フルトヴェングラー バイロイトの第九(コメントへの回答)

 ハンスリックさん、コメントありがとうございます。また、貴重な情報、参考になります。
 ところで、拍手ですが、ゲネプロがどのように行われたかは、厳密にはわかりませんが、戦後の最初のバイロイト音楽祭ですから、準備等がかなり大変だったろうし、大規模な音楽祭ですから、集まっているひともかなりたくさんいたはずです。また、メディアなどの取材、録音スタッフなど、音楽関係ではないひとたちも。ゲネプロを一般公開しなかったとしても、本番を聴けない関係者たちが、ゲネプロにはたくさん聴衆としていたと考えるべきでしょう。そして、いざというときのためにゲネプロをちゃんと録音することになっているのですから、実は本番の演奏会と同じような形式で行われたと思われます。私自身、ゲネプロと本番の両方を聴いたことが2回あります。いずれも小沢征爾指揮のサイトウキネンフェスティバルで、「ファウストの劫罰」と「ロ短調ミサ」でした。行われた形は、ゲネプロも本番もまったく同じでした。更にゲネプロだけのときもあり、ベートーヴェンの交響曲でしたが、演奏が終わって拍手するところまでは、通常の演奏会と同じでしたが、そのあとで、「本日は稽古なので」と小沢さんが断って、そのあと20分程度の練習をしていました。つまり、拍手や足音があるのは、本番でもゲネプロでも同様なのです。ただし、演奏後の拍手は、本番のほうが多いのではないかとは思いますが。EMI盤も前後の拍手がありますから、決め手にはなりません。

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ジャーナリストによる名誉毀損訴訟2

 前回、安田氏は、極めて狭い価値観からものごとを見ているのではないかと書いた。それを感じるのは、小室圭-真子氏の結婚に対する見方である。
 「皇室と結婚の報道に感じる理不尽さ」と題する文章を日経新聞のCOMEOというサイトに書いている。皇室と結婚の「報道」に感じる理不尽さ|安田菜津紀(フォトジャーナリスト) (nikkei.com)
 
「両性の合意に基いてのみ」婚姻が成立するはずのこの社会で、生まれながらにして「国民」扱いされず、寄ってたかって自身の結婚を「認める」「認めない」と言われ続けなければならない立場に置かれてしまう不条理…報道に触れる度、そんな違和感を抱いていた。
「こっちは税金払ってるんだから」という乱暴な声さえ耳にする。自ら立候補した国会議員と違って、彼女は生まれながらにして今の立場にある。「お金が絡むんだから結婚にも口を出されて仕方がない」かのような立場に誰かを追いやっていること自体が、非常に理不尽ではないだろうか。
 
 このあと、小室圭氏の帰国時の騒動について触れているが、ロンゲがどうのこうのという報道については、私も呆れていたので、その部分については特に異論はない。問題は、上の引用部分だ。

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ジャーナリストによる名誉毀損訴訟1

 ジャーナリストの安田菜津紀氏が、差別投稿されたとして、195万円の損害賠償を求めて、東京地裁に提訴したという記事が,12月8日付けで一切に配信された。安田氏は、TBSのサンデーモーニングに出演しているので、何度も見たことがあり、考え方も知っているつもりだ。基本的には、彼女の考えかたを支持していることは明言しておきたい。
 しかし、今回の提訴については、あまり好感をもてない。
 まず事実経過を確認しよう。
 昨年の12月13日に、「もうひとつの遺書、外国人登録原票」というエッセイを、彼女が属するDialogue for People のホームページに掲載した。https://d4p.world/news/8032/
 そして、そのエッセイを広めるためだろう、自分のツイッターに、12月19日に紹介した。すると、そこに以下のような書き込みがなされたという。

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フルトヴェングラー、バイロイトの第九 スウェーデン放送協会盤登場

 スウェーデン放送協会に所蔵されていた、フルトヴェングラーのバイロイト第九が発売されることは、事前に大きな話題となっていた。そして、発売された。しかし、期待ほどにレビューが書かれていない。たくさん書かれるはずのレビューをまって、それを読んでから書くつもりだった。私自身は、購入する意志はなかったし、実際に購入していない。というのは、スウェーデン放送協会が放送したとされるものの録音なのだから、バイエルン放送協会のものと同じであることは、ほぼ予想がついたし、そうでなくても、録音されたものはゲネプロと本番の2回しかないのだから、バイエルン盤と同じでなければ、EMI盤と同じということになる。両方もっているのだから、どちらかと同じであるかを確認すればいいわけで、かなり高価でもあり、買おうとは思わなかった。ただ、特に、EMI盤が本番であるとする平林氏が解説を書いているということで、その趣旨を踏まえたレビューがあるかと思っていたのだが、まだないので、とにかく、これまで何度かこの話題について書いてきた身としては、現時点での考えを書く必要を感じている。

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皇族は反論できないのか

 秋篠宮が誕生日会見(11月25日撮影、30日放映)として行った内容について、ネットでは様々な議論がなされているが、もっとも大きな批判として、ネット規制を意図しているような発言をしたということがある。ネット上にはたくさんのそうした批判があるから、具体的な引用はしないが、趣旨は、言論規制を秋篠宮が準備しているということだ。この会見は、私も映像および宮内庁ホームページの文章をともに丁寧に見て、かなり不快感をもったが、この言論統制という批判はあたらないと思っている。念のために、宮内庁のホームページに掲載されている全文から当該部分を引用しておこう。ちなみに、この部分から、映像には集約されておらず、ホームページの文章にのみ載っている。質問は、ネットでのバッシングについてで以下の答である。

