教師の影響力

人は20歳までの年に、人生の半分を過ごしたことになると、以前読んだ本の中に書いてありました。その20歳までの中で、学校に通う時間というものは大半を占めている。人々が生まれてから死ぬまでに学校という場に触れない人はほぼいないだろう。その学校という場において大事なものは友達であったり勉強であったりと様々だが、絶対に教師という存在が欠かせない。教師のもとでわたしたちは考え、行動し、成長していく。勉強を教わるのはもちろんであり他の様々な活動でも教師からなにかを得るということはおおいだろう。

 

そこで、ゼミのテーマである人間の尊厳と関連して考えてみたところ、学校での教師によって子どもの尊厳が冒されている場面があるのではないかと考えた。教師と子どもというのは密接な関係であるからして、その影響力というものは大きいだろう。教師のたった一言の発言やちょっとした行動でも子どもは何かを感じ影響されていく。自分にとっていい意味で影響させてくれる教師もきっとたくさんいると思うが、今回はそれが悪い意味で影響されてしまうことに対してスポットを当てたいと思う。 学生時代という貴重な時間の中で一体どんなことが生徒の尊厳をおかしてしまうことになっているのかを研究していきたい。

 

調査方法として、まずはそういった場面が本当にあるのかということをネットや文献などで調べる。それだけでは足りないと思うので文教大学の方々に教師の発言や行動により傷ついたと感じたことなどのアンケート実施する。教師がどんな存在であるのか、教師にどんな存在でいてほしいのかということも併せて聞きたいと考えている。 そしてそこからでた意見や事例を法律的観点や道徳的観点などの様々な観点から考察し、影響力の大きさ、どんなものが尊厳をおかしているかということを調査していきたい。

子どもの貧困

今回私が子どもの貧困について調べたいと思った動機は、子どもにとっての人間の尊厳が失われるとき、一番に仕方なく奪われてしまう原因は貧困によるものだと思ったからだ。生まれた時から貧困家庭にいる子もいれば、途中で貧困状態になる子もいるだろう。しかし、これらは子どものせいではないし、子どもがどうにかして改善できるものでもない。確かに、貧困だからといって幸せではない、というわけではないだろう。しかし、人間としての尊厳を奪われる機会は多いはずだ。

貧困について調べてしたところ、厚生労働省の調査では2009年の「子どもの貧困率」は15.7%となっており、約6人に1人が貧困状態と言われている。子どもの貧困とは、等価可処分所得の中央値の50%以下の所得で暮らす相対的貧困の17歳以下の子どもの生活状況を言い、一般的な水準の半分にも満たない水準で暮らしている子どもたちがどれだけいるのかということを指している。つまり社会がますます豊かになり、一般的な水準が上がっていくのに対して、その水準から落ちこぼれてしまっている子どもたちが、実に6人に1人の割合がいるということになるのだ。

さらに、母子世帯においては、66%が貧困となっており、一人親家庭に対しての社会保障が十分に追いついていない現状もうかがえる。

私はこれらより、貧困をいくつかに分類し、現代にはどのような貧困があるのかしらべてみようと思っている。例えば、経済的貧困ではなく、心の貧困であったり、経済的貧困の中にも、東日本大震災で被災して収入や資産を失った等の理由や、生まれたときから貧困家庭だった、 両親が病気などで働けなくなった、など、様々な貧困があるだろう。

そして、貧困から生まれる様々な格差がどのようなものであるか、どう子どもに影響しているのか調べ、最終的には、貧困は子どもたちにとって人間の尊厳をどれほど奪っているのか、改善策や貧困児童の保護について考えていきたい。

調査方法は、週に1回通っている小学校の校長先生や教頭先生に、実際の子どもの貧困状況やそれからうかがえる子どもの様子などについてインタビューしたい。また、アスポートという貧困状態にある子ども達をサポートする団体にインタビューしたり、その子たちと関わることができたらコミュニケーションをとりたいと考えている。また、ネットや文献も利用していく。

人間の尊厳と障がい児教育

 

