テレサ・ベルガンサが亡くなった

 スペインの名歌手テレサ・ベルガンサが亡くなった。既に引退して久しいと思うが、CDはいまだに売れ続けている。戦後の最も優れたメゾ・ソプラノ歌手の一人だと思う。
 私が自分のお金で最初に買ったオペラのレコードは、アバド指揮の「セビリアの理髪師」だった。これは、いまでもこの曲のベストだと思っているが、このとき初めてベルガンサを知った。そして、メゾがこのような華麗なコロラトゥーラの技巧をこなすことにびっくりした。
 戦前の最も優れたイタリアオペラの指揮者だったトスカニーニは、決してロッシーニを演奏しなかった。序曲はたくさん演奏したのだが、オペラは、上演不可能だと思っていたらしい。それは時代的に、ロッシーニの主役を歌える歌手がいなかったからだ。

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オペラのバージョン問題 タンホイザー・ドンジョバンニ・ドンカルロ

 オペラには複数のバージョンがある曲が少なくない。次回の私の所属市民オケのプログラムに「タンホイザー」序曲が入っているので、この問題をすこし考えてみたいと思った。
 タンホイザーには、ドレスデン版とパリ版のふたつがあることはよく知られている。パリ版といっても、フランス語で上演されることはあまりなく、パリ版として書き換えたのを、更にドイツ語化した(言葉のイントネーションのために、小さな変化は多数あるが)ウィーン版が現在ではパリ版として上演されている。最初に作曲したのが、ドレスデン版だが(当時ワーグナーはドレスデン宮廷歌劇場の指揮者だった)、後年、パリで上演されることになったときに、フランスではフランス語であること、それからバレエがはいることが条件になっていたということで、そのように書き換えたものだ。書き換えた部分は、ヴェーヌスが出ている場面だけで、他は同じである。そして、パリ版を作曲していた当時、既に「トリスタンとイゾルデ」を作曲したあとだったので、ワーグナーの音楽がかなり変化しており、書き換えた部分は、かなり妖艶で濃厚な音楽になっている。ドレスデン版の部分とかなり雰囲気が異なるので、不自然だという理由で、パリ版を嫌う人も多いが、私は、ヴェーヌスが出ている場面だから、ふさわしい音楽になっており、まったく違う世界を描いているので、それぞれにふさわしい音楽になっていると思う。パリ版のほうがずっと好きだ。

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夭折の作曲家ハンス・ロットとブラームスの偏狭さ

 私が所属する市民オーケストラが、秋にハンス・ロット作曲の交響曲一番を演奏することになった。実は、そのアナウンスがあるまで、ハンス・ロットという人をまったく知らなかった。団員の多くがそうだったし、現在でも知る人ぞ知る程度の知名度しかない人だ。
 だが、演奏するからには知らないといけないので、youtubeで聴いてみたし、昨日パート譜が配布されたので、一通り弾いてみた。wikipediaその他で調べてみると、興味深い人であることがわかった。
 有名でないのは、死後100年にわたって、まったく知られないまま経過し、1989年に、初めて演奏されたことでもわかる。そして、埋もれてしまった理由も明確だ。

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ユージン・オーマンディ2 批評家に無視された指揮者3

 オーマンディをいくつか聴いてみた。オーマンディでも、もちろん評論家に高く評価される分野はあった。協奏曲の伴奏は当然として、オーケストラの響きが華麗な曲だ。オーマンディが所属していた、アメリカ・コロンビアの重役は、「オーマンディにはビゼーのアルルの女なんかを録音させておけばいい」などと言っていたのだそうだが、確かに、アルルの女は名演奏で、歌いまわし、音の響きは、うっとりさせるものがある。
 今回選んだのは、ベートーヴェンだ。最近はあまりないようだが、以前は、音楽雑誌で、この曲は誰の演奏がいいか、という評論家や読者のアンケートが掲載されていたものだ。そういうなかで、ベートーヴェンやブラームスの推薦で、オーマンディの演奏があがることは、決してなかった。音楽はドイツ・オーストリアこそが本場で、ベートーヴェンやブラームスとなれば、さらにドイツやオーストリアのオーケストラと指揮者でなければならないという雰囲気があった。バーンスタインのニューヨーク時代とウィーンに活動の場を移して、ウィーンフィルを指揮した演奏の受け取り方を比較すればよくわかる。今でも、ウィーンフィルの演奏は、ベートーヴェン演奏のベストのひとつとしてあげる人は多いが、ニューヨーク・フィルの演奏の評価は高くない、というより、ほぼ無視されている。それでも、バーンスタインは、評論家によっても評価されていたし、来日すれば、ニューヨーク時代でも大きな話題になった。

