オリンピック開会式は不可能だ 演出責任者が解任

 またまた大スキャンダルが発生した。演出責任者という小林賢太郎氏が解任されたのだ。ユダヤ人虐殺をやゆするような内容の動画を過去にアップしていたというこのようだ。しかも、解任が今日の記者会見で明らかにされた。
 ユダヤ人に対するナチの虐殺について、「虐殺はなかった」とか「ホロコーストはなかった」というような言論が、過去たくさんだされた時期があり、日本でも雑誌が廃刊されるようなこともあった。私は、小林賢太郎という人物をまったく知らないのだが、小山田圭吾氏の解任によって、音楽が使われないということのだから、小林氏の解任によって、その演出が使われないということにならざるをえないだろう。解任したとしたも、その演出そのものは採用するというのであれば、解任の意味がない。

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小山田圭吾問題再論

小山田圭吾氏が辞任を迫られて、とうとう辞めた。彼の担当した音楽も採用されなかったことになったようだ。しかし、これで、一件落着というわけではない。そもそも、何故彼のような人が、多様性尊重、障害者スポーツの祭典の開会式の音楽担当になったのか。だれの責任だったのか。組織委員会は、小山田氏の反省で済まそうとしたが、結局内閣官房が世論を気にしたのか、自分たちの価値判断なのかはわからないが、介入して、辞任させたという「政治」の介入が適切だったのか。そして、そもそも、オリンピックやパラリンピックが、本当に掲げている理念にふさわしい行事であるのか、そういうことが総体として議論されなければならない。また、小山田氏がいじめをしたという和光学園の教育の実態も問題にされねばならない。 

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サロメの聴き比べ カラヤン版のすごさはどこに

 前に「サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素」という文章を書いたが、http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=2489 その後、アマゾンで、サロメのスコアを中古で安く入手したので、今度はCDを聴いてみた。そして、スタジオのセッション録音のものに限定して、代表的な3つの演奏を聴いた。ショルティ、シノーポリ、カラヤン指揮のものである。

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教育学を考える26 競争と教育2

 では、どうしたら競争を媒介としない教育が可能になるのだろうか。もちろん、その最大のヒントはサドベリバレイ校の教育にある。しかし、サドベリバレイ校の教育を通常の公立学校に適用することは、もちろん不可能である。もちろん、その精神をとりいれた実践は可能かも知れないが、その幅は小さいに違いない。
 したがって、競争をやめるためには、制度改革が必要となる。では、どのような改革が必要なのか。ここでは、まずは実現性はひとまず無視して、考えられることを書いておこう。

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小山田圭吾は辞任させるべき(再論)

 小山田問題は、すでに世界各地で報道されているという。
 昨日の動きとしては、オリンピック組織委員会の武藤事務局長は、「既に反省しており、高い倫理観をもって仕事をしている」とそのまま仕事を継続させるとしているが、この台詞、そのまま以前にも言っていたように記憶している。森会長の女性差別発言があったときにも、一時は、同じような言い方でかばっていた。開閉会式責任者の佐々木氏のときにも、おそらく同様な対応をしたのだろう。しかし、佐々木氏の場合には、早々と本人が逃げてしまった。つまり、オリンピック組織委員会というのは、こういう不祥事を真剣に考える姿勢そのものが、欠如しているようにしか思えない。

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小山田圭吾はオリンピック開会式担当をおりるべき 和光の教育にも疑問が

 私は、このブログの読者は十分承知しているように、クラシック音楽以外はまったく聴かないので、小山田圭吾という人は、まったく知らなかったし、開会式の音楽で騒ぎになっていることは、一月万冊で初めて知った。念のため、ネットで調べていると、これはあまりに酷いということ、しかも、彼がいじめをやっていたのが、和光学園であるということで、書かざるをえないと思った。和光学園というのは、リベラルな教育で知られており、そういう方面では評価が高い。大学だが、私の尊敬する先輩が務めていたこともある。その和光学園の小学校から高校まで、筆舌に尽くせないようないじめを継続していたこと、そして、更に問題なのは、それを雑誌で2回も、自慢げに語っていたということだろう。ネットでは、有名な事実だそうで、そのことについては、小山田圭吾という人は、いじめ問題での有名人だったそうだ。とくにネット時代になってからは、ずっと非難され続けているという。