人間の尊厳と聞いた際に、私は障がいを持った方々の尊厳が日本においてはあまり守られていないのではないかと考えた。また、日本においてはまだまだ障がい児の子どもに対しての補助や対応が遅れていると感じる。

現在の日本のでは、まだまだ障がい児に対する差別も強くそれは教育現場にも表れている。そこで、日本の統合教育について、世界で行われている統合教育と比較しながら、考えていきたい。また、日本では、知的障害を抱えたこども達や発達障害をどのように支援、サポートしているのか調べていきたい。

今年の2月に北欧研修に行った際、フィンランドや、スウェーデンでの障害児教育の現場を生でみることができた。

フィンランドでは、障害児学級の子ども達と、障害を持っていない子どもたちは同じフロアで学んでいた。特に日本と大きく異なる点としては、障害児学級のクラスには子どもたちの障害に応じて、先生の数が決められるため、人数が多いという点である。

また、スウェーデンの統合学校でにおいても、障害を抱えたこどもたちがいる特別学級と普通学級のこども達も同じフロアで学んでいた。更に、スポーツ大会などのイベントでは、全員が混ざり参加する。また、給食などを食べる場所も同じ場所であり、障がい児の子ども達とそうでないこども達がより関わりあえる環境になっている。発達障害のみを抱えたこどもたちは、普通学級におり、特別学級にいるこども達もそれぞれ自分の得意である教科などは、普通学級で同じように受けることも可能である。同じ教室には担任の先生に1人対し、障がい児の子どもの度合いに応じて補助の先生も複数人ついている。北欧においては、より、障がいを抱えていない子どもと、障がいを抱えた子ども達が深く身近にかかわれる環境作りがなされていた。

このような海外の障がい児教育の現状を見て、日本ではどのように障がい児教育が行われているのか、日本の現状はどのようになっているのかが気になったため、調べてみたい。

日本の特別支援学級ではどのような形で教育がおこなわれているか、どのような支援がなされているかを実際に特別支援学級にインタビューをさせていただき、調べていく。また、外国での特別支援について、文献を用いてしらべ、日本と比較しどのように日本で支援を行っていくことが良いか考えていきたい。

理解のスピード

授業中何故あまり発言しないの?と聞くと、理解するのや、考えるのが遅く、こういうことを言おうと思ったときには、次に進んでいることが多いのだ、との話を聞くことが多い。このような場合、どのようにして、理解や思考を速くすることができるのだろうか。あるいは、そんな必要は全くないのだろうか。あまり軽々しく考えて、熟慮しないまま意見を述べて、あとから突っ込まれ、訂正せざるをえなくなるよりは、熟慮したほうがいいに違いない。しかし、自己表現の時代に、言おうと思っていることがいえないのは、やはり、望ましいことではないだろう。
ではどうしたら、思考のスピードをあげることができるのたろうか。

スポーツなら、かなり明確になっていると思われる。短距離走、あるいは長距離走、また球技、水泳等々、主に使用する筋肉や身体部分が決まっている。そのスポーツで使用する筋肉を鍛えれば、たいていはスピードがでたり、遠くに投げることができたり、あるいは高く飛べるようになるはずである。スポーツは、基本的に心肺機能と筋肉・骨格の使い方がだいたいは明確になっているので、それに沿って適切な訓練をすればいい。しかし、思考はどうなのだろうか。思考の速い人と遅い人は実際にいるのだろうか、いるとしたら、何が違うのだろうか。
もちろん、話を聞いてすぐに反応するひとと、じっくり考え、時間をおかないと反応できないひとがいる。だから、ひとによって思考のスピードに差があることは間違いない。