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ユージン・オーマンディ 不当に低く評価された指揮者3

 ずっと書こうと思っていたが、ウクライナ情勢などもあり、書けなかった話題「評論家に不当に低く評価された指揮者」の3人目、というか、最も極端に実力と日本人評論家の評価に落差のあった指揮者といえるオーマンディを取り上げたい。オーマンディといえば、「フィラデルフィア管弦楽団の華麗なる響き」とか「協奏曲伴奏の名手」などといういい方をされていた。肝心の指揮者としての実力を、まっとうに評価する評論家は、非常に少なかったという印象は、多くのひとがもっていたに違いない。いまでもウェブを検索すると、オーマンディの人気がないのはなぜか、という話題がけっこうあるのだ。もちろん、そういう話題を振るひとは、オーマンディが好きなわけだし、偉大な指揮者だと思っているのだが。かくいう私もオーマンディは非常に偉大な指揮者だと思っているが、実は、それほどCDをもっていない。子どもの頃には、「ピーターと狼」のレコードがあって、これは、子どもながらすばらしいと思っていた。ピーターを表現する弦楽器の音がさわやかだし、小鳥のフルートが超人的にうまい。各場面の描き方が、目に浮かぶようで、いまだにオーマンディ以上の「ピーターと狼」は聴いたことがない。しかし、その後は、ほとんどオーマンディのレコードを買うことがなく、CDとしては、「オーマンディ・オーケストラ作品」というソニーのボックスをもっているくらいだ。最近でたモノラル録音のコンプリートは、さすがに買う気持ちにはなれず、とりあえず、このオケボックスを、もっと聴いてみるつもりだ。

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ネトレプコがウクライナ侵攻に反対 ゲルギエフは?

 世界でトップクラスのソプラノ歌手アンナ・ネトレプコが、ロシアのウクライナ侵攻を非難する声明を出した。ロシア出身で、プーチンと親しいとされていた彼女は、ウクライナ侵攻が始まったとき、反対するように求められながら、「平和を望んでいる」と述べつつも、ウクライナ侵攻そのものには反対意見を述べず、芸術家に政治的発言を強要するのは間違っていると主張。欧米での重要な出演をキャンセルされていた。しかし、態度を変えたようだ。「ネトレプコがロシアのウクライナ侵略に反対、プーチン大統領との関係を否定する声明」という記事がそれを紹介している。
・ウクライナの戦争を明確に非難し、犠牲者と家族に思いを馳せる。
・いかなる政党のメンバーでもなく、ロシアの指導者と手を結んでいない。
・過去の言動に後妻される可能性があったことを認め、反省している。
・プーチンとは授賞式などで会ったことがあるだけで、ロシア政府から金銭的支援を受けていない。
・オーストリアに居住し、納税者でもある。
 以上のような内容の記事である。

