、誰にもわかる。
 ウィーンのオペラら9月開始だが、ミラノは12月だ。しかし、終了はだいたい同じで、つまり、一年の活動期間の相違が、開始時期に影響しているので、夏前に終了するのは、同じなのだ。考えてみると、日本の国会もそうなっている。夏前に通常国会は終わり、夏は国会を開かない。なにかあっても、臨時はたいてい秋である。通常国会の日数から逆算して、12月に通常始まるわけだが、ミラノのオペラと似たようなものだ。
 つまり、涼しくなって、新しい年度を開始し、暑くなって活動できにくくなる夏前に終わる。これが人間の組織的な活動としては合理的なのである。(もちろんこれは北半球での話だ。)
 それを変えて、4月にするとどうなるのか。デメリットはないというが、私の目からみると、デメリットがたくさんある。
 日本の教育を歪めているのが、受験競争であることは、多くの人に認められていると思うが、学力の質としてもそうだが、学校の授業の日程についても、極めて歪みを生じさせている。入学試験が集中する時期になると、中三や高三の授業は、かなり密度の薄いものになり、事実上、3学期はまともに授業が行われない時期になっている。大学でいえば、4年生はほとんど授業をとらず、3年までにとってしまい、4年は就職のための活動に時間を費やす。
 これは、入学試験や就職活動を、授業期間中に行っているから生じていることである。学校現場にいる人間であれば、この弊害は強く感じているはずである。もし、9月入学になって、夏休み期間を長くとれば、それらを学年が終了した時期にずらすことができる。
 他にもメリットはあるが、これまで何度か書いたので、今回は省略する。
 書いておきたいことは、現状の問題を解決するために、新しいことを取り入れようとすると、現状の欠陥には目をつぶって、新しいことを実行すると起きる可能性のある弊害ばかり強調する人たちが少なくないことである。以前、学校選択論の議論がさかんになったときにも、同じことが生じた。教育学者の多くは、学校選択に反対であったが、その理由は、選択をすると学校格差が生じるというものだった。確かに、それは正しい。しかし、問題は、学校選択ができないことによる弊害があるのに、それは無視するという姿勢の人たちが、反対論者のほとんどすべてだった。私は、いじめ自殺をどう制度的に回避できるか、という現状の弊害から出発して、学校選択論に行き着いたので、彼らの議論にはまったく共感できなかった。詳しく立ち入ることは、ここではしないが、どんな制度も、運用によってよくなったり、悪くなったりする。しかし、基本的に、どのような制度がいいのかは、バランスよく考えれば、コンセンサスはえられるものである。ただ、その場合、メリット、デメリットを公平に吟味し、基本的なものと、枝として出てくるものを区別する必要がある。
 9月入学は、気候の一年間の変化のなかで、人間が活動する上で、もっとも自然な形なのである。だから、国際社会で広く採用されている。そのことをしっかり理解する必要がある。国際標準に合わせることを、軽く考えるべきではない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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