そもそも人間が認識をするのに、どのような情報の処理が行われるのだろうか。
常識的には、いろいろな情報がはいってくると、それを記憶しつつ、整理して、考え、意見としてまとめて、それを表現すると考えられがちであるが、しかし、どうやら、それは違うようだ。ある情報を外部からインプットしたとき、その情報をすべて取り入れてから処理するのではないらしい。たとえば、あるひとを遠くから見たときに、全体をみなくても、「あ、誰々だ」と認識することがある。それが間違っていることも含めて。ある情報が入り始めると、それに似たデータを脳は読み出し、過去のデータと新しい情報を組み合わせて認識が行われるらしい。したがって、非常に似たひとの場合、重なるデータが同じなので、実は違うひとであるにもかかわらず、当人だと思ってしまうことが起きる。本人は、実際にAさんをみているのに、Bさんを見えたと感じることがある。認識とは、基本的に脳内の情報処理なので、今Aさんをみているにもかかわらず、にているBさんのデータが脳で処理されていると、Bさんをみているように錯覚してしまうのである。これは、意図的に勘違いするわけではなく、実際にそのように「見える」のである。「確かに、そのように見えたんだけど」という、自分でも納得できないような思いをしたことがある人は、少なくないと思うが、このようなメカニズムによるらしい。
このことからわかるように、脳はデータが入り始めると、どんどんそのデータを取り入れるのではなく、似た状況のデータを参照し始めるということだ。あるひとが、戦争についての話をきいたときに、前に似たような問題を考え、自分なりの意見をもっていたとすると、その戦争を話を聞いている最中に、前に考えた戦争についての自分の意見を思い出すことになるし、また、話も予め知っているので、理解が速くなる。意見を求められても予め考えられているので、新たに考える必要がない。つまり、理解が速いということは、思考スピードそのものも、別のこととしてありうるかも知れないが、通常は、前もって似たことを考えていると、そのデータがすばやく参照されるということなのではなかろうか。だから、その参照データによって、自分の意見をいうことができる。

以上考えると、極めて陳腐な結論だが、授業で意見をすばやくいうためには、その領域についての知識をもっていること、そして、同じような課題を、事前に考えておくことが有効だということになる。
速読術のように、特殊な本読みのスピードをあげる技術があるように、速考術なるものがあるのかも知れないが、まずは、この平凡な「予習」を実践することがいいのではないだろうか。

人間の尊厳と学習障害

人間の尊厳が侵されている場合はどんなときかと考えたときに、私は、障害者教育について思い浮かんだ。障害者を持っている人たちは特別支援学校に行くか、普通学校で健常児と一緒に学ぶか選択することができる。重度の障害を持った子は特別支援学校に行くことを迷わずに選択することができるが、軽度の場合には普通学校に行くこと選択する人も多いだろう。普通学校で学ぶ場合には、授業のペースについていけず、周りから置いていかれてしまうと感じる子もいると思う。そのとき、人間の尊厳が侵されているのではないと考える。人間には誰もが教育を受ける権利がある。このとき、障害児は教育を受けることができているが、適切な教育を受けられているのかいうと疑問を感じる。一人の障害を持っている子のために授業のペースを遅くするのは、それはそれで問題がある。指導の方法に工夫をしていく必要があるだろう。
今、クラスの中には必ず軽度の障害を持つ児童がいると言われている。発達障害の中でも、私は学習障害(LD)について調べていきたい。
私は将来小学校の教員を目指している。大学ではLDなどの障害をもった児童に対する指導、支援の方法は詳しく教わらないので、この機会に学んでおきたいと思ったのでこのテーマに決定することにした。
軽度の学習障害だと、障害だと気づかずに普通学級にいることが多いらしい。学習の著しい遅れがあることに親や教師が不安を抱くのはもちろん、なぜクラスのみんなの授業をできないのか、本人が一番苦しんでいるだろう。それが原因でいじめに発展するケースも少なくない。今回、「人間の尊厳」というテーマを踏まえて障害者が普通学級でも楽しく快適な学校生活を送るためにはどうすればいいのか考えていきたい。
調査方法として、障害についての知識を得るためにまずは文献で調べる。そこで学習障害の特徴を捉え、事例なども調べてみる。文献で調べたことをインタビューに活かしていきたい。次に、実際に学校現場に行き先生にインタビューをする。内容としては、障害をもった生徒にどのような支援をしているか、指導する際に気を付けること、これからの支援の仕方などについて聞いていきたい。これからボランティアで行く小学校にしている学校をインタビューの対象とする。

いじめの実態に迫る

こんにちは、まーぼーです。

 

これからゼミで取り組む研究の個人テーマについて、研究方法と目的と動機について書いていきます。

 

