『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2

 昨日に続いて、今回は石坂友司氏の「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」を考えたい。
 石坂氏は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関わりについて、ポジティブな面もあると断りながら、ネガティブな部分を強調する形になっている。ポジティブ面はほとんど書かれていない。私には、スポーツがナショナリズムと結びつくことのポジティブな側面というのは、思いつかない。昨日書いた、当初のオリンピックの価値を見ても、むしろナショナリズムを越える部分に意味があるといえる。国籍を越えて讃えあうとすれば、オリンピックとしての感動的な場面となるだろうが、勝った相手が違う国籍であるから、祝福しない、あるいは逆に、自分たちの国が勝者になったからうれしい、というようなことは、そんなにポジティブな価値とは思えない。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1

 7月号は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関係を論じた論考が二つある。 森敏生「オリパラ教育のあり方を再考する」と 石坂友司「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」だ。前者が、オリパラ教育を基本的に推進する立場、後者が疑問を呈する立場で、方向性が異なった文章だ。『教育』としては、比較的珍しい現象で、私はとても好ましいと思う。教育科学研究会といえども、見解は多様でかまわないはずであり、異なった意見をぶつけ合うことで、新しいものが生みだされていくとしたら、教科研の発展のために、とてもいいことだと思う。
 オリンピックがナショナリズムの高揚に、政治的に利用されていることは、疑いないところだ。オリンピックやスポーツの推進に、極めて熱心な人なら、それに疑問を感じないかも知れないが、私のような、スポーツ好きではあるが、あくまでも趣味だと思っている人間にとっては、過度のオリンピックの入れ込み、そして、それがナショナリズムと結びつくことについては、やはり、疑問を強く感じる。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男(昨日の補遺)

 「普遍の意識を欠く日本の思想」が収録されていないと書いてしまったが、実際には、16巻補遺に収録されていた。早速読んでみた。
 「いかなる地上の俗権をもこえた価値の存在は、クリスト教でいえば神に対して自分がコミットしているということになる。「人に従わんよりは神に従え」という復員の言葉はそれです。・・・どんなに俗権が強く、長い歴史をもとうとも、地上の権力を超えた絶対者・普遍者に自分が依拠ししているのだということが、抵抗権の根源であり、同時に教会自身が宗教改革を生みだした原因です。」
 「日本とヨーロッパのちがいはそこにあると考えます。宗教、つまり聖なるものの独立が人間に普遍性の意識を植えつける。そしてこの見えない権威を信じないと、見える権威に対する抵抗は生まれてこない。美佳ない権威、それは無神論者は歴史の法則と呼びますが、神と呼んでも何と呼んでもいい、そうしたものに従うことは、事実上の勝敗にかかわらず自分の方が正しいのだということで、さっき煎った普遍的なものへのコミットとはそういうことです。それが日本では弱い。」 “矢内原忠雄と丸山真男(昨日の補遺)” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男1

 二人とも、近代から現代に至る思想家としての巨人であるが、いつも私が不思議に思っていることがある。単純な私的興味に過ぎないかも知れないが、丸山真男は長い執筆活動のなかで、ただの一度も矢内原忠雄について触れていないことだ。丸山真男集の別巻に、人名索引があり、丸山真男が書いた文章のなかで触れられている名前がすべて掲載されているのだが、そこには矢内原忠雄の名前はない。矢内原忠雄は丸山よりずっと年長で、東大を追われたときに丸山はまだ助手(学部を卒業して次の年)だったのだから、矢内原が丸山真男について触れないのは不自然ではない。しかし、丸山真男は、助手になった年に、法学部と経済学部が軍部やそれにつながる教授によって攻撃されていた時期であり、矢内原事件が起きたのである。そして、戦後の丸山が、日本における戦争責任を問い続け、単に支配層だけではなく、知識人の普遍性に対する弱さや、そこからくる権力への迎合性を批判し続けた以上、戦争をまっこうから批判し、そのために東大を追われ、それでも屈することなく信念を貫いた矢内原忠雄を、まったく取り上げなかったのは、非常に不思議といえよう。矢内原は、丸山の直接の指導教官であった南原繁の次の東大総長であり、かつ、戦後の平和運動の中心的人物であり、直接の接点もあったはずである。南原は、矢内原についての文章をいくつか書いている。また、矢内原の没後、まとめられた追憶集『矢内原忠雄--信仰・学問・生涯--』(岩波書店)の編集責任者であり、「まえがき」の他、「真理の勝利者」「信仰と学問」という短文が掲載されている。しかし、丸山の文は当然ない。 “矢内原忠雄と丸山真男1” の続きを読む