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読書ノート『天狗争乱』吉村昭

 尊皇攘夷という思想と運動、政治活動は、日本の歴史のなかでも、もっとも不可解な現象のひとつだ。当初は単なる思想だったが、西洋列強が東アジアにも押し寄せ、実際に日本も圧力によって開国すると、激烈な政治運動になり、そしてその中心的な勢力だった長州藩は倒幕の闘いを起こし、明治政府の中核勢力となっていくが、その過程で、「攘夷」は棄てられ、開国方針を堅持していく。尊皇攘夷に身を挺して実行した人々の多くは、自らの没落を招いていく。森鴎外の「津下四郎左衛門」は、若くして尊皇攘夷の思想に染まり、明治になっているのに横井小楠を暗殺して、処刑される四郎左衛門の子どもが、父親の名誉回復を試みるが、結局、父は愚かだったのだという結論になってしまう話だ。実話である。生麦事件を起こした薩摩藩士や、藩として外国船に砲撃を加えた長州藩などは、報復を受けて、やがて攘夷など不可能であることを知っていく。

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ブルゴスのベートーヴェン交響曲

 ベートーヴェンの交響曲全集はいったい何組あるのかわからないが、どれがいいかは、完全に個人の好みの問題だろう。私自身は、カラヤンの1970年前後の映像バージョンが好きだが、ただしそれは演奏だけのことで、映像は周知のように、完全に「実験」という感じの撮影だったと思われる。もっとも、現在のヨーロッパのオーケストラのライブ映像などの手法に大きな影響を与えているように見える。空中からとったり、楽器をアップで映したり、カメラが移動したりなど。いかにもカメラ撮影者を意識させるような撮り方は好きではないのだが。
 しかし、演奏はすばらしい。

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東京で学校選択制度見直しの動き

 毎日新聞に、東京の区内である程度普及している公立小中学校の学校選択制度の見直しが始まっているという報道があった。「見直し進む東京23区の学校選択制 この20年で起きた変化とは」(12月4日)
 学校選択の導入は、2000年前後の教育制度、行政の最も大きな争点のひとつだった。それぞれの政治的な立場のなかでも賛否がわかれ、議論は大変複雑なものになっていた。そして、東京周辺のいくつかの自治体で実施されたが、全国的に普及したとはいえない。私自身は、1980年代から学校選択の研究を重点的にしていて、そのためにオランダへの留学を2回に渡って行ったほどなので、この議論に積極的にかかわっただけではなく、東京のある区での審議会にも参加して提言を行った。
 そうして20年経過して、少しずつやめる方向になっているという。その理由として、毎日新聞が書いているのは

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選挙における民主主義 供託金の問題を語る高橋洋一氏の奇妙さ

 今回の総選挙では、供託金の話題がいつもより大きく論じられているような気がする。立憲民主党と日本共産党の選挙協力が供託金がからんでいると見なされているからだろうか。そのように見る典型は、高橋洋一氏である。youtubeの氏のチャンネルで、野党選挙協力について解説していたが、内容のおそまつさにびっくりした。選挙協力のメリットは共産党の側に大きく、これは食らいついたら離さないくらいだという。立憲民主党にとっては、接戦に持ち込めたという利益もあるが、共産党と組んだために反感をもたれたというマイナス面もある。だから、今後どうするかは議論になるだろうが、共産党にとっては、絶対的なメリットがあった。それは、本当は全選挙区に立候補をたてると、供託金が没収されていやなんだけど、協力がなければそうせざるをえない。しかし、協力するために候補者を降ろすことができて、供託金没収から免れるので、ものすごい利益なのだ、と説明していた。そういう側面がまったくないとは思わない。

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国民の教育権論の再建 親の教育の自由1(持田栄一論)

 国民の教育権論のなかで、親の教育権が適切に位置づけられていないことは、これまで指摘されてきた。もちろん、まったく無視されていたわけではない。親の教育権は、民法に「親権」の内容として規定されているのだから、実定法上も位置づけられている権利である。
 民法上の親の教育権は、家庭における教育(しつけや塾、習い事等を含む)と、私立学校を選ぶ権利と考えられている。しかし、公立学校に対しては、保護する子女を就学させる義務があるだけで、何ら権利が規定されていない。そして、国民の教育権論としての問題は、そうした権利構造をほとんど改革しなければならない対象として設定していなかったことにある。
 そうした国民の教育権論に、最初に、親の教育権の立場から批判を加えたのは、持田栄一であった。(持田栄一『教育における親の復権』明治図書1973.9)
 親の教育権について論じた初期の文献であり、その意味で画期的であった。明確に、国民の教育権論が、親の教育権をないがしろにしていることを批判して、「復権」させようとしているが、持田がPTA会長をした経験から考えが始まっているので、結局は「参加論」になっていて、選択論等を含む親の教育権の総合的な考察にはなっていない。そして、基本的に、近代公教育の位置づけが、国民の教育権論とは異なっていた。

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