優れた声楽家のpが、見え方が変になって、眼科医で診察をうけたところ目に異常はないと診断され、「脳の視覚系に異常があるようだから」というので、オリバー・サックスのところにやってきた。人間性も豊かなpに、特におかしな点を感じなかったが、違和感をもったのは、相手を見る目が普通ではなく、顔をみても顔を把握していない感じで、むしろ聞き耳をたてているようだった。そこで、通常の検査をいくつかする。靴を脱がせて腱反射のチェックをしたあと、靴を履くようにようにいっても履かない。足と靴の区別がつかなくなっていて、どうしたらいいかわからないのである。自分の足をみて、「これ私の靴ですよね。」といったりする。サックスには初めての経験だったそうだ。写真などを見せていると、写真を全体として見るのではなく、細部のみ見ている。そして、帰るときに、帽子を探しているような仕種で、妻の頭を持って、かぶろうという動作をする。ここが、「妻を帽子と間違えた男」の題名になっている場面である。
まず、最初に起きた奇妙なことを確認しておこう。
pは優れた音楽家として認められていて、音楽学校の教師をしている。そこで、
・生徒が前にいても気付かない。
・顔を見ても誰かがわからないが、声を聞くとわかる。
・相手がいないのに、いるかの如くふるまう。
・町で消火栓などを、まるで子どもの頭のようにポンとたたく。
・家具のノブの彫り物に向かって話しかける。
みなさんはどう思うだろうか。
個別に見れば、日常生活ではありうる現象ともいえる。
生徒がいても気付かないのは、他の考えごとをしていたからかもしれないし、顔をみてもわからないが、声をきいたらわかったのは、ど忘れをしていたが、声が思い出すきっけかけになった。名前が出てこないのは、日常的なことだろう。それとも、やはり、視覚情報の記憶があいまいで、聴覚情報の記憶が確かなために、声でわかったのだろうか。
3番目になると、単に独り言をいっているのか、あるいは、実際にいると思い込んで話しかけているのか。本人に尋ねれば、確認はできるだろうが、もし、誰もいないのに、いると思い込んで話しているとしたら、かなり深刻な病状であるようには思われる。最後のふたつも同様だろう。
このようなことが、希にではなく、けっこう頻繁に起こっていたようだが、pはユーモアのセンスがあって、逆説やふざけがわかるような人間だったし、音楽的才能はすばらしかったので、「深刻な問題の前兆」と考えられなかったというのである。
おかしいと思って診察にいったのは、3年後で、糖尿病になったから。眼科にいったら、眼に異常はないということで、脳神経の専門医であるサックスを紹介されたのである。
サックスのpに対する当初の印象は、精神異常は認められず、教養のある魅力的な人物であることと、しかし、「見る」行為に不自然さを感じたこと。面と向かって話しているのに、コミュニケーションしているという感じがなく、pはサックスの顔の「部分」をみているというのである。顔全体を見るのではなく、部分のみを注視している。これは、サックスの印象に過ぎないが、どういうことだろうか。
私たちは、pのような人物と出会うことはまずないが、似たような経験をすることはあるだろうか。あるとすれば、話をしているが、相手は、まったく別のことを考えていて、会話に関しては上の空というのと似ているのだろうか。しかし、上の空の相手は、相手である私の目とか、口とか、鼻などの部分を次々と移りながらじっと見るようなことはしないのではないか。
このあとサックスは、検査をして、靴を履く場面と、妻を帽子と間違える場面に接するわけである。上に書かなかったが、見渡す限りの砂漠の写真を見せて、何が見えるかを聞くと、「川、テラスのあるゲストハウス、人々が食事をしている。いろいろな色のパラソル」とpが答える。このときは、写真を見ていないとサックスは書いている。
サックスには、『見えてしまう人 幻覚の脳科学』という本があり、人が「見えている」と感じるのは、目の働きではなく、脳の働きだから、脳の何らかの異常で、人は目の前にない物を様々な形で「見る」ことがある。そうした症状を紹介し分析した本だが、ここで、一面砂漠である写真をみて、「川、ゲストハウス、食事をしている人々、色とりどりのパラソルが見える」などと言われたら、むしろ恐怖感こそ感じるのではないだろうか。この時写真をみて言ったのではない、と書かれているので、pが川やゲストハウスをみたような気になって言ったのか、あるいは、何か見える必要があるので、でまかせに言ったのかはわからないが、診断にきた医者に対して、後者のような態度をとる人は、稀だろう。しかし、それもユーモアだったのだろうか。
そして、サックス自身が、「私は、従来の神経学(あるいは神経心理学)からみてこれをどう説明したらよいのか、まったくわからなかった。」と書いている。
サックスはどう解釈したらよいのかわからなかったので、普段の生活もみるために、pの自宅を訪問する。
優れた声楽家であり、音大で声楽を教えているので、サックスがピアノ伴奏をして、シューマンの「詩人の恋」を歌ってもらうと、優れた才能をサックスは確認する。それから、正多面体、トランプのカードなどをみせると、正確にみたものをいえる。似顔絵もわかる。
そこで、声なしに、テレビのドラマをみせると、ラブシーンだったが、そこで何が起きているのか、まったくわからない。同僚や生徒の写真をみせるけれども、それを判断できない。しかし、顔に明確な特徴があると(例えば口髭)わかることがある。その後途中で買ってきたバラの花をわたして、なんですかと質問したやり取りである。
「約3センチありますね。ぐるぐると丸く巻いている赤いもので、緑の線状のようなものがついている。」
「その通り」「で、何だと思いますか?」
「なかなか難しいな。さっきの多面体のような単純な対称性はありませんね。もっとも、別の意味でもっと高度の対称性があるかもしれないけれど・・・これは花といってもよさそうですね。」
「その可能性はありますか?」
「ありえますね」
そこでサックスは臭いをかぐようにいうと、「なんときれいな!早咲きのバラだ。なんとすばらしい匂い。」といって、歌を歌いだす。
次にサックスは、手袋を示して、何かを聞く。しばらく子細に点検したあと、pはいう。
「表面は切れ目なく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋といっていいか自信はないけれど」
「その通り。では何ですか?」
「なにかをいれるものですね」
「そうです、なにをいれるのでしょう。」
「いろいろ可能性があるなあ。小銭なんかどうでしょう。・・・・」
この部分が、私には、何度読んでも理解不能だった。「袋のようなもの」であることがわかるのに、なぜ「手袋」がわからないのか。
「表面は切れ目なく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋といっていいか自信はないけれど」とpがいうところである。
しかし、これは、原文を読むと、すぐにわかる。
‘A continuous surface,’ he announced at last, ‘infolded on itself. It appears to have’ – he hesitated – ‘five outpouchings, if this is the word.’
