皇族は反論できないのか

 秋篠宮が誕生日会見(11月25日撮影、30日放映)として行った内容について、ネットでは様々な議論がなされているが、もっとも大きな批判として、ネット規制を意図しているような発言をしたということがある。ネット上にはたくさんのそうした批判があるから、具体的な引用はしないが、趣旨は、言論規制を秋篠宮が準備しているということだ。この会見は、私も映像および宮内庁ホームページの文章をともに丁寧に見て、かなり不快感をもったが、この言論統制という批判はあたらないと思っている。念のために、宮内庁のホームページに掲載されている全文から当該部分を引用しておこう。ちなみに、この部分から、映像には集約されておらず、ホームページの文章にのみ載っている。質問は、ネットでのバッシングについてで以下の答である。

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いろいろな報道がなされて中にはバッシングと取れるものもあります。それらのことについて1回ごとに対応しないというのは,記事というのはある一定の長さがあるわけで,その中の一つだけをこれは違うというふうにして,例えば宮内庁のホームページに載せたりとかそういうことをした場合に,それではほかの事柄については全て正確なことですねということになり得ると私は思います。一方で先ほども少し近いお話をしましたけども,記事の中にはもちろん創作もあれば正確なことを書いていること両方混ざっているわけですね。一つを採り上げてそれは違うと言うこと,もちろん言うことはできますけれども,そうしたらやっぱり,ここも違うし,これは正確だしというのを全部説明していかないと本当はいけないのではないかなと思うのですね。ただ,それは大変な労力を費やすと思います。一方でもし,そういう今言われたような関係の記事に対して反論を出す場合にはですね,何かやはり一定のきちんとした基準を設けてその基準は考えなければいけないわけですけれども,それを超えたときには例えば反論をする,出すとかですね。何かそういう基準作りをしていく必要が私はあると思います。今,おっしゃったように今後もこういうことは多分続くでしょう。その辺も見据えて宮内庁とも相談しながら何かその今言ったような基準であるとかそういうものをですね,考えていくことは私は必要だと思っております。
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 読めばわかるように、ネットやメディアの規制の基準を述べているのではなく、不当だと思ったときに反論する場合の基準を考えねばならないといっている。反論も言論規制だという考えもあるかも知れないが、それは言論の自由という観点からすると、おかしな解釈だろう。いくら非難されたり、バッシングされても、反論してはならないということは、適切な考えではない。誰でも反論する自由がある。反論する基準というのだから、それ以下だった無視、以上だったら反論するというだけのことだろう。
 ネットの反応が、言論規制だととったのは、ニューヨークに渡った小室夫妻に関して、どうやら領事館からメディアに取材をするなという規制がかかったことが影響していると思われる。ニューヨークでの規制は、反論ではなく、報道規制だから明らかに不当だが、秋篠宮の「反論」に関する言及は、当たり前のことをいっていると思う。「基準」は、自身、あるいは宮内庁で決めたとしても、それはそれで自由であろう。ネットやメディアが、秋篠宮や宮内庁から反論されたら、びびるというのでは、話にならない。週刊誌が秋篠宮や宮内庁から、直接的に反論されたら、受けてたてばいいことで、週刊誌としては願ってもないことなのではないだろうか。確実に部数も増えるだろうし。陰から圧力をかけられるよりは、ずっと公正である。
 重要なことは、そういう宮側からの反論に対して、メディアやネットも自由に再反論ができることだ。メディアが怖じ気づかないことだ。
 もちろん、皇族の側で反論をしなければならないような言論は、滅多にないと思われる。戦後、天皇や皇族が表立って、メディアに批判されたことは、私の知る限りでは、昭和天皇の戦争責任、平成の天皇家の「軽さ」批判、現天皇の皇太子時代の東宮家、特に雅子皇太子妃への批判、そして、今回の小室氏をめぐる結婚騒動が主なものだろう。
 戦争責任問題は、議論としては続いたが、公的には決着がついた形なので、おそらく議論にまかせたのだろう。上皇后に対する批判に対して、確かに反論はしなかったが、強い対応はとっていたといえる。平成の皇太子は、言論界からの皇太子退位論などは無視したが、皇族内部での批判に対しては、記者会見を通して、つよい反論を行って、世間を驚かせた。
 小室氏との結婚問題については、現在もまだいろいろと不可解な事実が出ており、事態の進行中なので、これから、実際に「反論」などが双方から出てくるかも知れない。少なくとも、現時点では、真子内親王は、バッシングに対して積極的に動いており、決して、バッシングに対して何もできずに苦悩していたわけではないことが、ほぼ明らかになっている。そうしたことが、もっと明瞭に、非難の応酬ではなく、行われていたら、違った展開になっていたかも知れない。やはり、「発言権はない」かのような双方の誤解は、問題解決にとってマイナスであろう。
 バッシングという言い方が、記者からもいわれていたが、私がネットの発言を読む限り、バッシングや誹謗中傷は少なく、むしろ、善意の忠告というものが多かったように思う。それをバッシングととる姿勢も多いに問題であるのだが。
 
 要は、皇族にも反論する自由があると、国民は納得すべきである。皇族の反論を言論統制などととる必要はない。そして、国民には、皇族を批判する自由もある。もちろん、ほとんどの皇族はバッシングなどとは無縁であり、反論する必要もないのだが、皇族も人間だから、そうしたトラブルに巻き込まれることはありうる。そういうときにこそ、健全な言論が解決のために必要ではないだろうか。
 皇族は、基本的人権が制限されており、表現の自由はないとする解釈があるかも知れないが、これまでも何度か論じたように、憲法は、極めて限定的にしか天皇の人権を制限しておらず、表現の自由は制限していないと、私は解釈している。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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