選択的夫婦別姓について

 選択的夫婦別姓論議が新たな局面を迎えているようだ。自民党のなかにも、賛成する人がけっこう出てきていることが要因だろう。野田聖子氏が重要なポストについたことも影響しているのだろう。また二階幹事長が、選択的夫婦別姓に違和感かないとも表明している。他方、自民党内に、選択的夫婦別姓をあくまで反対するためのグループ(絆を紡ぐ会)などか結成されるなど、賛否両方の動きが活発になっている。
 海外で、日本のように、法律によって夫婦が同一の姓を名乗ることを原則的に規定していく国は、ドイツやオーストリアなどごくわずかなようだ。http://www.hirokom.org/minpo/siryo01.html
 日本でも、同一姓を名乗ることか規定されたのは、明治からになってからのことであり、もともと、江戸時代までは、庶民には姓が存在しなかったのだから、同一姓などは問題外であったし、女性の場合にも、ほとんど名前だけで呼ばれていたのではないだろうか。歴史的に有名な女性は、それに対して、むしろ生家の姓を名乗っていることが目立つ。北条政子や日野富子など。明治になって、戸主を管理の対象とした家族制度を創設する際に、家族はすべて同じ姓をもつということにしたわけだ。したがって、同一姓というのは、日本の伝統的な制度でもないし、あくまでも戸主を絶対とする家族制度の名残りである。そして、それは女性が独立して社会に出て活躍することを想定しないシステムでもあった。もちろん戦前にも、社会的に名前を知られる形で活躍する女性はいたが、やはり、少数だった。

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道徳教育ノート「きまりは何のために」

 久しぶりに道徳教育の文科省資料について書きたい。「きまりは何のために」という文章だ。久しぶりなので繰り返すが、私が書く文章は、この教材を使って、このような授業をすればよいということではなく、あくまでも、大人として、この教材を読んでの感想である。教師も大人なのだから、まずは、一人の大人として教材を解釈する必要があると考えるからである。(https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/29/1303863_26.pdf)
 さて、「きまりは何のために」という文章は、最初は、国会議事堂を見学する場面から始まり、そこでは、学校で起きたルール違反について反省するきっかけになる。
 明が、自分たちで決めたルールを破ったことだ。それは、放課後の校庭の使用は、下級生から始まって、上級生に移っていくというルールだが、明は、当日発売のゲームの購入に間に合うように、下級生の時間帯に遊んで、ゲームの購入に間に合った。しかし、ルールを守ったために、ゲームを変えなかった浩が抗議する。「遊ぶ権利」とか「買った者勝ち」などの話がでていたが、次の日からルールを破る人がたくさん出た。「塾にあわせて遊ぶ」「テレビの時間にあわせて」などと勝手なことをいう人がでてきた。そして、とうとう、上級生のけったサッカーボールに一年生があたってしまうという事故がおき、校庭を使えなくなってしまう。
 そして、国会議事堂の見学になるわけだ。そこで、国の大事な規則を作っているという話を聞いて、学校で起きたことを反省し、もう一度考えなおそうと決意したところで終わっている。

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国会審議の形骸化

 私の記憶では、田中角栄首相が、国会を年中開会するようにして、一年間を通して審議をしようと提案したことがあったと思う。それに対して、野党がとんでもないことだ、国会の議論を充実させるためには、休会の期間に国民の実態を調査したり、いろいろと勉強したりする必要がある。また、国民の反対が多い法案は会期という期限があるから、そこで廃案になる。つまり、国民の支持がある法案なら、会期中に処理できる、というような反対意見を述べていた。
 しかし、近年安倍内閣あたりから、この関係が完全に逆転した。特に今年は、野党が国会を開くこと、会期を延長させることを主張しているのに、自民党がさっさと国会を閉会させてしまうことが、続いた。通常国会も、また、菅内閣に変わっての臨時国会も、野党は審議を主張しているのに、自民党がそれに応じていない。そのためにコロナ対策が完全におざなりになっている。
 こうした逆転現象は、何故起きたのだろうか。また、それはいいことなのか、あるいは国会の劣化なのか。

