高校の授業料無償化を考える(4)

 しばらく間があいてしまったが、今回はこのテーマによる最終回である。
 私立学校と公立学校の関係が、これまでの、そして多くの国でそうであるように、公立学校は国家の設置する学校で、万人用の教育を行い、私立は公立学校とは異なる教育を行うための、特別の学校であって、公立は国家によって費用が賄われ、私立は利用者が負担するというシステムである。現在の日本に限らず私立学校に公費補助がなされる国も少なくないが、しかし、まったく平等というのはオランダに限られる。
 では、どういう関係が好ましいのか。
 まず基本的に考えておく必要があるのは、社会が発展すればするほど、人びとの求めるものも、社会が求めるものも多様になっていくということである。昔は、社会的生産を担うひとたちが圧倒的であり、管理や芸を担うひとは極めて限られていた。生産はそれほど複雑ではなく、つくられるものも少ない種類に留まっていたろう。そうした生産の場では学校などは必要なかった。しかし、社会が進歩するにしたがって、生産も複雑になり、製品も多様になり、したがって、そのための技術も多様になってくる。生産を行うにも基礎学力が必要となってくる。生産に直接携わらない人びとも増える。芸術やスポーツで生活するひともでてくるし、さまざまなサービス産業が発展する。そうした多様化は、必然的に教育システムの拡大と多様化を求めるわけである。だから、社会の発展にふさわしい学校システムは、これまでの日本のような、国家が学習内容を画一的に定めるようなものではなく、もっと多様な社会のニーズ、そしてそれに応じたいとする個人の要望に対応するシステムや学校の種類が必要となってくるのである。それは私立学校だけではなく、公立の学校もそうでなければならない。義務教育学校は、どの学校も水準を確保した教育を行っているので、通学する学校を指定することが当然である、というようなシステムは、社会の進歩に追い付かない。実際に日本の学校教育は時代におくれそうになっているのではないだろうか。
 学校を運営し、教育する立場は、教える内容について自ら設定する権限をもち、それを公表して、生徒を募集する、そして、教育をうける側は、教育内容や方針を検討して、通学する学校を選択する。それは、公立と私立で違いはない。もちろん、受け入れ側には、差別的扱いは禁止される必要があるし、応募が定員を大きく超過したのみ、予め公表された規準で受け入れる者を決めることができることは必要であろう。ただ、もっとも公平なのは、先着順であると私は考えているが、それは他の考えがあってもよい。このように考えれば、公立と私立の財政基盤は平等にすることが当然のことになることと、公立の設置や運営も、教育委員会のようなところが設立するのではなく、公的機関が、学校成立の意志をもったひとたちと契約して、設置・運営を委ねてまかせるというような方式となるだろう。
 そして、このようなやり方が、発展した社会の多様な要求に応じるベストのあり方であるし、また、学齢児童全体を収容するだけの公立学校を設置しなければならないなどということではなく、公立・私立全体で満たせばよいので、財政的にも効率的なのである。
 そのようななかで、新しい教育手法などが生みだされ、生徒の要求に適合した教育を行いやすくなっていくのではないだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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