東京で学校選択制度見直しの動き

 毎日新聞に、東京の区内である程度普及している公立小中学校の学校選択制度の見直しが始まっているという報道があった。「見直し進む東京23区の学校選択制 この20年で起きた変化とは」(12月4日)
 学校選択の導入は、2000年前後の教育制度、行政の最も大きな争点のひとつだった。それぞれの政治的な立場のなかでも賛否がわかれ、議論は大変複雑なものになっていた。そして、東京周辺のいくつかの自治体で実施されたが、全国的に普及したとはいえない。私自身は、1980年代から学校選択の研究を重点的にしていて、そのためにオランダへの留学を2回に渡って行ったほどなので、この議論に積極的にかかわっただけではなく、東京のある区での審議会にも参加して提言を行った。
 そうして20年経過して、少しずつやめる方向になっているという。その理由として、毎日新聞が書いているのは

・教室が不足する学校が増えてきて、学区外からの受け入れが困難という状況が生まれているとする。ひとつには、人口流入が起きて、子どもの数が増えている区。また、そうでなくても、35人学級が順次実現することになって、やはり教室が不足しがちであるということのようだ。
・東日本大震災のときに、子どもを下校させるには、保護者の迎えを求めたわけだが、学区外からの通学者は保護者の迎えが、学区内の子どもより困難があったということ。これは、災害大国としては考える必要があることに違いない。
 では、当時選択制度を導入した意図は何だったのか。これは、行政担当者と批判する人との見解が大きく対立した側面がいくつかあった。
 最初に導入し、旗振り役だった当時の品川区教育長の若月氏は、人口が郊外に流出することと、私学に流れるふたつの流出への対応で、個性ある教育を実現して、公立学校の魅力を高めようとしたという。それに対して、批判者は、学校統廃合に活用するのではないかという疑問を呈していた。また、個性ある教育の実現が可能か、単に学力テスト競争が激化して、勝ちの学校と負けの学校に分かれていくのではないかという批判が、特に教師の間に強かった。
 
 では私はどう考えるか。選択制度が普及しなかった理由は、いくつかあると考えている。
 第一に、文科省や地方自治体の教育行政機関が、本当に学校選択を実施しようという意欲があったとは思えないことである。政府に批判的な教育学者の多くが、学校選択制度を新自由主義の政策であって、単に競争を強化するためのものだと批判していたが、その前提には、新自由主義政府であるから、新自由主義的な政策を実行しようとしたのだ、という認識があった。しかし、学校選択制度を以前から研究していた私には、学校選択制度は決して新自由主義政策とは考えられない。教育制度研究者ではほぼ常識であるが、学校選択制度を最も広範囲、かつ完全に実施している国はオランダであり、オランダの制度は100年以上続いているのである。100年前に新自由主義などなかったのであるから、無理のある決め付けだった。もちろん、フリードマンがバウチャー制を提唱するなど、新自由主義者が、学校選択を主張することはあった。しかし、そうした主張の提唱者も、また主張の範囲も部分的である。(別途論じる)
 日本の教育行政の最大の特質は、国家のコントロールという色彩が極めて強いことである。教育内容は学習指導要領で厳密に規定しているし、また教員は、県の教育委員会が一括採用して、配置し、移動させる。通学区を指定するのも、そうした管理的な行政の一環であって、彼らが、心底、住民の自由に任せ、学校の個性的な教育を許容するなどということは、極めて考えにくいのである。
 だから、各自治体で検討している学校選択制度も、極めて不徹底なものだった。私は、ある区の選択制度を実施する審議会の座長を務めたが、選択制度を詳しく知っている人などはまったくいなかったし、多くは、教育委員会がそういうなら賛成だという程度の人が多かった。もっとも、親の団体を代表する委員は積極的だったと思われる。
 学校選択とは、所詮部分的に行ってもあまり効果がないのだ。オランダでは、通学区そのものが存在せず、かならず親は子どもの学校を選択する必要があるのだが、日本が導入したものは、すべて、通学区を設定して、希望するものは、指定された学校以外にもいけるということだった。しかし、多くはそれに条件をつけていたし、指定学区の子どもは優先なので、枠も多くはなかった。
 また、私学も含めての選択制度にしないと、効果は半減するのは当然なのだが、そもそもが私学に流出させないための制度という意識であれば、私学を含める対象とはまったく考えていないことになる。
 そして、行政が熱心でない最大の理由は、学校がそれぞれの特色ある教育を推進することなどを、本気で求めていないということだった。あるいは、許容するとしても、実現するには条件が必要だ。校長や教員の移動を、本人の意志を最大限尊重し、特に校長の移動は原則なくすくらいにしないと、学校での特色ある教育など実現できるものではない。そうした配慮がなされていたとは思えない。
 
 第二に、教師のほとんどと、教育研究者の多くが反対したことである。人間だれでも「選ぶ」側は心地よいが、「選ばれる」側は嫌なものだ。私は、教師が反対した理由は、素朴なそうした選ばれる立場になりたくないということだったと思う。しかし、現代社会では、そうした態度は、学校教育の改善にマイナスなのではないかと、私は思う。あるいは教師の多くが、教育の内容や教え方は政府が決めてくれたほうが楽だと思っているのかも知れない。
 
 第三に、親はこうした行政に意見を反映させる道をほとんどもっていないことである。当時のアンケートでも、また、今回の毎日新聞の記事でも、選択できることを親は歓迎するものだ。これは「選ぶ側」になるのだから当然だろう。だが、現在の教育行政のなかで、保護者が発言権をもつ領域は、極めて小さい。毎日新聞の記事では、学校運営協議会が設置されるようになって、地域との関わりが強くなり、通学区と地域が異なる人が増えると、不便なことが多くなったとするが、これは、いずれにせよ、地域と学校、保護者の関係に対する誤解だといえる。学校運営協議会で保護者が参加しているといっても、それは保護者の代表でもないし、地域からの委員も通学区に重なっているわけではない。そもそも、通学区をもって地域と考える必要などないのである。
 
 より詳細な検討は別途行いたい。
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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