私が「人間の尊厳」というテーマのもと、ゼミでやりたいと考えている内容は、いじめについてです。

今回は、いじめはいじめでも学校現場での児童・生徒同士のものを主としたいと考えています。

加害者・被害者の心理状態や環境、いじめのきっかけや原因はどのようなものであるかを実際に経験したことのある人に、辛い思いをさせないように配慮しつつ、話を聞いたり関わっていったりしていきたいと思っています。

フリースクールの関係者に話を伺う約束をすることができました。
基本的な知識や理論については文献で調べておき、学内でも簡単な質問紙とそこで実際にお話しをしていただけないかの協力をお願いできたらと思っています。

また、フリースクール(地元のフリースクールに見学とお話を伺う約束をしました。)や、学校の相談室でのボランティア(埼玉県で募集しているスチューデントサポーターに参加できないか検討中)、児童相談所等で、経験した児童・生徒の声を聞いていきたいと考えています。

 

私がこのテーマで研究したいと考えたのは、いじめとは通常学校や学級だけではなく、特別支援学校でも起こるものであると聞いたことがあるのが一番の理由です。人間の尊厳を考えたときに、ステータスが同じくらいの人どうしでも起こる尊厳が保たれない状況はいじめなのではないかと思いました。いじめの程度の違いはあるけれど、自分以外の誰かを傷つけてしまう気持ちというのは誰しも持っている気持ちなのかもしれないと思います。しかし、それが他の気持ちを上回ってしまう状況や、その人の人格を形成した背景も関わってくるのではないか、そこを個人に対応して考えられるようになればいじめを減らしていけるのではないかと考えました。いじめが起きてからの対応法も大切かもしれませんが、予防するという積極的な方法を学んでいきたいと考えていたので、この機会に研究していきたいと考えました。現場に立ったときに、少しでもいじめを起こさないための方法などを学んでいかせていけたらと思います。

人間の尊厳と加害者家族の人生

「人間の尊厳とは」

まず、尊厳の意味は「尊くおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。」という意味です。そこから考える、私の思う人間の尊厳とは、「人間として侵されることのない日常や最低限の権利」ということではないかと考えています。

では、この尊厳を侵されている人間は、どんな人間なのか、と考えたときに、私の浮かんできたことはいじめでした。いじめは、平穏な日常が守られておらず、他人から発言権を奪われたり、何か行動する権利、ひどい場合には生きる権利をも否定されたりしています。

いじめられるきっかけや原因はたくさんのものがあります。そこでわたしがさらに焦点を当てて考えたいと思ったのは犯罪者の家族(子ども)へのいじめや入学拒否についてでした。犯罪者の子どもはあくまでも子ども。本人というわけでもないのに、いじめを受けたり、周りから誹謗中傷の声が上がったり、入学拒否されたりしています。そのため、犯罪者の家族や子どもは人間の尊厳を守られていないと考え、調べたいと思いました。

当初、私が調べたいのは加害者の子どもは学校ではどうなのか、という部分でした。オウム真理教の信仰者の子どもは以前、入学拒否されたと学び、ほかにもそういう件があるのか調べたいと思い、この件に関することをネットで調べてみました。すると、被害者家族への配慮やカウンセリングはされているのにもかかわらず、加害者家族には配慮等はされていない現実があることを知りました。インタビューは拒否することができず、世間からも距離を置かれ、笑うこともなくことも許されないという思いになるという話もありました。

そのことを知り、当初の調べたいことよりも焦点を広く当てて、加害者の家族について調べていきたいと思います。また、メディアとの関係にも触れていきたいです。

最終的には、加害者の家族のプライバシーを守り、プライバシーや人権、教育に影響を与えないような制度方法(海外で行われているものなど)を調べていきたいと思います。

そこで、気を付けなければならないことは、加害者の家族にばかり目を向けてしまい、被害者の家族や加害者家族を受け入れる側の気持ちや権利も考えなければなりません。私自身、もし目の前に連続殺人事件の犯人の家族がいたら、純粋に仲良くなろうなど考えられないと思います。避けることはしなくても、なんとなく距離を置いてしまうかもしれません。様々な点からこの問題を見るとともに、どの立場の方でも受け入れできる方法を考えていけたらいいと思います。

