長山靖生『人はなぜ歴史を偽造するのか』(新潮社)1998 を読んだ。面白かったと同時にいろいろと考えさせられた。
内容は、主に、意図的に偽造された歴史書に関する文章と、南北朝正閏論に関する文章とからなっている。前者は、そんなことがあったのかという、面白い偽造歴史書のことをはじめて知ることが多かったが、内容的には、南北朝正閏論のほうが断然面白く、また考えねばならないことが提起されている。
南北朝正閏論とは、明治の終わりころに議論され、第二次大戦が終わるまで、日本の歴史教育を呪縛した論である。歴史的には、鎌倉時代の末期に、朝廷のなかで、天皇の後継者をめぐる争いが嵩じ、鎌倉幕府の調停で二系統が交互に天皇をだすという妥協が成立した。そのうちの大覚寺系統であった後醍醐天皇が、約束を守って天皇位を譲るということを拒否し、更に鎌倉幕府に反逆して、建武の新政をするという歴史となる。足利尊氏が幕府を滅ぼしたあと、当初は協力していた後醍醐天皇と尊氏は対立し、尊氏は順番となる持明院系統から天皇を擁立する。その後数十年間、このふたつの勢力が争い、足利幕府側を北朝、後醍醐天皇系統を南朝と称していた。三代将軍義満のときに北朝に統一され、現在に至るわけであるが、明治の末に、現在、歴史教育で教えられている以上の南北朝時代と、基本的には同じ事実が教えられていた国定教科書にクレームを付けたわけである。南朝こそが正統であるとして、歴史の書き変えを迫り、大きな論争になるが、結局、楠木正成等の「忠臣」を偶像視する人々によって、南北朝並立だったという歴史的事実を主張するものは、追われてしまうことになったわけである。そして、以後、歴史教育では、北朝だった5人の天皇は歴史から抹殺され、足利尊氏は逆賊とされた。 “読書ノート 人はなぜ歴史を偽造するのか” の続きを読む
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ポピュリズム考察 ゲッベルスと私2
前回、ユダヤ人に偏見はなかったし、むしろ好感をもっていながら、ユダヤ人がおそろしい目にあっていることについては、漠然と知りながら、それ以上のことには無関心であったポムゼルのユダヤ人観を紹介した。
今回は、より一般的なナチスのやり方に関する、「いいわけ」の感覚を考えてみる。
ナチス党員であること
ポムゼルは、ナチスの党員であった。だから、国営放送局に就職できたし、また宣伝省という重要な官庁での秘書になることができた。しかし、だから直ちに筋金入りの党員であるという解釈は慎まなければならない。1936年のニュルンベルク法成立後、公務員になるためには、党員であることが必要になっていた。既に公務員であった人が、党員にならねば解雇されるということはなかったが、新しくポストをえるためには不可欠だったのである。よく音楽の世界で話題になる、カラヤンがナチスの党員であったことも、この関連で考える必要がある。フルトヴェングラーやベームなどは、生涯、党員になったわけではないが、既に36年時点で重要なオーケストラや歌劇場のポストに就いていた。カラヤンは、ウルムの指揮者だったが、トラブルがあって解雇され、しばらくの間失業状態だったのである。ドイツのオーケストラや歌劇場などでは、常任の指揮者も含めて、すべて公務員だったから、カラヤンがポストを得るためには党員になる必要があったのである。当時のカラヤンの夫人はユダヤ人だったので、彼がナチス的な反ユダヤ思想の持ち主でなかったことは間違いない。この点は、ユダヤ人の恋人がいて、その子どもを妊娠していたポムゼルと似た立場であったろう。
そもそもナチ党員であるとは、何を意味したのだろうか。もちろん、政権をとる以前のナチ党員は、自覚的な活動家だったのだろう。おそらく下部組織に所属して、それぞれが任務をもっていたのだと想像される。しかし、1936年のニュルンベルク法以後、公務員になるために、それだけの目的で入党した人たちが、以前のように下部組織に所属して活動していたのだろうか。少なくとも、ポムゼルの回想録ではそうした姿は感じられない。インタビューといっても、質問者がいたのだから、その点の確認はしたはずであるが、まったく触れられていないのである。
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ポピュリズム考察 ゲッベルスと私1
21世紀の政治は、ポピュリズムを抜きにして考えられないが、ポピュリズムに関する評価は、かなり分かれている。ポピュリズムは、危険な潮流で、克服すべき対象とみる者と、他方で、ポピュリズムは民主主義から生まれてくるもので、決して全面的に否定すべきものではないとする立場もある。いくつかの著作を読みながら、政治だけではなく、当然教育の分野でポピュリズムはどのような現れ方をしているのか、それをどう考えるのかを、少しずつ積み上げていこうと思っている。
第一回として、ブルンヒルデ・ポムゼルが語った内容を編集し、トレー・ハンセンが解説を書いている『ゲッベルスと私』紀伊國屋書店1918.6を素材にしたい。
