専門家の審議会について考える

 新型コロナウィルスに関する専門家会議が廃止されて、分科会なるものが機能し始めている。分科会という名前を聞いて、コロナ対策班、経済対策班、生活対策班などいう「分科会」ができて、全体会がその上にできる、あるいは、分科会は、単に問題を議論するのであり、決めるのは政府だということになっていたので、全体会は存在しないのか、どちらかの形態だと思っていたら、「分科会」というひとつの会ができただけのようだ。面白いネーミングだと思った。最近に限らないが、政府のやることは、本当に不思議なことが多い。国民的な大反発を受けたアベノマスクを配布し終えたら、アベノマスクの第二弾配布をするということを発表したり、GOTOキャンペーンを感染がおさまった時期、あるいは8月に実施すると公表していたのに、かつ感染が拡大しているのに、いきなり7月に繰り上げし、そして、突然東京都を除外したりと、こうした一連のやり方に、さすが安倍内閣だ、適切な対応をしているという人は、どのくらいいるのだろうか。この分科会もそうしたひとつだ。専門家会議の尾見氏が、会議のもち方に関して反省点を述べている記者会見の最中に、西村担当大臣が専門家会議の廃止を、これまた公表し、その記者会見の要旨のメモが、記者会見中の尾見氏に手渡されるという、こんなことは見たことがない。
 そして、この分科会についても、批判的な記事が今日ネットに掲載されている。(「「あれでは政策提言どころではない」コロナ分科会委員が明かす“東京除外決定の内幕”」https://news.livedoor.com/article/detail/18715097/)この内容はぜひ読んでほしい。ここでは、私自身の経験から考えてみることにする。

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教育学を考える18 集団の教育的価値はその意味2

 前回、集団の教育的価値と教育力について、簡単に整理したが、いわゆる「集団主義教育」が、何故、日本の教育運動から消えてしまったかに見えるのか、あるいは、事実として、集団主義教育を主張する人たちがほとんど見られないのか。それを今回は考えたい。
 集団主義教育を主張する民間教育研究団体は、主にふたつあった。生活綴り方を推進する「日本作文の会」と、核班づくりを中心とする「全国生活指導研究協議会」( 全生研)である。もちろん、このふたつは現在でも活動しているが、少なくとも、集団主義教育を前面に出してはいない。外から見ている限りでは、やはり、活動に大きな変化があったように見える。(私は、この団体の会員ではないが、その主張や実践例は、大学の講義で毎年必ず紹介してきた。そして、基本的には、変化する以前の教育スタイルを、いまでも肯定的に見ていることを、まず断っておきたい。)

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矢内原忠雄と丸山真男10 敗戦の迎え方とフィヒテの読み方

 敗戦直後、矢内原忠雄と丸山真男は、どのような言論活動をしたのだろうか。矢内原については、前に、敗戦後間もない10月の講演を紹介した。「日本精神への反省」で、戦争をもたらしてしまった日本人の精神構造を分析した講演だった。そして、11月には「平和国家論」(全集19巻)と題する講演を行っている。いずれも長野県の国民学校での講演で、主な対象は教師だった。「平和国家論」は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」とカントの「永久平和論」を素材にしながら、今後の日本建設のために必要なことを論じたものだった。つまり、東大教授に復帰し、本格的な活動を始める前に、既に矢内原は講演を復活させ、戦争を支えた日本精神の分析と、今後必要なことを示していたのである。
 他方、丸山真男は、1945年には、戦中にも戦後にも公表された文章はない。丸山自身、大いに学ぶ機会でもあった庶民大学三島教室に参加したのは、46年2月以降であるから、やはり、45年の間には、公的な活動や論文の公表はなかったといえるだろう。しかし、『丸山真男講義録2』に、45年11月1日の日付が入っているメモが収録さている。「草稿断簡」と題する文章は、途中で終わっており、もし機会があれば、完成する予定だったかも知れないが、私の知る限り、この文章が、最も早い時期での戦後総括のひとつである。そして、その内容は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を参考に、日本人の精神のあり方を考察しようとしているものだ。

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教育学を考える17 集団の教育的価値と意味1

 ここしばらく、教育について議論する場で、「集団」について考えてきた。ある参加者は、教育は個人の差を重視し、個人に応じた教育が理想であり、個人を無視した集団教育は、誤りであるだけではなく、気持ち悪いという。この議論にも、大いに頷ける部分がある。例えば、多くの日本人は、北朝鮮の軍隊の一糸乱れない行進の映像をみると、どこか気持ち悪くなる。そういう声を実際に聞く。しかし、スポーツとしての行進があり、様々な形を作りながら、かなりの大人数で行進する。これも一糸乱れずというものだが、これは、美しいと感じる。私はテレビで日体大の学生によるこうした行進の映像をみて、すごく感心した。同じ一糸乱れずの行進でも、気持ち悪く思ったり、感動したりするのは、何が違うのだろうか。ぴったり揃った行為として美しいと感じるのは、バレエの群舞なども同様だ。もし群舞で足をあげるタイミングや飛ぶタイミングが乱れたら、失望するに違いない。尤も、これは、感じ方が違うかも知れないので、深入りはしない。ただ、集団行動について、気持ち悪いと感じる感覚があることは、確認しておいてよいし、日本の教育は、気持ち悪さという集団行動がないかどうかは、省みる必要があると思われるからだ。

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新型コロナウィルスは怖い病気なのか? 指定感染症を外すべきなのか否か?

