オペラには複数のバージョンがある曲が少なくない。次回の私の所属市民オケのプログラムに「タンホイザー」序曲が入っているので、この問題をすこし考えてみたいと思った。
タンホイザーには、ドレスデン版とパリ版のふたつがあることはよく知られている。パリ版といっても、フランス語で上演されることはあまりなく、パリ版として書き換えたのを、更にドイツ語化した(言葉のイントネーションのために、小さな変化は多数あるが)ウィーン版が現在ではパリ版として上演されている。最初に作曲したのが、ドレスデン版だが(当時ワーグナーはドレスデン宮廷歌劇場の指揮者だった)、後年、パリで上演されることになったときに、フランスではフランス語であること、それからバレエがはいることが条件になっていたということで、そのように書き換えたものだ。書き換えた部分は、ヴェーヌスが出ている場面だけで、他は同じである。そして、パリ版を作曲していた当時、既に「トリスタンとイゾルデ」を作曲したあとだったので、ワーグナーの音楽がかなり変化しており、書き換えた部分は、かなり妖艶で濃厚な音楽になっている。ドレスデン版の部分とかなり雰囲気が異なるので、不自然だという理由で、パリ版を嫌う人も多いが、私は、ヴェーヌスが出ている場面だから、ふさわしい音楽になっており、まったく違う世界を描いているので、それぞれにふさわしい音楽になっていると思う。パリ版のほうがずっと好きだ。
肝心の序曲も、大きく異なっている。序曲は、巡礼の合唱のメロディーを使用したAの部分と、ヴェヌスベルクの音楽による中間部Bまでは同じなのだが、最初に書かれたドレスデン版では、Aが多少変化するが、繰りかえされるのに対して、パリ版では、Aは繰りかえさず、そのままヴェヌスベルクの音楽を使ったバレエ場面に移行する。そして、タンホイザーとヴェーヌスの二重唱が続く。素材は同じだが、パリ版のほうがより妖艶な感じになっている。
バイロイトは、バレエ音楽まではパリ版を使い、歌が始まると、ドレスデン版になるのが普通だ。こちらのほうが、中途半端な感じで不満だ。
言葉の問題で改定版がつくられたのは「カルメン」も似ているが、改定方式は違う。タンホイザーは、ドイツ語の原作を、パリで上演するためにフランス語に改定したが、「カルメン」は、ウィーンでの上演に際して、フランス語の台詞では難しいので、レシタティーボに変えていたが、途中でビゼーが亡くなったので、友人のギローが引き継いだので、ギロー版と言われている。言語はフランス語である。いまでも両方のバージョンが使用されている。カルロス・クライバーの演奏では、さらにふたつの折衷のような感じだ。
より複雑なのが「ドン・ジョバンニ」だ。プロの作曲家は、だいたいが注文によって作曲するが、とくにオペラの場合には、注文もされないのに、作曲家の自発的な意欲によって作曲されることは、まずない。ほぼ唯一の例外がワーグナーだ。オペラの作曲は、膨大な時間とエネルギーが必要だから、上演のあてがないのに、作曲などしないわけだ。ムソルグスキー(ボリスゴドノフ)やボロディン(イーゴリ公)は、自発的な作曲だったようだが、彼らはいわば、天才的な素人作曲家であり、他に職業をもっていた。現在の歌劇場は、歌手たちがあちこちからやってくるが、19世紀までの歌劇場では、専属歌手によって上演していた。交通機関が発達していなければ、ゲスト歌手を呼ぶなどということも、ほとんどできないわけである。だから、その歌劇場に所属する歌手を前提に、そしてその歌手の力量を考慮して、作曲を進めるわけである。モーツァルトは、実際に上演が確実になった段階で(キャンセルされたらお金にならない)、現地にでかけて、歌手の力量を確認しながら、曲を作っていく。
チェコのプラハ歌劇場からの注文で「ドン・ジョバンニ」を作曲したが、ウィーンで上演するときに、とくにドン・オッタービオを歌うテノールが、アリアが難しくて歌えないので、彼のために別のアリアを作曲してあげたという事情と、オリジナルでは、ドン・ジョバンニが地獄落ちするところで終了するのだが、ウィーンでは、あまりに悲劇的すぎるという理由で、そのあとに、残った登場人物たちが、思い思いを歌って、なんとなくほっとするかんじで終わることに変えた。そして、ドン・オッタービオのアリアの使い方(どちらか片方、あるいは両方を歌う)、そして、終わり方など、いろいろと違うやり方が生じることになった。私がプラハでみたのは、さすがに、最初のオリジナルな形で、地獄行きで終わっていた。
ドン・ジョバンニは、モーツァルトがこれを決定版にするなどということをしていないので、上演する際に、適宜どうするか決めると思うが、作曲家が決定版を決めたにもかかわらず、複数のバージョンで演奏されているのが、ヴェルディの「ドン・カルロ」だ。
ヴェルディは、シラーの原作によるドン・カルロの作曲を、フランスの劇場から依頼を受けた。おそらくヴェルディは不本意だったと思うが、オペラの台本として、原作には存在しない「フォテンブローの森」の場面が創作され、それが第一幕となっていた。そして、5幕のオペラとして完成され、それをヴェルディはイタリア語に直して、イタリアで上演した。ところが、その後、原作にない場面はカットした4幕ものに直して、ヴェルディはそれを決定版として認定した。そのままであれば、現在上演されるのは、4幕のイタリア語バージョンに統一されたろうが、その認定後も、ヴェルディは5幕版のイタリア語上演を行っている。そのために、現在では、5幕のイタリア語、フランス語と4幕のイタリア語の版が上演されており、それぞれCDやDVDも発売されている。それぞれ好みがあるようだが、私は、4幕イタリア語版が、ベストであると思っている。決定稿重視のカラヤンやムーティは、4幕で上演・録音しており、原典版重視のアバドは5幕で録音している。
4幕がベストと思うのは、原作にない場面を加えると、原作とまったく違う物語になってしまうことがひとつである。シラーの原作は、信教の自由を求めるフランドル(オランダ・ベルギー)の勢力の一人であるロドリーゴが、ドン・カルロをオルグするために活動しており、エリザベートも実はそれに共感しているのである。フェリペ2世が警戒しているのは、そうしたスペイン支配からの独立と信教の自由であって、だからこそ、忠臣であってもロドリーゴを殺害させてしまうわけだ。原作では、ドン・カルロもエリザベートも死んでしまう。
ところが、オペラ台本作家は、ドン・カルロとエリザベートの許されない愛の話にしてしまい、それを補強するために、1幕で、エリザベートの結婚前に、既にドン・カルロと彼女は恋人だったことを示しており、それによって、ふたりの悲恋がより鮮明になっている。5幕支持者は、その恋愛劇としての統一性を好むわけだ。しかし、シラーの物語は、そのようなものではない。4幕版だと、シラーの意図が多少は表現されている。エリザベートが、ドン・カルロに、フェリペ2世に剣を向けて倒しなさい、と強くいう場面があり、いかにも、恋敵を倒して、私を手に入れなさい、といっていように解釈している人が多いのだが、これは、信教の自由を獲得するために、フェリペ2世を倒しなさい、という意味なのだ。4幕版だと、こうした社会的背景をもった物語であることが多少は意識されるし、そうして聴くと、音楽の素晴らしさをより実感できる。