この本は、ゲッベルスの秘書を、ドイツ敗北の日まで勤め、ソ連軍に捕まって、収容所に5年間交流されていた人物への長いインタビューを整理したものである。収録は2013年と2014年に行われ、ドキュメンタリー映画として公開され、DVDも発売されている。(まだ見ていない。)ドキュメンタリー映画のためのインタビューであるが、それは、明確に欧米におけるポピュリズムの興隆に対する危機感から制作されたようである。ハンセンの解説文は、ポピュリズムに対する批判で埋めつくされていることでわかる。したがって、第一回目の題材として選ぶにふさわしい書物だと思われる。
歴史上最大のポピュリズム政治家は、ヒトラーである。現在、ポピュリズムに批判的な人たちが念頭においているポピュリズムの姿の原型が、ヒトラーの人とその政策、そして帰結によって形成されていることは疑いない。ポムゼルは、ヒトラーではなく、ゲッベルスの秘書であったので、ヒトラーその人はまったく登場しない。更にゲッベルスもごくわずかしか登場せず、しかも、ポムゼル自身は、ゲッベルス自身をかなり否定的に表現しており、少なくとも共感を示していない。にもかかわらず、この彼女の告白が、当時のナチスの中枢的指導者の間近にいた人物の、「問題意識の意図的欠落」とでもいうべき特質を、明瞭に示している。ナチスの活動が可能になった状況を作り出した、最大多数の人々の意識や行動は、このようなものだったのだ、ということが、実感としてわかるのである。
読書ノート 妻を帽子と間違えた男2
優れた声楽家のpが、見え方が変になって、眼科医で診察をうけたところ目に異常はないと診断され、「脳の視覚系に異常があるようだから」というので、オリバー・サックスのところにやってきた。人間性も豊かなpに、特におかしな点を感じなかったが、違和感をもったのは、相手を見る目が普通ではなく、顔をみても顔を把握していない感じで、むしろ聞き耳をたてているようだった。そこで、通常の検査をいくつかする。靴を脱がせて腱反射のチェックをしたあと、靴を履くようにようにいっても履かない。足と靴の区別がつかなくなっていて、どうしたらいいかわからないのである。自分の足をみて、「これ私の靴ですよね。」といったりする。サックスには初めての経験だったそうだ。写真などを見せていると、写真を全体として見るのではなく、細部のみ見ている。そして、帰るときに、帽子を探しているような仕種で、妻の頭を持って、かぶろうという動作をする。ここが、「妻を帽子と間違えた男」の題名になっている場面である。
まず、最初に起きた奇妙なことを確認しておこう。
pは優れた音楽家として認められていて、音楽学校の教師をしている。そこで、
・生徒が前にいても気付かない。
・顔を見ても誰かがわからないが、声を聞くとわかる。
・相手がいないのに、いるかの如くふるまう。
・町で消火栓などを、まるで子どもの頭のようにポンとたたく。
・家具のノブの彫り物に向かって話しかける。
みなさんはどう思うだろうか。
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読書ノート 『妻を帽子と間違えた男』1
作者のオリバー・サックスは残念なことに亡くなってしまったが、その著作は、どれも本当に興味深い。映画の『レナードの朝』の原作者としても有名だが、手話に関する著作も非常に驚いた。これもそのうちに取り上げたい。ただ、なんといっても、サックスの著作の中では、『妻を帽子と間違えた男』が有名であり、かつ面白い。著者は、脳神経医であるから、脳の異常によって生じる様々な症例を紹介しているのだが、おそらく一般の人が日常的に接するようなことはほとんどないと思われる。だから興味本位に読むことも可能であるが、実は、よく考えてみると、正常と異常の境界線は、ほとんどの場合あいまいだろう。多くの人が経験する視力の低下は、第一部で扱われている「喪失」の一種だと思われるが、ある時突然「近視」になるわけではない。視力検査などは、一年に一度程度しかやらないから、そういうときに、数値で示されると、ある時視力が低下したと認識するが、しかし、それはまったく気付かないほどの程度で進行していたのである。視力は低下しても、眼鏡やコンタクトレンズなどの補強ツールがあるから、特別に問題とならないが、人間が脳を使って行う膨大な作業の多くは、補強ツールなどない。だから、元々なかったり、あるいは徐々に「喪失」が進行していても、なかなか気付くことがなく、その程度が激しくなったときに異常を感じ、医者に行くことになる。
林壮一 『アメリカ下層教育現場』 光文社を読む
著者はボクシングを中心とするライターであるが、たまたま最底辺層の高校生のためのチャータースクールに、非常勤講師として日本文化を教える経験をする。本書はその体験記と、その後かかわったボランティアの経験から、アメリカの下層の教育現場を考察した書物である。