では、調べる方法はどうしていくかというと、まず、犯罪者の家族が自殺した件を調査していきます。具体例として、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人の父親が自殺したという文献を探したいと考えております。また、最近では秋葉原無差別殺人事件の弟さんは週刊誌(週刊現代2014/04/26号)のインタビューの一週間後に自殺したという話があります。できれば、その週刊誌の記者に連絡を取り、記載されていること以上の話もお聞きしたいと考えています。また、犯罪者家族の会、ワールドオープンハートという法人団体の代表者、阿部さんにインタビューしたいと思っております。東京や埼玉など、訪問できる場所にいるときに直接会いに行く、もしくは電話やメールで質問にお答えしていただく形にします。ここで、加害者家族の子どもはどんな風に学校生活を送っているのかということについて、詳しくお聞きしたいと考えております。さらに鈴木伸元さんにインタビューもします。鈴木さんは「加害者家族」という本の著者で、このことを書くにあたって、たくさんのインタビューを繰り返し書き上げたというお話をされていました。そこで、その本を読み、さらに情報がほしい場合はインタビューしたいです。また、その本は加害者家族の現状を知ってもらうために、展示で紹介したいとも考えております。そのほかには、被害者の家族の意見を聞くための調査を行ったり、入学拒否をした学校へのインタビューをしたりすることも考慮していきます。日本の犯罪者の人権保護についてと外国の犯罪者の人権保護について調査していきます。上記の問題について、日本の法律や制度等を調べた上で、外国の法律や制度等を文献を使用し、調べていきます。日本と比較し、日本のこれからの犯罪者、犯罪者家族への配慮について考えていきます。

 

人間の尊厳とADHD

私は発達障害の中でも特にADHDについて調べたいと思っている。それは将来教師を目指すうえで最も不安に思うことが、ADHD(と思われる)の児童への指導だからだ。学習障害のみを抱える児童であれば、特別な課題を用意し、丁寧に指導することで対応できると思うが、ADHDの児童への対応は複雑だと私は考える。授業をしっかり聞くことができなかったり、一対一で話をしていても他の事が気になって話をしっかり聞けなかったりすると指導すらままならない可能性もある。また、授業を集中して受けられないことは、他の児童の集中力を削ぐことにもつながりかねない。今回のゼミの研究テーマである「人間の尊厳」を考えた時に、この点が当てはまると考えた。ADHDの児童本人は、授業や話をしっかり聞かないという点で教育を受けられないし、その他の児童は教育を受けようとするにもかかわらずそれを邪魔されてしまう。そういったことが起こらないようにするにはどうすればよいのか、多方面で話を聞いてみて自分なりに答えを出したいと思う。

 ボランティアや補助員を何度か経験して、ADHDの児童と関わる機会があったが、これが正解である、というものは見つからないと思う。近年インテグレーションやインクルージョンといった考え方が広まっているが、それがどんな状況でも正しいとはいえないと私は考える。確かに、障害を抱える児童にとっても、健常な児童にとってもメリットのある教育だろう。通常学級に在籍することで自分が障害を抱えているということを意識しなくなるだろうし、障害を抱えている児童と接することで健常児も障害についての認識を改めることを期待できる。しかし必ずしもそういったことを期待できるわけではないし、良い教育ができるとも限らない。実際に、補助員としてついていった通常学級の林間学校で大変な事態が巻き起こったが、特別支援学級の宿泊体験では特に大きな問題が起こらなかった。通常学級の林間学校では、ADHDだと思われる児童が3クラスにそれぞれ2~3名ずつくらいの割合でいた。それらの児童たちが騒ぎ出すと、周りの児童がつられてしまう。そのせいで収拾がつかない事態になることが多々あった。またそれらの児童は掃除や部屋の整理を手伝ったりせず、やりたい放題であった。対して特別支援学級のADHDと診断されている児童たちは、騒がしくなることはあるものの、下級生の面倒を見たり、荷物の整理や部屋の清掃をきちんと行ったり、責任感のある態度を培っていた。学力の面で比べることは出来ないが、人間として大切なことを学べているのは明らかに後者である。多動は年齢を重ねるとともにおさまっていくと授業で習ったが、何も学んでこなかった状態でリスタートするのと、通常学級で学んできた人たちよりは劣るものの、最低限の知識と人間性を身につけた状態でリスタートするのとでは、明らかにその後の人生に差が出ると私は考える。