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リニア新幹線は、まだ続けるのか

 毎日新聞(2020.12.7)によると、川勝静岡県知事が、環境問題の解決抜きには、リニア整備認めないと明言したとされる。本会議で「リニアに長く関わり、賛成してきた。現在も推進すべきだとの考えに変わりない」とする一方「大井川の水や南アルプスの自然環境に悪影響を及ぼすなら、認めることはできない」と述べた。水資源の問題だけではなく、有害物質を含む掘削土が発生する可能説、大井川上流で取水して山梨県側の富士川水系に放流する田代ダムに対する点では、田代ダムの取水口付近の河川流量は確実に減って、水利権者に影響が及ぶ可能性があるとしている。
 こうした環境悪化の問題だけではなく、工事が行われている地域では、さまざまな使用制限がかけられ、自然を活用した教育を行っている学校や幼稚園などの活動が阻害されているという話を聞いたことがある。様々な悪影響が指摘されている。もし、そうした悪影響を帳消しにするほどの、社会的なプラスの側面があるならば、作るのもよいのだろう。

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教育学を考える22 単語と概念

 大分前に、私はパソコン通信の電子会議室で活動していたことがある。そこは、思想(つまりあらゆること)を扱う論争の場で、ずいぶん論争したものだ。インターネットに転換して、パソコン通信は消滅してしまったために、その会議室もなくなってしまった。その結果として、論争からは遠ざかることになった。本来、思考は論争で鍛えられるのだから、物足りない思いがしていたが、最近、複数の場で「論争」することができるようになった。そのなかで、文科省のだして来る概念、あるいはスローガンのようなものの評価が、人によってかなり相違があることがわかってきた。同じ言葉を使っても、人によって意味が違っていたり、あるいは、同じことを考えていても、違う言葉を使ったりする。そういうことの共通点と相違点をきちんと、相互に認識することはなかなか難しい。
 
 まだ日教組が強く、民間教育研究運動が盛んな時代には、運動側と文部省側は、異なる言葉、対立的な概念を使っていた。例えば、「国民の教育権」に対して「国家の教育権」、学習指導要領の法的拘束力があるvsない、高校の多様化vs総合制、特設道徳vs教育全体での道徳教育、等々、まだまだあるだろう。しかし、いまではこうした単純な対立関係ではなく、もっと入り組んでいる。

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ジュリーニの「リゴレット」を聴いて

 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮の、ヴェルディ作曲「リゴレット」を聴いた。これは、LPでももっていたが、LPは機械をもっていないので、処分してしまった。リゴレットを聴きたくて、ジュリーニのウィーン・フィルシリーズを購入して、聴き直したわけだ。ボックスで購入すると、単体よりずっと安くなるのでよい。しかも、今回はまったくダブリがなかった。
 リゴレットには、いろいろな思い出がある。ずっと昔のことになるが、二期会の公演を聴いたのが、唯一の生演奏だが、栗林善信がリゴレットを歌っていて、声よりは、演技に強い印象をもった。それ以来実演は接したことがないが、録音や録画ではいろいろと聴いてきた。

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日本の指導者は、優秀じゃないほうがいいのか

 昨日、菅首相の記者会見を、車のなかで聞いていた。既に報道されているように、肝心のことには答えず、自分の成果と考えていることを押し出すだけの会見だった。しかも、記者の質問もなまぬるく、しかも、一回聞いて、菅首相が答えたら、続きの質問を許さないという形式なので、これでは、聞いているほうは茶番としか思えない。予め提出していた質問事項なのかどうかまではわからなかったが、おそらく、そう思わせるようなしまりのないものだった。
 思い出すのは、2002年にオランダに滞在していたときのことだ。6月に総選挙があったのだが、そのとき、新党だったフォルタイン党(移民反対の党)が躍進を続けていたが、選挙の一週間前に暗殺されてしまった。政治家の暗殺は、オランダでは400年ぶりということで、大きな衝撃が走ったようだ。同情票が集まったとも言われているが、フォルタイン党は圧勝し、新党であるにもかかわらず第二党になった。ところが、前年にフォルタインが個人的に立ち上げた政党で、他の人はすべて政治の素人だった。そして、党首が暗殺されたのだから、まるで政党の体をなしていなかったのだが、第二党だから、連立内閣にはいり、何人もの閣僚がうまれた。ところが、政権は混乱し、だれだか忘れてしまったが、閣僚の一人が記者会見をしているときに、後ろから近づいてきた女性が、大きなケーキを皿ごと後ろから閣僚の顔に叩きつけ、閣僚の顔がケーキで覆われてしまうというようなことが起きた。もちろん、記者会見の最中だから、すべて撮影されており、繰り返しテレビのニュースで流されたのである。そういう時期に、私はオランダに到着して、一年生活することになった。混乱続きに耐えられなくなった首相が、議会を解散して、総選挙にうってでた。フォルタイン党を追い出そうと試みたのである。そして、しばらく選挙戦が続いたが、日本の総選挙の様子とはまったく違うことに驚きの連続だった。

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皇族は日本人ではないのか?

