尊皇攘夷という思想と運動、政治活動は、日本の歴史のなかでも、もっとも不可解な現象のひとつだ。当初は単なる思想だったが、西洋列強が東アジアにも押し寄せ、実際に日本も圧力によって開国すると、激烈な政治運動になり、そしてその中心的な勢力だった長州藩は倒幕の闘いを起こし、明治政府の中核勢力となっていくが、その過程で、「攘夷」は棄てられ、開国方針を堅持していく。尊皇攘夷に身を挺して実行した人々の多くは、自らの没落を招いていく。森鴎外の「津下四郎左衛門」は、若くして尊皇攘夷の思想に染まり、明治になっているのに横井小楠を暗殺して、処刑される四郎左衛門の子どもが、父親の名誉回復を試みるが、結局、父は愚かだったのだという結論になってしまう話だ。実話である。生麦事件を起こした薩摩藩士や、藩として外国船に砲撃を加えた長州藩などは、報復を受けて、やがて攘夷など不可能であることを知っていく。
しかし、こうした動きとは違って水戸天狗党は、最後まで攘夷思想に凝り固まり、狭い視野のまま情熱だけで滅んでいった多人数の集団である。
生麦事件や下関の砲撃事件などは、学校でも簡単に教える。日本の歴史教育の常として、詳しい分析などまで掘り下げることはないが、しかし、日本人のほとんどは簡単な事実として記憶しているだろう。しかし、天狗党事件は、ほとんど教えることがないので、あまり知られていないし、また、うっすらと知っている人でも、詳しく知る人は少ないに違いない。私も興味があったが、なかなか調べる機会もなく、詳細は理解していなかった。今年の秋に中山道をいく旅行にでかけたのだが、それは天狗党が通った足跡を辿ってみたいという目的もあった。
そして、確実なことはわからないのだが、私の母が先祖について、一度だけ語ったことがある。それは、幕末に茨城県の那珂というところに先祖が住んでいたのだそうだが、そこに、天狗党のひとが闘いに敗れて逃げてきて、しばらく匿ったという。そして、そこで娘との間に子どもができて、その子孫が自分であるというのだ。もちろん、3代か4代前のことだから、詳しいことなどはわからないのだが、そういう言い伝えを受けていたのだろう。そして、母が死んだとき、生まれたときの戸籍まで取り寄せる必要があって、一番古い戸籍をみると、確かに母が生まれたときの本籍は、茨城県の那珂になっていたのである。(実際に生まれ育ったのは別地域)そういうことも、多少知りたいという理由になっている。
吉村氏は、とにかく、可能な限り詳細、正確に史実を調べて、それに基づいて小説を書くことは、自ら語っているし、確かに読んでいて感じる。小説であるのに、とにかく、淡々と事実を積み重ねていく。台詞も出てくるが、非常に少ない。しかし、そのことが逆に非常にリアルに事実が進行していくような感じを与えている。司馬遼太郎より、ずっと客観的である。
幕府が開国に踏み切り、外国製品が国内に流入してきて、国内経済が混乱して、被害を受ける人々が出てきたことが、攘夷勢力に焦りの感情を起こしたのだろう。天狗党が決起した直接的な目的は、横浜の開港を止めさせて、経済の混乱をとめようということだった。ただ、後代の我々からみれば、最初からおかしいのは、その決起がなぜ筑波山で挙兵することだったのかということだろう。まずは、生活状況を詳細に調べて、混乱の原因を明確にし、どうしたら防げるのか、貿易を止めれば解決するという具体的な根拠を示す文書を作成して、まずは藩の上層部、あるいは幕府のしかるべきひとたちに送るようなことから始めるのではないか。それは現代人の発想だということでもないはずである。既に、外国船が往来するようになって、かなり年月が経過しており、対応がまずくて苦境に陥った清帝国のことは知れ渡っていた。多くのひとから様々な献策が行われていたのである。
「天狗争乱」は前半は、茨城、栃木における天狗党の起こした争乱と、それを鎮圧するために派遣された松平頼徳、そして水戸藩門閥派の三つ巴の闘いを描いているが、これが、途中で対立関係が変化するし、天狗党が暴徒のような集団から次第に規律が形成されていくなど、めまぐるしい転換があって面白い。また、水戸藩の内紛を治めるために幕府から派遣された頼徳が、むしろ水戸門閥派と対立し、幕府軍とも闘うことになってしまい、そして命は助けるとだまされて降伏するが、処刑されてしまう。政治の裏側の醜さが露骨に発揮されるが、だましたほうは、それも自分の延命のためとして、納得していかざるをえない。嫌な役を押しつけられて、結局、難しい局面に巻き込まれ、殺されてしまうのは、仕方なかったのか、政治的に能力がなかったからなのか。気の毒な運命だったことは確かだ。