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教育学を考える25 競争と教育1

 競争は、教育にとってどういう意味があるのだろうか。
 現在の日本のみならず、先進国では、競争が学校現場に大きな影響を与えていることは誰もが認めるだろう。特に、日本の教育は、競争なしに成立するのかと思われるほどである。しかし、皆が、教育における競争に賛成しているわけではない。教育における競争は、極めて大きな論争課題である。
 一方には競争があってこそ、人は勉強するのだから、競争を教育にとって不可欠であるという人たちがいる。多くの大人は、こうした考えに囚われているに違いない。事実、現在の特に「経済的に成功した」と考えている人の多くは、受験競争に勝ち抜いてきたひとたちが多いと思われるからだ。受験のために勉強したという実感と、努力したからこそ勝てたという自尊心が混じっているだろう。
 他方には、競争は教育を歪め、受験のための勉強でえた学力は、受験が終わると忘れてしまう(剥落)ので、有効ではないと考えるひとたちがいる。そして、特に、教師をしている人たちの多くは、後者の考えをもっているが、前者の立場にたたないと、教師の使命を果たせないと思っていて、いわば自分の信念とまわりの要請の板挟みになっているのではないだろうか。

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雑感3 バッハの中国人発言と酒類騒動

1 メディアの不甲斐なさ 何故バッハの中国人発言をとりあげないのか
 
 日本のメディアについては、多々不満はあるが、最近のオリンピック報道についても情けないことがたくさんある。そのひとつが、バッハIOC会長発言の報道だ。
 ネットでは散々話題になった「日本人の安全を」というところを「中国人の」と言ってしまった件だ。驚いたことに、大新聞は、この事実をあまり報道していないのだ。私は、毎日新聞をネット版で講読しているので、チェックしたのだが、「バッハ氏、「日本」を「中国」と言い間違い 「反発招いた」米紙報道 」という記事が7月14日付けであるだけだ。国民のオリンピック反対の声が非常に強かった時期(いまでも強いが)、自分たちの見解を示さず、海外でのオリンピック中心論を紹介していた時期があったが、それと同じ構図だ。バッハ発言そのものは報道しないで、海外で話題になっているというのを紹介するだけというのは、どういうことだろうか。
 もちろん、人のミスをあげつらうことは、良くないことだ。しかし、ネットでも少なくない人が指摘していたことだが、あの発言は決して「ミス」ではない。日本にきて、しばらく隔離をしていたあと、最初の公式の仕事として、オリンピック組織委員会を訪れ、会長らと会談をする場での挨拶のなかで出てきた言葉だ。目の前の人が、最も心配していることについて述べる際に、なぜ、まったく異なる内容が出てきたのか。それは、そのことがバッハ自身の頭のなかに、明確にあったからだ。

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『教育』2021年8月号 山本論文を読む2

  山本論文に限らず、学校が教育的機能の絶対的中心にいるという信念がある。もちろん、そうした気概は教師にとって重要かも知れないが、学校は、人間を教育する場のひとつに過ぎない。学校の中心的存在である信念をもつと、現在のように、塾やネットに脅かされると、不安になる。
 次の「学校外公教育の隆盛」という部分では、学校の地位が低下することへの危機意識を感じる。だが、私からみると、逆に、戦後の数十年間が、教育システムにおける学校の位置が異常に大きすぎた時代なのだ。前近代社会では、学校に行く人間など、ごく少数しかいなかった。もちろん、人間が社会のなかで一人前の大人として生活していくためには、たくさんのことを学習しなければならないから、学校以外の教育が存在したわけだ。多くは、労働に参加することによって、そのなかで必要なことを学んでいたのであり、先輩の働き手が教師だったのである。近代社会になって、国民教育制度が成立してからも、農民などは、学校の価値をあまり認めていなかった。学校社会で勝ち残る人は、だいたいが中産階級以上のひとたちだった。そして、学校社会での競争に参加する人も、限られていた。

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『教育』2021年9月号 山本宏樹「超情報化社会における公教育の基本問題--教育・脳育・人工知能」を読む 1

 私は、大学勤務中は、教科研などの民間研究団体とまったく関係をもたないまま、学内での教育に専念していたが、定年を一年後に控えた時期に、『教育』を年間講読するようになり、熱心に読むようになって、教科研という団体が、あまりにICTに後ろ向きであることに驚いた。私は、コンピューターにあまり詳しいほうではないが、1991年に、ニフティのパソコン通信に参加して以来、コンピューターのネットワークが将来の社会を動かす基盤になることを確信したし、大学の授業にも可能な限り活用した。
 しかし、講読だけではなく、教科研の会員になってみると、不可解なことが少なくなかった。最も驚いたのは、会報が郵便で送られてくることだった。こんな会報は、メールで送信すれば、どんなに手間と費用が軽減できるだろう。年4000円の会費を払っている会員がどれだけいるのかわからないが、それほど多くないはずだ。この会報の印刷と郵送費用は、かなりの部分を占めているのではないかと思うと、これをメール配信するか、あるいはホームページでの情報発信に切り換えれば、ずいぶん会計的にも労働力的にも改善されるのではないと思う。しかし、更に、会員として過ごしていると、私のような新参の一般会員には、この教科研ニュースという会報以外、特別な利点がないのだ。事実、教科研のホームページには、会員になることの利点として、会報の送付があげられていて、それ以外はあまり利点がないのだ。

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