小説をドラマ化するときに、まったく原作の内容を変更せずに制作することは、通常は難しい。原作のイメージ通りの俳優を見いだすことすら、そう簡単ではないに違いない。まして、シャーロック・ホームズ物語のように、すべてワトソン博士が、自身見聞したことを記述した形式になっている場合、話の筋を変えずにドラマ化すれば、当然順序などを変更しなければならない。また、原作では省略されている細かな点、例えば大道具小道具などについても、創造する必要がある。
そうした点は除いても、ドラマ制作者の意図によって、原作の内容そのものに変更が加えられることは、普通にみられるといえるだろう。そして、そのことによって、原作の不備を補ったり、あるいは、新たな矛盾を作り出したりすることがある。
続いて制作されたと思われる「ギリシャ語通訳」は、付加した内容が、むしろ不自然さを生んでいるのに対して、「ノーウッドの建築家」は原作の欠点を見事に補う結果になっている。その対照的な面が面白かった。
「ギリシャ語通訳」は、イギリスに住むギリシャ人女性と結婚にこぎつけたイギリス人の男性(犯罪者の一味)が、女性の財産を管理している兄を、ギリシャからおびき寄せ、監禁して、財産の管理権を譲る書類に署名させようとするが応じない。そこで、ギリシャ語しかできない兄を説得するために、通訳を雇う。通訳は、おかしな状況に気付いたために、シャーロック・ホームズの兄マイクロフトに相談し、シャーロック・ホームズが関わることになる。しかし、通訳は、口止めされていたにもかかわらず、相談をしたために、再度通訳を兼ねて拉致され、兄は殺害され、通訳も重傷を負う。居所を突き止めたホームズ兄弟とワトソン、警官が乗り込むが、一味は逃げたあとだった。
結局、一味と妹の行方は知られないままになるが、ハンガリーで一人の女性と二人のイギリス人が悲惨な最期をとげたというニュースで終わる。
この原作には、いくつかの筋の上での疑問点がある。そのひとつは、マイクロフトがギリシャ人女性の情報提供を、新聞に呼びかけることだ。通訳は口外しないように言われているのだから、広告は危険なはずだ。事実、その広告によって、通訳が口外したことを一味が察知して、拉致することになる。しかし、その広告の反応で、一味の住処がわかるのだから、展開上そうせざるをえなかったことになる。シャーロックなら、もっとうまい方法を考えたかも知れない。推理は見事だが、行動力がない兄の軽率な行為ということになるのだろうか。原作では、広告の反応で、告げられた場所に乗り込むわけだが、ドラマでは、反応が省略されており、何故、一味の場所がわかったのか、あいまいにされている。
そこは、放映時間の制限で省略したとも考えられるが、それにしては、結末が大幅に付加されており、重要な変更がなされている。それは明らかに失敗といえるものだ。
警察で家宅捜査の令状をとるのに、かなりの時間をくった上で駆けつけるの他が、(これは原作にある)ドラマでは、ギリシャ人の死体と瀕死の通訳を発見したあと、一味が逃げたが、乗ったであろう列車に途中の駅で乗り込むことができるというので、急ぎ駅に駆けつけ、無事列車内で逮捕、そして、次の駅で警察に逮捕させるということになっている。しかし、どう考えても、おそらく2,3時間前に出て、急いで逃げる一味を、あとから同じ列車に乗ることができるなどは、到底不可能だろう。一味が、わざわざかなり遠くの駅までいって、引き返すようなルートをとっていることになる。
シャーロック・ホームズのこのドラマは、ほぼ確実に「結末」を用意している。原作にない場合でも。だから、逃げられて万事休すという終わり方は、どうしても避けたかったのだろうが、原作者も、追求は無理だとシャーロック・ホームズに思わせたのは、やはり、不可能だったからだろう。
しかし、ドラマとしての次作である「ノーウッドの建築家」は、原作の欠点を補っていて、納得できる筋になっている。
ある建築家が、若いころ婚約したのに解消されてしまった相手に復讐するため、弁護士となっている息子に、遺産を全額与えるという遺言書を作成させる。その作成のために自宅に呼び、弁護士が帰ったあと、自宅内の材木置き場に火をつけ、そこで焼け死んだように偽装する。弁護士が直ちに指名手配され、直前にシャーロック・ホームズに説明と依頼に来るが、逮捕され、有罪の嫌疑が濃くなる。しかし、事件のあとに、遺言書作成の際に弁護士が押した拇印を利用して、コート掛けのところに指紋を偽装したことを、ホームズが見破って、建築家が屋敷内に隠れていることを見抜き、火事を装って誘い出すことで、事件が解決するという筋である。
原作の最大の問題は、弁護士が殺人罪の疑いをかけられるということは、「灰の中から黒こげになった遺体らしきもの」が、建築家でなければならない。しかし、そこはまったくあいまいにされており、結末で、ホームズが、ウサギか犬を投げ込んだだろう、などといっている。いくら焼死体であっても、人間のものか、動物のものかの区別は明瞭なはずだ。いくら19世紀末とはいえ、人間の死体ではないものを人間と認定してしまい、しかも、それが行方のわからない建築家であると断定などするだろうか。不思議なことに、ホームズまで、そこは問題にしていないのである。
ドラマは、原作にはまったくない新しい挿話を入れて、この問題を見事に解決している。つまり、物乞いに訪れたホームレスに、建築家の家政婦(実は共犯)が、普段は絶対にしない施しをして、なお建築家の服まで与える。そして、翌日もう一度くれば、もっとたくさんの施しをするといって、おびき寄せ、殺害した上で、火事を使って焼いてしまう。建築家の服をきているし、顔の判別などできない状態なので、これが建築家で、弁護士に殺害されたのだろう、と判断されたということに変更している。そして、ホームズは、ホームレスの仲間から話を聞き出して、その可能性を掴んでいたというわけだ。これなら、無理がない展開だし、原作のあいまいさか払拭されている。
ただ、30年も前に、婚約解消された恨みを、相手の息子を死罪にするような罠をしかける人がいるものだろうか、という素朴な疑問も残るのだが。