 全ての障害児を特別支援学級に入れろとは言わないが、通常学級で指導をするのであれば、特別支援学級と同等かそれ以上の教育的成果をあげることが必要だと思う。そのためにはどのようにするべきなのか、文献をあたり、実際に通常学級の担任の先生に話を伺ったり、特別支援学級の先生に話を伺ったりすることで、それぞれどのような考えを持ているのか、またどのようにすべきだと思っているのか理想と現実のギャップについても聞いてみたいと思う。地元の小学校(府中市立府中第五小学校)の校長先生が知り合いなので、その学校の先生方にインタビューをお願いできるか伺ってみようと思う。ここは特別支援学級もあるため、様々な情報や意見を得られるのではないかと考えている。また以前今野先生と話した際に、越谷の小学校とのつながりがあるとおっしゃっていたので、今野先生を通してお話を聞きにいけないかと考えている。

人間の尊厳に関わる不登校

 私は、学校に行きたくないと感じる気持ちにどんなことが関わるのかについて考えたい。そこで学校に行きたくないということは不登校に入ると考えてテーマを選んだ。文部科学省の不登校の定義としては、年間30日以上欠席した児童生徒のうち、病気や経済的な理由を除き、何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないあるいはしたくともできない状況にある者とされている。私は、学校に行くという権利、尊厳が侵されるということが不登校に含まれていると考える。このため、学校に行くという権利や尊厳が侵されている、学校に行きたくないという気持ちについて考えたい。
 不登校に関わる気持ちとして、人間関係について考えられる。例えば、いじめがあること、会いたくない人がいることがある。また、自分自身に関することについても考えられる。例えば、自分に自信がないこと、家から出て他の人に会いたくないことがある。他に、責任を押しつけられること、だれからも認められないと感じること、勉強をする意味がよくわからないことなどが考えられる。
 調べた文献では、不登校を作りだす要因として、学校環境の中に不快な出来事があったと挙げられている。また、自尊感情と不登校の関係の指摘が論文でされている。
 学校に行きたくないという気持ちについて、実際の支援の事例を文献などで探すことや、どのような時に学校に行きたくないと感じたかについてのアンケートやインタビューを、学生を対象としてすることを考えている。また、実際にフリースクールや通信制高校に訪問し、現場の人が感じる不登校が起こる気持ちについて聞きたいと考えている。
 不登校の支援として、通っていた学校へ行くという選択肢や他の学校にいくなどの選択肢があることを考えるなど、行えることのできる支援について調べてまとめたいと考えている。

全てのこどもに愛情を!!

近年、親の子どもに対する育て方が問題視されている。子どもの虐待について調査している『オレンジリボン運動』という団体によると、児童相談所における児童虐待相談対応件数は、平成初期には1000件ほどであったが、年々増え続けており、平成24年度には66807件と過去22年間で約60倍にもなっているという(平成2年~平成24年度まで)。何故このようなことが起こるのか?原因の一つとして、しつけと虐待を混同している親が多いということが考えられる。まずはしつけと虐待の違いについて触れてみたいと思う。

しつけとは、教育全般と言い換えてもよいが、教育一般よりも生活全般に根ざした、更に根源的な事柄にまつわる部分を教えていく行為を指す。特に言葉が理解出来ない幼児の教育に関しては、様々な態度で接することで「やって良いこと(=誉められる)」「やってはいけないこと(=罰せられる)」の区別をつけさせることでもある。つまり子どもが物事の善し悪しを理解するために必要な親の教育のことをしつけというのである。

虐待とは、自分の保護下にある者(ヒト、動物等)に対し、日常的にいやがらせや無視をするなどの行為を行うことを言う。「児童虐待の防止等に関する法律」により、子ども虐待の定義は、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待となった。専門家によると、「子どもが耐え難い苦痛を感じることであれば、それは虐待である」と考えるべきだという。

