フルトヴェングラー バイロイトの第九(コメントへの回答)

 ハンスリックさん、コメントありがとうございます。また、貴重な情報、参考になります。
 ところで、拍手ですが、ゲネプロがどのように行われたかは、厳密にはわかりませんが、戦後の最初のバイロイト音楽祭ですから、準備等がかなり大変だったろうし、大規模な音楽祭ですから、集まっているひともかなりたくさんいたはずです。また、メディアなどの取材、録音スタッフなど、音楽関係ではないひとたちも。ゲネプロを一般公開しなかったとしても、本番を聴けない関係者たちが、ゲネプロにはたくさん聴衆としていたと考えるべきでしょう。そして、いざというときのためにゲネプロをちゃんと録音することになっているのですから、実は本番の演奏会と同じような形式で行われたと思われます。私自身、ゲネプロと本番の両方を聴いたことが2回あります。いずれも小沢征爾指揮のサイトウキネンフェスティバルで、「ファウストの劫罰」と「ロ短調ミサ」でした。行われた形は、ゲネプロも本番もまったく同じでした。更にゲネプロだけのときもあり、ベートーヴェンの交響曲でしたが、演奏が終わって拍手するところまでは、通常の演奏会と同じでしたが、そのあとで、「本日は稽古なので」と小沢さんが断って、そのあと20分程度の練習をしていました。つまり、拍手や足音があるのは、本番でもゲネプロでも同様なのです。ただし、演奏後の拍手は、本番のほうが多いのではないかとは思いますが。EMI盤も前後の拍手がありますから、決め手にはなりません。

 アナウンスも、以後の演奏がライブであることの証拠にはならないと思います。以前の録音を後日放送することだってありますから。もし、演奏会本番の日時と、ラジオ放送の日時が同じであれば、確かに、放送局は実際の本番を放送したのでしょう。しかし、30分以上放送が遅ければ、ゲネプロを流した可能性は、絶対にゼロだとは言い切れません。
 
 気になるのは編集に関してですね。「前科」と書かれていますが、まあ、皮肉と解釈いたしますが、商品としてのレコードやCD、DVD等で、編集はごく当たり前のことで、編集がないライブ演奏の「商品」こそ、かなりめずらしいのではないでしょうか。
 カラヤンが戦後NHK交響楽団を指揮するためにやってきたとき、ある演奏会の模様を後日放送するために録音をとったところ、おそらくカラヤンが気に入らないところがあったために、再度取り直すことになったわけです。NHKスタッフは、最低その楽章全部を取り直すと思ったら、まずいわずかな部分だけ演奏して、終わってしまったので、恐る恐るカラヤンに、「これだけでしょうか」と聞いたところ、カラヤンは、ここを編集すればよい、といとも簡単に答えて、スタッフは狼狽したといいます。そんなことはやったことがなかったわけです。それで、苦労して、とにかく、うまく修正ができたので、カラヤンはご機嫌だったとか。つまり、カラヤンにとっては、まずい部分を取り直して埋め込むというのは、ごく当たり前のことだったわけです。当時カラヤンは、レッグとともに、フィルハーモニアオケを使って、さかんにレコーディングをしていましたが、すべて、そうした編集の積み重ねとして、完璧な演奏をつくっていたわけです。フルトヴェングラーの「トリスタン」で、高い声がきちんと歌えなかったフラグスタートの部分を、シュワルツコップが歌って入れ換えたのは、おっしゃる通りですが、ここまでやることは、異例だったでしょうね。でも、シュワルツコップも晩年には同じようなことをやってもらったそうです。あるいは、オペラの場合には、高い音がだせないときに、テープのスピード調整をして、高い音程にまで矯正してしまうというようなことも行われているはずです。
 そういうことを考えれば、バイロイトの第九で編集が行われていることは、別に不思議でもなんでもなく、編集があるから、本番ではないというような言い方は、適切ではないのです。ちなみに、私が参加している市民オケでも、演奏会のCDをつくって、売りますが、編集はしますよ。それはミスがあったときの、ミスをした奏者への思いやりのような理由が大きいのですが。いつか、ショスタコービッチの10番をやったときに、まったく予定外で、2楽章をアンコールすると指揮者がいいだして、みんな、あっけにとられましたが、仕方なく、もう一度演奏したことがあるのです。それは今から考えると、ゲネプロも本番も、ある部分でミスがあったので、もう一度取り直して、ミスのないCDにする必要があったのかなと思います。器楽に比べて、声楽はミスをしやすいので、声楽がはいる曲を、本当にライブ中継することは、かなり慎重になっていたはずです。
 
 一般的なレコード、CDなどの商品の編集は、かなり徹底して行われると思います。しかし、バイロイトの第九については、もともとセッション録音でもないし、レコード化の予定もなく、とにかく、録音しておこうということだったようなので、録音素材は、ゲネプロと本番のふたつしかありません。編集したといっても、演奏内容については、どちらかを基礎にして、まずい部分を他方からとってくる以外にはないわけです。徳岡氏の分析では、EMI盤の第3楽章のいくつかの部分が、バイエルン盤からとってきてつないだということですから、EMI盤の3楽章は、よほどまずい部分がたくさんあったのでしょう。出だしのバイオリンを含めて。(もっとも、あれはミスではないという意見もあるかも知れませんが、バイエルン盤は楽譜通りに出ているのですから、やはり、バイオリンがはいれなかったのだと考えるべきでしょう。)バイエルン盤が本番だとすると、レッグは、なんで、まずい部分のない本番ではなく、まずい部分のあるゲネプロをライブと称して販売するレコードに選択し、まずい部分を本番からぬいて入れ込むようなことをしたのか。しかも、他の楽章には、手を加えていないようなのですから。この極めて常識的な疑問が、どうしても付きまとうのです。ハンスリックさんが、もし責任者だったとしたら、本番ではなく、わざわざ練習のほうを、ライブ演奏として発売しますか。とすれば、その理由はなんでしょう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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