今回の総選挙では、供託金の話題がいつもより大きく論じられているような気がする。立憲民主党と日本共産党の選挙協力が供託金がからんでいると見なされているからだろうか。そのように見る典型は、高橋洋一氏である。youtubeの氏のチャンネルで、野党選挙協力について解説していたが、内容のおそまつさにびっくりした。選挙協力のメリットは共産党の側に大きく、これは食らいついたら離さないくらいだという。立憲民主党にとっては、接戦に持ち込めたという利益もあるが、共産党と組んだために反感をもたれたというマイナス面もある。だから、今後どうするかは議論になるだろうが、共産党にとっては、絶対的なメリットがあった。それは、本当は全選挙区に立候補をたてると、供託金が没収されていやなんだけど、協力がなければそうせざるをえない。しかし、協力するために候補者を降ろすことができて、供託金没収から免れるので、ものすごい利益なのだ、と説明していた。そういう側面がまったくないとは思わない。
しかし、いかにもゲスな見方といわざるをえないではないか。共産党にとっては、やはり、全選挙区に立候補をたてることが政党としては望ましいと考えているだろう。確かに、供託金の問題があって、苦しいことは確かであると思われる。しかし、それは、民主主義的な視点から考えて、供託金という制度そのものを問い返すことなく、現行制度をまったく問題にすることなく、議論するというのは、およそ評論家として失格ではないだろうか。もちろん、日本の供託金制度がとてもすばらしく、高い評価をえているならばともかく、国際的に異常な形態をとっており、各国から批判されていることを考えれば、高橋氏の議論がいかに「偏っているか」わかろうというものだ。
それから、候補者を降ろすことが、共産党にとってメリットばかりではなく、デメリットがあることも間違いない。それは小選挙区での候補者をださないことによって、どうしても比例での得票が得にくいという結果になるからだ。今回比例区で得票を減らした理由のひとつが、小選挙区での立候補をぎりぎり絞ったことにあると考えられる。
供託金については、戦後ずっとやっていることで、最高裁でも合憲判決がでており、問題にするほうがおかしいというように、高橋氏はいうのかも知れない。しかし、供託金制度が、既に政党としての地位を確立している既成大政党に圧倒的に有利なシステムであるから、戦後ずっと続いてきたのであり、理にかなった制度だから続いていたわけではない。そして、既成政党に有利な制度を続けいるからこそ、日本の政治は停滞しているのである。
例えば衆議院の小選挙区に立候補するためには、300万の供託金が必要であり、有効得票数の10%を獲得しなければ没収されてしまうことになっている。小選挙区そのものが、少数政党には圧倒的に不利なだけではなく、供託金は、立候補そのものを困難にしている。もちろん、ひやかしで立候補できるようなシステムは、問題があるだろうが、国会に議席をもっている政党ですら、小政党には立候補が不可能に近いような選挙制度が、変化の激しい社会に適応していけるような優れた政治状況をつくることを困難にすることは間違いない。
供託金システムは、選挙公営システムと対応しているとされている。立候補が受け付けられると、候補者には公費によるいくつかの援助がある。選挙運動用車、葉書、ポスター、看板等々だ。あまりに候補者が多くなれば、そうした費用が大きくなってしまうということは確かに問題だろう。ならば、供託金をなくして、そうしたことの公費負担を最低限にすればよい。公的な宣伝などは、現在ではネットを使うことで費用を激減させることができる。紙のポスターをはりたいものは、自費にして、公的なネット広告は、ファイルを自分で作成させればよい。選挙運動の費用を公費でだすという発想をやめればいいだけのことだ。
候補者の乱立をどうしても緩和したいのであれば、没収基準を10%から1%程度にする、あるいは、供託金の代りに、立候補を支持する有権者の署名(政党の代表選では、普通に行われている)を集めるなどもありうる。
要は、選挙は、誰でも投票できることだけではなく、本気で政治にかかわりたいと思う人は、誰でも立候補できることが、民主主義を機能させるためには必要なのである。供託金制度は、現行のままだと、日本の政治を停滞させるだけのことだ。