 新型コロナウィルスによって起きる病気に関して、まったく逆の見解が相変わらず併存している。
 一方は、重篤化すると死に至り、また治癒しても様々な後遺症が残る恐ろしい病気であるとする。他方では、単なる風邪で、インフルエンザなどよりも、ずっと死亡率も低く、「新しい生活様式」をきちんと守っていれば、感染リスクも避けられ、それほど恐ろしい病気ではなく、今のようにメディアが騒ぐこと自体おかしいとする。しかし、恐ろしい病気であるという主張は、これだけ感染者数が存在しているのに、特に東アジア地域では死者が少ないという点を説明できていないし、逆に、単なる風邪だという説は、欧米における膨大な死者数を説明できない。

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原爆の日に考える 戦争を終わらせたのは原爆か 日米教師の認識の差

 ブログに、原爆関連で書いたことはないのだが、少し前に、中山京子氏の真珠湾攻撃をどう教えるかという、日米教師によるワークショップ報告に関する文章を書いたので、少し考えてみようと思った。(http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1705)
 もともとは真珠湾攻撃に関するワークショップだが、ヒロシマも話題になったそうだ。ヒロシマに関しては、当然だと思うが、日米の教師間の意見の相違が極めて大きかった。アメリカ人の教師は、戦争を終わらせたのが原爆投下であり、もし投下しなかったら、本土決戦になって、もっと悲惨な状況になっただろうというわけだ。残念ながら、日本人教師は、原爆の悲惨さを訴えるというレベルに留まったのかも知れない。

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感染者狩り 政治の反映と、モーニングショーの矛盾

 「感染者狩り」が話題になっている。感染者が出ると、その人の実名等を探り出して、ネットに公開し、様々な誹謗中傷を加える行為が、かなり横行しているというのだ。私自身は、その手のSNSをやっていないので、実際にそういう誹謗中傷をネットをみたことはないが、ニュースの画面には出てくるので、間違いないのだろう。今日の羽鳥モーニングショーでもこの問題を扱っていた。そして、前にも紹介された数値だと思うが、新型コロナウィルスに感染したのは、本人の責任だと思うという人の割合の各国比較がでていたが、日本はだんとつに多く、10%を越えており、アメリカは1%だというのだ。このことに関しては、前にも書いたが、多少この数値は割り引いて考える必要があると思う。そこらも踏まえて考えたことは以下の点である。
 感染者を出した店に、損害を与えるような行為、モーニングショーでは、店にコンクリートの塊を投げつけて、ガラスを派手に割ったり、あるいは、酷い電話をかけたり、誹謗中傷の投稿を繰り返すなどということは、「違法行為」であり、許されることではない。法的に取り締まるべきである。ただし、モーニングショーのコメンテーターが主張していることが、100%正しいかというと、それは疑問である。

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日本が産油国に?

 茨城沖に油田があるのではないかと、メディアではかなりはしゃいでいるらしい。しかし、例によって羽鳥モーニングショーでは、かなり冷静な反応だったと思う。実際に油田があったとしても、実現は30年後で、それまでに最低1兆円が必要だろうと説明されたあと、議論になったが、「そもそも30年後に石油を主たるエネルギー源として使っているのか、自然エネルギーがもっと発展していて、石油の割合は今よりもずっと小さくなっているのではないかという見解に、かなりの共感が集まっていた。
 私は、この問題の専門家では、もちろんないが、素人こそ発言すべきだと思うので、考えを書いておきたい。
 石油の需要がゼロになることはないだろうが、少なくとも、石油保存を小さくしなければならないことは、明らかだ。代わりになるものは、自然エネルギーである。原子力は、その危険度、廃棄物処理の未解決等で、削減廃止していくべきものだと考える。
 しかし、自然エネルギーは不安定だという意見がある。現在ではそうに違いない。しかし、福島原発によって起きた現象を冷静にふり返ってみよう。

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道徳教材「二通の手紙」をめぐって

 道徳教材「二通の手紙」に関しての文章について、「二通のコメント」があったので、返信として、また新たに考えたこととして書いておきたい。返信としては、「ですます調」が適切なのだろうが、ブログの文章なので、「である調」にさせていただく。(また、コメントには氏名が書かれているが、以下はコメントとさせていただく。)
 コメントがまず問題にしているのは、この「二通の手紙」の単元の目標が「生徒にルールを守らせることの重要さを教える」となっていることである。実際に、教育実習でこの教材での道徳の授業をしたときに、むしろ機械的にルールから解雇したやりかたに批判的な生徒もいたという。だから、この教材は、単にルールを守るということではなく、「責任能力を育む」とか「臨機応変な対応力」というようにするほうが適切ではないかという。

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Law & Order 安楽死とキリスト教原理主義 シリーズ16第4話

正確には、ドラマで実行されようとしたのは、安楽死ではなく、尊厳死だ。身体につないでいる管を全部抜く手術をするという確認から始まる。夫ロバートは、妻カレンに、約束した通りにする、と呼びかけるが、カレンは答えない。かといって、植物状態ではなく、ロバートを見つめている。従って、彼女の意志の本当のところは、ドラマは明らかにしない。これが最後の場面につながっている。
 医師との確認をしたロバートは、車に乗って出ようとする。外には12団体の尊厳死反対の団体がデモと集会をして、激しくロバートを罵る。日本だったら、こんなに正々堂々と正面から出ないと思うし、アメリカでも多少の配慮をするのではないかと思うが、ここはドラマなので、乗車して少し走り出した途端に爆発して、当然ロバートは即死、まわりにいた人も4人が怪我をする。

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