チェリビダッケはレコード嫌いだったのか 井阪氏の見方

 前にチェリビダッケについての文章を書いたが、(チェリビダッケのリハーサル1~3 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1386 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1396 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1402)井阪紘氏の『巨匠たちの録音現場 -カラヤン、グールドとレコード・プロデューサー』(春秋社)を読んで、意外な評価だったので、再度考えてみた。
 本の題名には、2人の固有名詞が書かれているが、実はチェリビダッケも扱われている。録音芸術の巨匠だったカラヤンを別格として大きく扱い、更に、録音を完全に拒否したチェリビダッケと、生演奏を拒否して、録音だけの活動に入り込んだグールドを対照的な演奏家として、分析しているわけだ。そして、付録のような形で、有名な録音プロデューサーだったジョン・カルショーを加えている。著者は、録音プロディーサーということなので、実際に経験した彼等の録音活動を扱っているのかと思ったが、扱われている事実は、ほとんどが文献によるもので、それらの読み方に、実際の録音プロデューサーとしての分析を加えた形になっている。したがって、新しい事実を教えられたということは、ほとんどなかった。

 そのなかで、もっともユニークな見方をしているのが、チェリビダッケに関してであり、世間の印象と全く異なるチェリビダッケ論を展開している。どちらが正しいのかは、まったくわからないし、個人の解釈の問題だが、刺激的な問題提起だ。
 チェリビダッケの定説は、とにかく、レコーディングを拒んだ指揮者ということだ。しかし、井坂氏は、100%異論を唱える。チェリビダッケこそ、レコーディングに最も適した指揮者だったというのだ。それは、実際に、チェリビダッケのリハーサルを聴く機会があって、極限まで透明に整えられたオーケストラの響きに感嘆したという。そして、その透明な音こそ、録音に最も適しているというのだ。そして、チェリビダッケはまったくレコーディングをしていないかというと、実際には、初期に何枚か録音して、発売もされているという。
 プロコフィエフ 古典交響曲
 メンデルスゾーン バイリオン協奏曲
 チャイコフスキー イタリア綺想曲・くるみ割り人形
 ブラームス バイオリン協奏曲
等が録音されたというのだ。そして、この録音は、一時期に集中したものではなく、ある程度時間経過があるから、最初のレコーディングで、その音に失望して、以後やめたというわけではないと井坂氏は解釈している。では、なぜ後年、明らかにレコーディング拒否した指揮者になったのか。チェリビダッケの不幸は、指揮者人生を、世界最高のオーケストラの常任指揮者として出発したことだという。そして、終生、ベルリンフィルに戻りたいと思っていたのは、ずっと西ベルリンのパスポートを使い続けたいたことでわかるというのだ。そして、少なくとも、ベルリンフィルを振っていた、若いときに、別のオーケストラで、レコーディングをしていたにもかかわらず、なぜ、その後しなくなったのか。それは、その後オファーがこなかったからだというのが、井坂氏の解釈である。ベルリンフィルの指揮者だから、レコード会社は、他のオケで録音させたが、さすがにフルトヴェングラーのオケでの正規録音を計画することはなかった。しかし、ベルナンフィルとの別れ方が、けんか別れだったことが、その後しばらくは影響しただろう。
 若い時期については、その通りかも知れない。戦後の、フルトヴェングラーが指揮できない時期に、ベルリン・フィルを支え、再生させた功労者であったにもかかわらず、厳格な指導による団員とのトラブルで、自らベルリンと別れたしまったわけだから、その後、特定のオーケストラをもたない時期が続いたチェリビダッケに、レコード会社からのオファーがなかったのは事実だろう。ベルリンから離れたチェリビダッケは、しばらくは南米を中心にしていたし、その後は、スウェーデンやドイツ、イタリアの地方都市のオケを振っていたから、当時のレコード会社の状況から、オファーがなかったことは、十分に想像できる。しかし、やがて、いくつかの放送局のオーケストラの指揮者となり、当然ラジオやテレビの放送録音は、許可するようになり、現在では、その録音がCDやDVDとなって市販されているわけだ。晩年は、多くの人が認める巨匠となっていたのだから、レコード会社が録音のオファーを多数していたことは、間違いないはずである。おそらく、頑なに拒否していたのだろう。
 レコーディングはしないのに、なぜ放送は許可するのか、とチェリビダッケへの質問に対して、それを許可しなければ、この地位を保障されず、生活できないというような答えを、井坂氏は紹介している。つまり、放送もしぶしぶだったという。しかし、現在の音源の市販に際しては、遺族の了解が得られている。カルロス・クライバーは、遺族に対して、厳しく、未発売の音源の市販化を絶対許さないようにという遺言を残したので、いまだに、渇望されている音源が発売されていない。チェリビダッケも、そうすることは可能だった。だから、井坂氏は、本心は、チェリビダッケも自分の録音を残したいと思っていたのではないか、と考えているようだ。
 録音の話になると、チェリビダッケはフルトヴェングラーを引き合いにだし、フルトヴェングラーもレコーディングは嫌いだったが、カラヤンがレコード界で活躍していたので、仕方なく録音していたのだ、というような話を紹介している。しかし、フルトヴェングラーは実際には録音に積極的だった。最晩年でも、ウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲全集に取り組んでいたし、ワーグナーのニーベルンクの指輪の全曲録音に着手していた。死によって中断してしまったが、熱心だったことは間違いない。そこで、もうひとつ、井坂氏は、結局、あまりに明敏な耳をもち、確固とした音楽イメージをもっていたチェリビダッケは、録音プロデューサーが介在して、自分の演奏に注文をつけたり、編集したりすることに耐えられなかったために、レコーディングを拒否したのだと解釈している。これは、録音プロデューサーである井坂氏は、演奏家の演奏に対して、レコードという商品を作成する立場から、遠慮なく注文をつける必要があるという信念をもっており、そういう側面から、カラヤンやグールドを評価している。例えば、カラヤンがまだ若く、レッグと共同してレコーディングしていたころは、優れた成果をあげていたが、独裁者になって、自由に振る舞うようになると、レコードの質が低下したと評価していることに、如実に表れている。つまり、若いころはレッグの忠告を素直に受け入れて、取り直しを厭わなかったが、晩年は、他人の意見を受け入れなくなってたので、レコードの質は落ちているというのだ。だから、逆に、独立心が強く、自分の思い通りにやりたい演奏家ほど、プロデューサーの介在を嫌うという見方をしていて、チェリビダッケはその典型だということだろう。放送録音は、ライブ演奏の一発録りで、演奏したあと、修正のための演奏しなおしなどはない。つまり、録音プロデューサーは、録音室でライブ録りをしているだけで、事後的な介入をしない。だから、チェリビダッケにとっても耐えられたし、無視することもできた。
 そう考えていくと、カラヤンは帝王になると、レコーディングでも、多少の傷は気にせず、修正のための部分録りを嫌うようになったが、そういうカラヤンとチェリビダッケは、案外似た意識をもっていたということになる。とするならば、カラヤンは、なぜ、もっと本物のライブ演奏をこそ、市販の対象にしなかったのか。そのほうが、ずっとカラヤンに対する評価も高くなったはずであるし、レコードの価値もあがったに違いないのに。ライブ演奏とレコーディングはまったく別物だという考えに、終生捉えられていたのだろうが、残念なことだ。現在のベルリン・フィルのライブ放映の時代であれば、もっとすばらしいカラヤンの演奏が存分に聴けたはずである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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