 伊吹元衆議院議長が、小室圭氏と真子内親王の結婚に対して、小室氏が国民にきちんと説明をすべきであると述べ、その際に、皇族は日本国民ではないので、憲法の両性の合意による結婚の自由は適用されないと述べたことが、大きな話題になっている。私は、素朴に、皇族も日本国民であるが、特別な法的地位にあると思っていたので、日本国民ではないのか、と驚いたわけだ。
 それで、憲法学説ではどのようになっているのかを確認しておく必要があると考えた。とりあえず、多少古いが、基本的人権の解説としては権威があるとされる芦部信喜編の『憲法Ⅱ 人権Ⅰ』をみてみよう。ここには、天皇・皇族が国民であることには、疑いがないが、人権の享有という点で3つの説があるとしている。(伊吹氏のいう「皇族は日本国民ではない」ということの意味が、日本国籍をもたないという意味であるのかは、記事を読む限りはわからない。通常は、日本国籍をもつということは、戸籍に掲載されているということだが、皇族の場合には、戸籍ではなく、皇統譜に記載されているという違いがあるだけで、日本国籍をもつとされているようだ。

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『教育』2020.12号を読む 児美川氏の教師のハイブリッド教育評価

 児美川孝一郎「公教育のハイブリッド仕様へ?--自己責任化する学びと教師の働きがい」は、「コロナ禍の今、教員の働き方を問う」という特集の最後に置かれた、いわば教科研的立場の整理という風に読むことができる。おそらく児美川氏は教科研のなかで、最も重要な論客の一人であり、若い世代の教師や研究者に対するリーダーとして活躍している。「教育を読むfacebook」で、1月に重要な講演を行うことが予告されている。そのこともあるので、私としては、この児美川氏の文章については、厳しい見解を表明しておきたいと思う。最近の『教育』を読んでいて、教科研内部には、あまり議論が行われていないように感じる。常任委員会等ではあるのかも知れないが、少なくとも、『教育』の論文では、何か同一方向をみんなが向いている感じがするのである。しかし、本当にそれでいいのだろうか。少なくとも研究者の間では、もっと闊達な議論が行われないと、難しい今後の動向に対する適切な評価と展望は出てこないのではないだろうか。そう考えて、児美川論文には、率直な批判を書かせていただくことにする。期待するからである。
 
 基本的に、彼の見解は肯定できない。後述する児美川氏の論は、普段からICTの活用に消極的であったことが、反映していると考えるからである。しかし、教育学の研究にとって、ICTを最大限活用することは、不可欠のことである。もちろん、活用の仕方は人それぞれだろうが、もし、児美川氏が勤務校における教育活動で、大いに活用してきたのなら、おそらくこの論文で書かれているような立論にはならないと、私は思う。

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秋篠宮家の唯一の「貢献」 納税者として皇室を評価する姿勢を生んだこと

 秋篠宮の誕生日会見で、真子内親王の結婚を容認するかのような発言をとらえて、話題になっているが、念のためにヤフーのコメントを見てみた。あまりに多いので最初の100発言を全部読んでみたが、この結婚に対して肯定的な意見を書いているのは、0であって、100すべてがネガティブな書き込みだった。かなり白黒がはっきりしていることでも、また、ヤフコメを書く人が、偏っているとしても、100%ネガティブという話題は、これまで見たことがない。
 私が、オランダに滞在して、オランダ人の気質について、いくつかショックを受けたことがある。そのひとつが、オランダ人の王室に対する態度だ。いろいろな人に聞かされたが、オランダ人は王室を積極的に支持しているが、それは、オランダ王室が、国民のために貢献していることを実感しているからだ。そして、オランダ人は、王室が税金で支えられているから、税金に見合う活動・奉仕をしているかを、常に気にかけている。だから、今は、王室を支持している人が多いが、あくまでも、冷静に見ているのだということだった。

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