授業中何故あまり発言しないの?と聞くと、理解するのや、考えるのが遅く、こういうことを言おうと思ったときには、次に進んでいることが多いのだ、との話を聞くことが多い。このような場合、どのようにして、理解や思考を速くすることができるのだろうか。あるいは、そんな必要は全くないのだろうか。あまり軽々しく考えて、熟慮しないまま意見を述べて、あとから突っ込まれ、訂正せざるをえなくなるよりは、熟慮したほうがいいに違いない。しかし、自己表現の時代に、言おうと思っていることがいえないのは、やはり、望ましいことではないだろう。
ではどうしたら、思考のスピードをあげることができるのたろうか。
スポーツなら、かなり明確になっていると思われる。短距離走、あるいは長距離走、また球技、水泳等々、主に使用する筋肉や身体部分が決まっている。そのスポーツで使用する筋肉を鍛えれば、たいていはスピードがでたり、遠くに投げることができたり、あるいは高く飛べるようになるはずである。スポーツは、基本的に心肺機能と筋肉・骨格の使い方がだいたいは明確になっているので、それに沿って適切な訓練をすればいい。しかし、思考はどうなのだろうか。思考の速い人と遅い人は実際にいるのだろうか、いるとしたら、何が違うのだろうか。
もちろん、話を聞いてすぐに反応するひとと、じっくり考え、時間をおかないと反応できないひとがいる。だから、ひとによって思考のスピードに差があることは間違いない。
そもそも人間が認識をするのに、どのような情報の処理が行われるのだろうか。
常識的には、いろいろな情報がはいってくると、それを記憶しつつ、整理して、考え、意見としてまとめて、それを表現すると考えられがちであるが、しかし、どうやら、それは違うようだ。ある情報を外部からインプットしたとき、その情報をすべて取り入れてから処理するのではないらしい。たとえば、あるひとを遠くから見たときに、全体をみなくても、「あ、誰々だ」と認識することがある。それが間違っていることも含めて。ある情報が入り始めると、それに似たデータを脳は読み出し、過去のデータと新しい情報を組み合わせて認識が行われるらしい。したがって、非常に似たひとの場合、重なるデータが同じなので、実は違うひとであるにもかかわらず、当人だと思ってしまうことが起きる。本人は、実際にAさんをみているのに、Bさんを見えたと感じることがある。認識とは、基本的に脳内の情報処理なので、今Aさんをみているにもかかわらず、にているBさんのデータが脳で処理されていると、Bさんをみているように錯覚してしまうのである。これは、意図的に勘違いするわけではなく、実際にそのように「見える」のである。「確かに、そのように見えたんだけど」という、自分でも納得できないような思いをしたことがある人は、少なくないと思うが、このようなメカニズムによるらしい。
このことからわかるように、脳はデータが入り始めると、どんどんそのデータを取り入れるのではなく、似た状況のデータを参照し始めるということだ。あるひとが、戦争についての話をきいたときに、前に似たような問題を考え、自分なりの意見をもっていたとすると、その戦争を話を聞いている最中に、前に考えた戦争についての自分の意見を思い出すことになるし、また、話も予め知っているので、理解が速くなる。意見を求められても予め考えられているので、新たに考える必要がない。つまり、理解が速いということは、思考スピードそのものも、別のこととしてありうるかも知れないが、通常は、前もって似たことを考えていると、そのデータがすばやく参照されるということなのではなかろうか。だから、その参照データによって、自分の意見をいうことができる。
以上考えると、極めて陳腐な結論だが、授業で意見をすばやくいうためには、その領域についての知識をもっていること、そして、同じような課題を、事前に考えておくことが有効だということになる。
速読術のように、特殊な本読みのスピードをあげる技術があるように、速考術なるものがあるのかも知れないが、まずは、この平凡な「予習」を実践することがいいのではないだろうか。