「手袋」と訳されている原語は、gloveであって、「袋」と訳されている原語は、outpouchingである。ところが、この語は、私がもっているどの英和辞典にも載っていない。日本ででている代表的な英和辞典をほぼ網羅しているカシオの電子辞書のプロフェッショナル版の一括検索にでてこない。ただ、インターネットで検索すると、わずかに出てくるが、要するに、「嚢状の突起」をさすらしい。「嚢状の突起」を連想しているから、それは手袋とは、連想できないわけである。
そして、ここでもうひとつ重要なのは、日本で出ている英和辞典にまったく出てこないような単語を、pが使っているという事実である。pは語彙はほぼ完全に記憶として保存されているし、忘れっぽくなっているわけでもないようなのだ。つまり、pは言語的な脳の領域は、少なくとも語彙と発音のレベルでは全く異常がない。残念なことに、文字に関する認識について、サックスは全く触れていないから、文字を認識できているのかはわからない。ただ、「楽譜がもう読めない」とpが言う場面があるのだが、文字については触れていない。
私がこの文章を初めて読んだときに感じたのは、「意味とは何か」「pは意味論的世界が崩壊しつつあるのではないか」ということだった。「意味」を辞書でひけば、いろいろな説明があるが、どうも同義反復の域をでない感じがする。「意味の意味」は説明が困難なわけだが、ここで、pが「意味」をうしないつつあるというのは、意味は極めて小さな単独のものではなく、単独のものが複数集まって、その構成が示すものを、認識できないということである。ある人の顔の写真をみて、それがだれであるかをわかるのは、目や耳や鼻の特徴をひとつひとつ認識しているのではなく、それらの細かい要素が、どのように構成されているか、その特徴、つまり意味を認識しているからであると思う。コンピューターが最も不得意とする領域であるとされてきたが、ついに、「コンピューターが猫を認識した」という大ニュースが流れた時点で、コンピューターにも可能となった「パターン認識」も、結局は、「意味」認識のひとつなのだと思う。人間の脳が、ある人の顔を認識するときに、現象的には一瞬のうちに認識するわけだが、ここの部分を瞬間的に認識したうえで、それを構成した顔という「意味」を認識するのか、まったく違う手順なのかはわからないが、少なくとも、pの「何かな?」と考えている様子を解釈すると、個々の要素を積み上げて、ある「意味」の認識に至るのかもしれないと思いたくなる。pはそれを構成することができないので、あれこれ模索している。それは、われわれが一瞬のうちにやってのける作業を、時間をかけてやっているのかもしれないと考えてみる。
興味深いのは、pが音楽家としての能力は、楽譜を読む以外は、完全に保持されていることである。他の感覚が相当深刻になっても、生涯音楽学校での教授活動続けることができたのだそうだ。それは、彼が音楽の専門家だから、音楽を扱う脳の領域は、堅固だったからなのか、あるいは、音楽はこうした「意味論」の世界とは違うからなのか。
私は、どうも後者のような気がする。
クラシック音楽のファン、特に管弦楽の好きな者の間には、「精神派」と「非精神派」という対立がある。「精神派」は、音楽には、単なる音以上の意味があり、演奏はその意味を深く掘り下げる感じが必要だとする音楽観をもっている。それに対して、「非精神派」は、音楽は音楽以上のものではなく、そこになにか「意味」を持ち込もうとするのは間違いだという立場である。「精神派」が奉るのがドイツの名指揮者フルトヴェングラーであり、「非精神派」ではカラヤンである。これは音楽に何も求めるかという意識の違いであるが、実際に、神経回路的に、音楽は、絵画の世界や文字で表現された哲学や歴史などの世界とは、まったく違う領域で処理されているように、私には思われる。だから、視覚的な情報がどのように構成されるか、というような脳の処理とは無関係なのである。車がたくさん走っていて、建物がたくさんあるという風景を、「都市だ」と判断するような意味論の世界は、音楽には、存在しないと思う。あくまで音という物理現象があるだけで、心の領域と結びついているとしたら、自分の経験の感情的な要素を喚起する程度だろう。
だからこそ、pは視覚的領域、そして視覚から意味を理解する領域で、かなりのダメージを受けた段階でも、音楽的能力が保持されたのではないだろうか。(つづく)