北朝鮮情勢を考える

 半月位前までは、連日のように北朝鮮に関する話題が報道されていた。韓国の脱北者によるビラ配布に北が激怒し、金与正による罵倒が続いたあと、6月19日、南北共同連絡事務所の爆破までは、驚きの連続のように報道がつづいた。何故金与正が指示をだすのか、金正恩はどうなっているのか等々。そして、それにつづいて軍事計画が予告されたが、それは金正恩が保留を命じて、その後激しい動きは見えなくなった。北が南に向けてビラを撒くとか、あるいは軍事境界線上に大きなスピーカーを設置して、非難の声を流すなどの準備がなされてもいたが、これも中止になった。そこで、またまた様々な疑問がだされた。やはり、一市民として、こうした状況をどのように考えるのか、自分なりの現時点での整理をしておきたいと考えた。 
 疑問を思いつくままにあげてみる。 “北朝鮮情勢を考える” の続きを読む

教育学を考える14 オンライン教育も教育

 私が教育学を研究を志して以来、最も信頼する教育雑誌は、教科研の機関誌である『教育』だった。だから、50年間以上、毎号というわけにはいかないが、ずっと読み続けてきた。手持ちのものは、ほとんどを自炊して、デジタル化して読んでいる。古い時代の教育に関する議論などを参照するときには、真っ先にその当時の『教育』を繙く。「『教育』を読む会」が地域的に組織され、それは全国に散らばっている。そうしたなかで、ある読む会の中心的メンバーが、「オンライン教育は教育ではない」と主張する書き込みを見て、心底驚いてしまった。そこで、疑問を提起したのであるが、もう少し敷衍して、「教育学を考える」素材として、いろいろと考えてみたい。(A氏とここでは呼ばせていただく)
 人はどういう時に学ぶのだろうか。少なくとも最も効果的に学ぶという意味で考えれば、自分に関心のあることを、自分の意志で学ぶときに、最もよく学ぶ。これは、誰でも認めるだろう。そのことを、「学校のシステム」として実行しているのが、サドベリバレイ校の実践である。(度々触れているのでここでは説明しない。(「教育学を考える5 選択の学びの主体性」http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1607参照)もちろん、教育には多様性が必要であるから、すべてがサドベリバレイ校のようになる必要もないし、そう考えるのは空想的だろう。しかし、この学びの原則は忘れるべきではない。特に、「義務教育」として、学ぶことを強制している学校の関係者はそうだ。そして、学校というシステムそのものが、歴史的には新しい形態であり、現在のような国民教育制度は、たかだか150年の歴史しかない。人間は、学校以外のところで、たくさんのことを学んできたし、義務教育が制度として機能している現代でも、妥当する事実なのである。 “教育学を考える14 オンライン教育も教育” の続きを読む

都知事選残念な結果だ

 小池現知事が圧勝した。予想されたとはいえ、残念な結果だ。直前といってもいいが、小池氏の学歴疑惑が再燃したが、それも影響しなかったようだ。しかし、今回の立候補でもカイロ大学卒という経歴を使っているので、この問題はまだ尾を引くだろう。多くの人が指摘するように、政治家にとって、学歴は本質的な要素ではない。別に義務教育だけしか受けていなくても、実力と熱意があれば、政治家として立派な存在になれる。しかし、学歴に関して、嘘をついているということになれば、それはまったく問題が異なる。学歴という、もっとも基本的なその人の「歩み」を示す指標について、嘘をついているということは、選挙民に対して、自身の人生に関して嘘をついていることになる。そんな人間を信頼することができるはずがない。 “都知事選残念な結果だ” の続きを読む