途中から、頼徳陣営に加わっていた天狗党は、頼徳が降伏したあと、大激論のあと、結局、京都にいって、徳川慶喜に訴えようということになり、有名な京都への行軍が始まる。これが後半だ。途中合戦はあるが、ほとんどの藩は天狗党を恐れて、闘わずに通過させてくれるし、宿場では丁重に扱ってくれる。だから、淡々と進むが、最後に、長良川手前までくると、その先に幕府の大軍が陣を敷いていることがわかり、北国経由に変更し、人一人やっと通れるような断崖絶壁を、1000人近い軍隊が、馬や大砲をともなって踏破する場面以降は、緊迫の事態の連続になる。しかし、やっと峠を超えて、大雪のなか、村にとどまることができるが、そこから、周囲の藩との交渉が始まり、天狗党に共感した何人かが、慶喜との連絡をしてくれるが、自分たちを支持してくれると思ったのに、慶喜に見放され、最終的には降伏して、3分の1が斬首されてしまう。遠島になったものは、遠島の世話を命じられた薩摩藩が拒否するので、水戸に帰ることを命じられ、そこで過酷な運命に晒されることになり、多くは死んでしまう。結局、頼徳もだまされて降伏して処刑され、天狗党も同様の運命を辿る。
かなり史実に忠実であることを前提に、単純に感じたことをいくつか。
まず、幕末の武士は、本当に戦争などできない集団なのだなあということだ。天狗党といっても、実は武士はわずかで、武士ではない身分の者のほうが多い。戦闘を繰りかえしたため強力な戦闘集団になっており、迎え撃つために出撃した武士集団は、ほとんどしり込みしたり、闘っても直ぐに逃げてしまう。中山道の諸藩は、幕府が討ち取るように命令しているが、みずから間道を案内して通過させ、そのあとで空砲を撃って闘ったような見せかける。後の倒幕軍も、かなり農民などが加わっており、そういう意味でも幕府は終わっていたのだろう。
吉村氏は、基本的に天狗党に好意的であるが、私は、天狗党に限らず、尊皇攘夷派の視野の狭さを感じてしまう。やはり、尊皇攘夷というのは、宗教的熱狂だったのではないか。
横浜閉港についてもそうだが、中山道の旅の終盤あたりに、好意的に世話してくれた宿場で、自分たちがどのように思われているのか、まったくわからないので、教えてほしいと頼む場面がでてきて、かなり厳しく見られているということと、京に出発したあとの統制のとれた状態への好感があるというようなことをいわれているのだが、彼らの情報活動が、近辺の軍事的対応としてのみ実施されていることは、非常に特徴的だ。幕府軍が、どこまで追跡しているか、これから行く先の藩はどういう対応をとっているかは、綿密に調べているが、幕府がどのような政治をしているのか、朝廷の意向はどうなっているか、等々への情報活動はまるでないのだ。吉村氏が書いていないだけ、というのではなく、実際に、そうした情報活動への意識が乏しかったのではないかと思われる。行軍中には難しいということは決してないはずだ。そもそも挙兵の段階で、広範囲な情報活動を行っていないから、行軍中もする意志がなかったといえる。何人かを江戸や京都に派遣して、情勢を探らせることはいくらでもできたはずなのだ。しかし、それをしなかったのは、自分たちの思想こそが正しいのだ、それは現実が違うとすれば、現実が間違っているのだという、まさしく宗教的信念として、尊皇攘夷思想を抱いていたのだろう。自分たちの主君である徳川慶喜であれば、絶対に理解してくれるというのは、哀しいほどの錯覚である。そもそも、彼らの主人は、かつては徳川斉昭であり、当時は徳川慶篤であって、慶喜は一橋家に養子にいっており、主君でもなく、幕府で将軍を補佐する役職についている。そして、水戸の尊皇攘夷派は、かつて幕府の大老井伊直弼を殺害した集団で、幕府にとっては大罪人である。にもかかわらず、慶喜ならば理解してくれるに違いないというのは、あまりにも現実をみていないといえる。
幕府軍との闘いに敗れた天狗党が、京都に行こうということになったのは、水戸藩の元家老で、穏健な尊皇攘夷派だったが、天狗党に加わっていた武田耕雲斎が、かつて慶喜に請われて京都に赴き、攘夷に承諾した幕府が攘夷を実行するために、協力し、そのなかで信頼されたという感触をもったからである。武田が「京都に行こう」と提案したのだ。
しかし、前年、幕府が攘夷を決行するように朝廷に進言したといっても、本気ではなく、危険が大きいことを伝えていたし、実際に幕府が攘夷などしたことはない。だから、慶喜に従っていた武田が、慶喜が攘夷論者だと思ったとすれば、大きな誤解だったわけである。しかも、武田が京都にいこうと提案したのは、1964年の11月だが、その年の夏に下関での外国船への砲撃と、その報復攻撃があって、攘夷の不可能なことは、十分に認識されていたのである。
吉村氏は、こうした情勢認識については、まったく触れることなく、天狗党の信念の強さと意志の強固さを強調する形で構成している。その点は、かなり不満であり、疑問でもあった。