自民党総裁選で高市氏が当選して、おそらく内閣総理大臣にも選出されるだろう。なぜ、高市氏が当選したのかという政治的な分析は、私にはできないし、多くの人がだされているので、そちらにまかせるとして、この間の選挙報道に関連して、いくつか感じたことを書いておきたい。
まず、第一に、最近あまり見ないのだが、youtubeの「一月万冊」では、何人かがそれぞれ語っていたのだが、私の見たかぎりでは、すべての人が、高市当選は絶対にありえない、状況からみて「ない」と断言していたことである。とくに、佐藤章氏は自信満々の調子で、自分の収集した情報では、「ない」と何度も語っていた。さまざまな情報をみると、小泉有利だが、高市が追い上げているということもずいぶんいわれていた。それなのに、「一月万冊」では、「情報から判断して」という形で予想していたのである。
考えてみると、こうした、ある程度支持対象がはっきりしている論客たちは、希望的観測を客観情勢とごっちゃにしてみているように感じるのである。とくに、佐藤氏は、自分の得た情報によると、という形でずいぶん「予告」をしてきたが、多くは外れている印象なのである。優れたジャーナリストではあるのだろうが、やはり、冷静な情勢分析よりも、自分の期待をこめた判断を優先させてしまうことは、ジャーナリストとしては致命的なのではなかろうか。
次に、これは普段感じていることだが、日本に限らず国際的にみてもそうなのかも知れないが、移民反対、移民規制賛成の立場にたつと「極右」というレッテルを貼られる傾向がある。もちろん、極右は多くが自国民優先だから、移民反対であるが、移民政策に慎重であったり、批判的であったりするのは、左翼でもありうる。もちろん、移民・難民受け入れは人権の必要事項だと考えているひとたちも、リベラルや左翼に存在するだろうが、政策として移民を受け入れることが、社会にとって、当然プラスの面もあるし、マイナスの面もある。世界最強の国家であるアメリカは、移民によって成立した国家である。また、ヨーロッパの戦後の繁栄も移民によってもたらされた面が強い。しかし、移民を大量に受け入れた国が、社会的混乱に陥って苦労している面も否定できないのである。また、安い労働力として移民を受け入れ、単純労働や3K労働に従事させている場合、技術革新を遅らせて結果的に経済的な停滞をもたらす事例もみられる。
そういう意味では、どのような分野にどのような人材としての移民を受け入れるのか、そして受け入れ後の言語習得や、子どもの教育をどのように、社会に調和できるように援助するのかという点が、綿密に検討され、受け入れる体制を整えないかぎり、移民受け入れがマイナスの影響を強く及ぼすことは、いくらでも事例があるわけである。
日本においても、地域に多く住む外国人と住民の間にトラブルが生じているところもある。そうしたことに、感覚的に反発が生じることはある程度必然的でもあるだろう。そういうときに、移民反対の政策を打ち出すひとたちに「極右」というレッテルを貼るメディアは、逆に、素朴に疑問をもっているひとたちを、「極右」支持者にしてしまっているのではないかと思うのである。(ただ高市氏は極右に近いと思うが。)
第三に、高市氏への疑問である。高市氏は、選択的夫婦別姓に反対であり、また、女系天皇への反対を明確にしている。しかし、高市氏は、実際的には、通称ではあるとしても、夫婦別姓の形をとっているのではないか。そして、女系天皇への反対として、これまでの伝統を守るという理由をあげている。それなら、なぜ女性として、政治的立場の最高の地位である内閣総理大臣になろうとするのか、そして、それを正当化するのだろうか。
内閣総理大臣ならずとも、日本の政治史上で、女性が最高権力者になったことは、一例もない。女性天皇はいたが、実質的な権力者は別にいた。それは多くの天皇がそうだったことと同様である。また、古代において太政大臣や武家社会になって、将軍になった人は一人もいない。戦国時代の戦国大名もすべて男性である。
つまり、日本の最高権力者は常に男性であったのだ。なぜ、それを高市氏は、伝統を無視して、自分がなろうとするのか。おそらく、高市氏は、女性がなることは、社会にとって必要な変化を実現することだというに違いない。それならば、天皇という地位だって同じではないか。およそ民主的な社会ではなかった時代において、天皇が男性中心であったとしても、いまは民主主義社会である。そうした社会の変化にともない、当然民主的なあり方に、天皇も変化する必要がある。それでこそ、「国民の創意」としての天皇だろう。それがまた、高市氏自身の論にあうことなのではないか。