文科省道徳教「二通の手紙」

 文科省の道徳教育資料の教材に「二通の手紙」という文章がある。これは、「権利と義務」「社会のルール」の大切さを学ぶという教材のようだ。毎回の断りだが、これは、この教材をどのように教えるかという考察ではなく、大人として、まずこの教材を読んで考えることについて書く。
 動物園の入場管理をしている二人の会話から始まる。高校生らしい二人ずれが、ほんの少し入園終了時間を超えた時点で、入場券を買おうとして、少しだからいいじゃないかという、たぶん若い山田と、だめだという年配の佐々木が言い争っているわけだ。そして、佐々木が、高校生に、「規則上いれるわけにはいきません」と断ると、高校生は不服な顔をしながらも、去っていった。そして、納得がいかない山田に、佐々木が若いころの体験を話す。
 定年間際に妻を亡くした元さんが、仕事ぶりをかわれて退職後に引き続き働くことができるようになる。毎日、小学3年くらいの女の子と、3,4歳の弟が、動物園のなかを覗いている。そんなある日、入園終了時刻を過ぎて、入り口を閉めようとしていると、その二人がやってきて、いれてとせがむのだが、元さんは、子どもたちに、「もう終わりだよ。それに、ここは、小さい子はおちうの人が一緒じゃないと入れないんだ」と断る。しかし、女の子が「今日は弟の誕生日だから、見せてやりたかった」と泣きださんばかりになったので、特別にいれてあげた。
 ところが、閉館時間になって、客が帰ったのに、その子たちは出てこない。職員をあげて探すことになり、一時間もたって、園内の雑木林の池で遊んでいるところを発見した。その後、二通の手紙を受け取ったというのが、この文の表題になっている。 “文科省道徳教「二通の手紙」” の続きを読む

Law & Order リアルタイム番組のでのトラブル 誰の責任か

 テラスハウスの番組の内容で誹謗中傷を受けた出演者の中村花さんが自殺した事件は、記憶に新しい。私自身は、この手の番組を見ないので、番組にかかわることはわからないが、その後のSNS上の誹謗中傷については、関心があり、ブログに既に書いた。ただ、この事件の問題には、番組そのものの「やらせ」要素もずいぶんと議論になっているようだ。台本はなく、ごく自然に起きていることをカメラが追う、というふれこみだが、台本があるのではないか、台本ではなくとも、何らかの指示があるのではないか、しかも、対立を煽るような指示があるのではないか、というようなことが、多くの人に疑念として抱かれているのだろう。もし、これが、アメリカで起きた事件ならば、何らかの裁判になった可能性がある。もちろん、日本でも今後、何らかの提訴もありうるのだが。
 Law & Order をずっと見ているのだが、そのなかに、まさしくリアルタイム番組を扱ったテーマがあった。2000年に放映されたシリーズ11の15回目「特別エピソード」である。当時、アメリカでもリアルタイム番組が、いろいろと議論になっていたのだろう。内容は以下の通りだ。 “Law & Order リアルタイム番組のでのトラブル 誰の責任か” の続きを読む

事前の訴えがあったのに放置して刺殺事件が

 共同通信2020.7.3によると、名古屋氏で会社員が刺された事件で、刺した犯人が、事前に警察に電話していたのだという。「いらいらして人を刺したい」と電話して、応対した署員が「切迫した問題はない」と判断して、人身安全対策を担当する生活安全課や県警本部に報告しなかったという。そして、県警への取材に対して「被害者が亡くなったのは残念だが、対応に問題はなかった」としていると書かれている。
 電話が事前にあり、なんら対応をしなかったために、被害が起きたのだから、「対応は多いに問題があった」とほとんどの人は考えるだろうし、アメリカならば、被害者が確実に警察署を訴えるだろう。こうした被害を訴えない日本人の感覚が、問題ある警察の行動を放置していると、私は考える。最も頻繁におきるのは、パトカーに追跡された車が第三者を巻き込んだ事故を起こすことだ。その場合には、最も悪いのは逃げた車の運転手であるが、不用意に追跡すれば、事故が起き、死傷者がでることはかなりの確度でいえることだ。実際に、そうした事故が頻繁に起きているのだから。この場合でも、巻き込まれた被害者が、警察を訴えることはあるのだろうか。少なくとも、そうした報道はない。 “事前の訴えがあったのに放置して刺殺事件が” の続きを読む