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ウクライナ情勢が音楽にも影響

 ウクライナへのロシアの侵攻は、強く非難されるべきものだが、それが音楽の分野にまで及んでいることについては、疑問と言わざるをえない。
 https://m-festival.biz/28702「ミラノ市長がスカラ座にゲルギエフの解任を要求、ロシアのウクライナ進行で」と題する記事によると、ゲルギエフが、ウクライナ侵攻を否定する声明をださない限り、スカラ座で予定されているチャイコフスキー「スペードの女王」の新演出上演の指揮を解任するように、要求したというわけだ。既に、ウィーン・フィルのニューヨーク・カーネギーホールでの公演は、ホールとオーケストラによって、既に降板が決められているという。
 これがゲルギエフだけのことなのか、ロシア人芸術家に対して広く行われる「拒否」なのかは、この記事だけではわからないが、率直にいって、こうしたやり方は疑問だ。思い出すのは、エルシステマで有名な、ドゥダメルとシモンボリバル・オーケストラが、毎年行っているベネズエラ大統領を招いての演奏会を、ボイコットするように、マドゥロー大統領を批判する政治勢力が要求し、激しいデモなどをしたことだ。当時の大統領はマドゥローで、チャベスの後継者だった。チャベス以降社会主義政策をとって、反米だったから、親米勢力が、反政府運動をしていたという背景がある。しかし、エルシステマは、1970年代後半から始まり、チャベス大統領の以前、つまり、親米で新自由主義的な政府が育て、それを更に発展させたのがチャベスだった。しかも、エルシステマは莫大な国家予算に支えられていたから、歴代大統領への感謝演奏会はずっと以前から行われており、マドゥローだからやったわけではない。にもかかわらず、親米勢力は、マドゥローは独裁者だからという理由で、ドゥダメルに対して、指揮を拒否せよと迫った。これは、いかにも不合理な要求であり、ドゥダメルは音楽を政治利用していると非難していた彼らのほうが、ずっと音楽を政治利用していたというべきなのだ。

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クライバーのカルメン

 久しぶりにクライバーのカルメンを聴いた。この間、ミシェル・プラッソンのカルメンを聴いて、けっこう不満なところがあったので、耳直しという感じでもあった。やはり、クライバーのカルメンは圧倒的に素晴らしい。HMVのレビューをみると、もう古いなどという批判もあるが、クラシック音楽に「古い」という言葉が批判的意味をもつとは思えない。そもそも、クラシック音楽のほとんどは、古い音楽なのだから、演奏だって古いことが欠点になることはない。それに、クライバーのカルメンの演奏が、最近ではあまりやられないような演奏様式をとっているならば、単なる客観的認識として、古い形での演奏という評価は成り立つかも知れないが、クライバーのカルメンは、現役指揮者によって、現在でも大いに参考にされている演奏だと思うのである。そして、明らかにクライバーの演奏を参考にしているな、と思われる場合でも、当然のことだろうが、クライバーにはまったく及ばないのである。
 では、クライバーのカルメンが、他を寄せつけない点はどういうところか。

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指揮者の晩年 ブロムシュテット

 最後まで現役で、幸福な指揮者生活を送った人として、絶対に欠かせないのがヘルベルト・ブロムシュテットだ。もっとも、まだ現役ばりばりだから、「最後まで」というのは、どうなるかわからないが、現在の活躍ぶりをみると、そのように予想できる。現在94歳だが、活発に指揮活動をしている。といっても、私はほとんど彼のCDはもっておらず、かなり以前に買ったドレスデンでのベートーヴェン全集と、レオノーレの全曲くらいだ。あまりフィデリオは好きではないということで、後者は聴いてもいない。ベートーヴェンの全集はすばらしい。しかし、以前からの評価でも顕著だが、多くの人は、このベートーヴェン全集をすばらしいと誉めるのだが、すばらしいのはオーケストラであって、指揮者をほめるのはまた少なかったような気がするし、私の感想もそうだった。

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デラ・カーザとシュワルツコップの主役交代劇

 昨日のフルトヴェングラー「ドンジョバンニ」に関する文章を書いているとき、ドンナ・エルヴィラが、シュワルツコップからデラ・カーザに交代した点について、それまで知らなかったので、大いに関心をもった。フルトヴェングラーは「ドンジョバンニ」をザルツブルグ音楽祭で、晩年3年に渡って上演しており、そのいずれもライブがCDで販売されている。最後が1954年であり、そのメンバーで映画が撮影された訳だが、どういうわけか、常にドンナ・エルヴィラを歌っていたシュワルツコップが、映画では起用されなかった。いろいろと調べてみたが、その理由がわからない。そこで、いろいろと想像してみたくなった。この文章は、あくまでも私の推測にすぎない。

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