何故この両者が混同されてしまうのか。私は親の心に問題があると思う。

子供を育てる上で必要なのは愛着形成である。子供が幼い頃に十分なコミュニケーションを取ることで、自然と愛着が形成され、心の豊かな人間に成長することができる。しかし、このコミュニケーションができていない親が多いように思われる。近年、「ながら授乳」という言葉をよく耳にするが、これは母親が携帯電話やスマートフォンを使用しながら赤ちゃんに母乳を飲ませるということである。本来ならば、語り掛けをしたり、頭を撫でたりと、コミュニケーションをとりつつの授乳が望ましい。「ながら授乳」は、愛着形成を阻害する要因になっているのである。その結果、こどもが成長してからも母親の子どもに対する愛情が欠落し、子どもを叱る時に間違った方法を取ってしまうのではないか。親子間での愛着形成の形成失敗が、正しいしつけの欠落をもたらしてしまうと私は思う。

正しいしつけの方法を身に着け、虐待に走らないようにするには、親が自分の子どもが生まれる前から子どもの成長段階に合ったコミュニケーションの取り方を学び、身に着けることが必要である。これがいわゆる『親学』というものである。親学とは、伝統的価値観に基づいて学ばなければいけないとされているものである。この戦前から存在する伝統的な子育てを広めるべく活動している『親学推進協会』という団体によると、発達障碍やアスペルガー、自閉症は親の愛情不足が原因で、伝統的子育てでは発生しないという。例えそうでなかったとしても、親の育て方はその子どもの発達や人格形成に大きな影響を与えているのは間違いないだろう。その大事な成長過程の中で虐待を受けた子どもは歪んだ人格を形成してしまいかねない。虐待まではいかなくとも、言葉の暴力などによる精神的苦痛を負った子どもは自分に自信を持てなくなり、生活力の乏しい人間になってしまう。これがいわゆる自己肯定感の欠落である。

現在の子どもの自己肯定感の低さを物語るデータがある。東京都教育委員会は、2008年11月から12月にかけて、都内の小学生4030人、中学生2855人、高校生5855人を対象に、自尊感情や自己肯定感をテーマにしたアンケートを実施した。その結果、「自分のことが好きだ」という問いに対して、小学生では、1年生の84%が肯定的な回答をしたものの、学年が上がるにつれてその割合は低下していき、6年生では59%まで落ちていることがわかっているという。

中学生では「自分のことが好きだ」との問いに対して、「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と否定的に回答した割合が、中1で57%、中2で61%、中3で52%となった。高校生でも結果はそれほど変わらず、高1で56%、高2で57%、高3で47%となっている。自分のことを好きになれない子供たちがこれほど多いのはなんとも悲しいことである。

私が今回子どもに焦点を当てたのは、自分が将来親になった時に正しい育て方を身につけたいと思ったからだ。そのためにまず現在の親の子どもに対する育成上の問題点を調べる必要性があると思う。そしてこのゼミのテーマである『人間の尊厳』と絡めて、親の子どもへの虐待について調べようと思う。調査方法としては、地域の児童相談所の担当の方や、上記にもある『オレンジリボン運動』の代表の方へのインタビューや、虐待に関するニュース記事や文献などの講読を考えている。主に明らかにしたいことは以下の5項目である。

 

①    現在の虐待の現状と種類について

②    虐待を受けた子どもに対する対応の方法と、虐待をした親に対する対応の方法

③    虐待を受けた子どものその後の生活

④    虐待後の親子関係(修復した場合について例があればその経過を)

⑤    虐待を防ぐためにどのような活動が行われているか

 

調査の第1歩として、5月25日に大手町で行われる『オレンジリボンフォーラム』に参加する予定である。今後も報告・感想等をまとめていこうと思う。

 

参考文献・URL

『子ども格差 -壊れる子どもと教育現場』尾木直樹

http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A6%AA%E5%AD%A6

http://www.orangeribbon.jp/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%90%E5%BE%85

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%91